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第六章 それぞれの兆し

6-3 マルス ~ロザリンの試し

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 クレインは思わず肩を抱いて、耳元で囁いた。

「ロザリン殿、決して貴方の性ではない。
 仮に駐屯部隊がいたにしてもかなりの被害は免れなかったでしょう。
 全ては運命がなせる業、仮に小港へ部隊を派遣したのが失敗であったにしても、そのお蔭で私はロザリン殿の危急を救えることができた。」

 ロザリンはクレインの胸に顔を隠すように少しの間声も立てずに泣いていた。
 それからふと気づいた様子でロザリンが後ずさった。

 耳まで赤くしながらロザリンは言った。

「失礼をいたしました。
 先ほど遭ったばかりの殿方の胸で涙を流すなど、はしたない真似をしてしまいました。
 失礼ながらクレイン殿は、おいくつにございますか?」

「私は19になりました。」

 ロザリンは明らかにほっとした様子を見せた。

「私は17歳と半年ほど、もしあなたが私よりも年下ならば私はあなたに手さえ触れてはいけなかったはず。
 でもそうでなくてよかった。
 お顔も衣装も血だらけですわね。
 侯国王宮の別邸がすぐ近くにございます。
 そちらで身ぎれいにして少しお休みにはなりませんか?」

「いえ、ロザリン殿とゆっくりしたいのはやまやまなれど、部下を掃討の任につかせています。
 日暮れ近くまでは、この場で部下を待ちたいと存じます。
 ロザリン殿、貴方は屋敷に戻られて身ぎれいになされた方が宜しい。
 折角の美貌が台無しになっています。」

 ロザリンは初めて笑みを見せた。

「あら、嬉しい。
 こんな私でも綺麗と思って下さるのですね。」

「それはもう、もちろんです。
 貴方がその血潮にまみれたお顔を綺麗にされたならどれほどの美人になることか。
 それにしても何人海賊をお斬りになったのですか?」

「そう、5人までは覚えていますが、そこから先は無我夢中でした。
 何人敵を討ったのかはわかりません。
 剣を持つ手が明らかに力を失いつつある頃、私は死を覚悟していました。
 そうしてふと気づくと敵が算を乱すように狼狽しているのを目にし、すぐにクレイン殿の戦いぶりを目にしました。
 あっという間に4人を倒され、当たるを幸いなぎ倒された。
 私にはとてもあのような剣裁きはできないでしょう。
 いずれにせよ、私は屋敷に戻って衣装を変えたいと思います。
 お願いですから、夕刻には必ず別邸の方へお越しください。
 案内の者を一人寄越します。」

 ロザリンはそう言って二人の警護の者と一緒に丘に向かう道を歩いて行った。
 ロザリンは無傷であったが、警護の者は軽傷ながら何れも怪我をしていたようだ。

 夕刻間近になってドレドランの守備隊150名が戻って来た。
 彼らは事情を確認すると直ちに山地に逃れた海賊の山狩りを始めたのである。

 そのお蔭で夕刻前には騎士団の討伐隊は戻って来たのである。
 騎士団を取りまとめ、街の警護のために約半数を残し、残りは船に引き揚げさせた。

 その上でクレインは近くの川で上半身裸になって血のりを洗い落とした。
 甲冑を脱いでしまえば血のりを浴びたかなりの部分が無くなった。

 そうは言っても未だに衣装のかなりの部分に血のりが残っている。
 こんな衣装で王宮の別邸に行くのもはばかられ、いっそのこと船に戻って着替えをしようかと思っていると、一人の老人がやってきた。

 衣装からおそらくは侍従ではないかと思われる。

「クレイン様にございましょうな。
 ロザリン姫が別邸にお越し下さるようにと仰せにございます。
 私は侍従のハマンドと申します。」

「ハマンド殿、わざわざの出迎えご苦労にござる。
 したが、この血潮を浴びた格好では流石にお屋敷には伺いかねます。
 一度船に戻って着替えをした後参ろうかと存じます。」

「いいえ、そのままのお姿にて宜しゅうございます。
 館では既にお召しかえも用意されてございますれば、どうかそのままで。
 姫様がお待ちかねにございます故、船に戻られれば、その間に陽も完全に落ちてしまいましょう。
 夜間の小舟での往来は危のうございます。
 できれば避けた方が宜しきかと。
 訊けばわざわざ警備のために一部の騎士を留め置かれたとか。
 既にそれらの騎士の方々の休息所の手配も付いておりますれば、間もなく騎士団の方々にも使いが参りましょう。
 おそらくこの近くにございますドレドラン駐屯所が騎士団の方々の仮の詰所になるはずにございます。」

「左様か。
 なればお言葉に甘えさせていただきます。」

 クレインはそのまま甲冑を伴の騎士に預けて、ハマンドの案内に従った。
 侯国王家の別邸は小高い丘の上に有った。

 ハマンドの説明によれば、先の津波の被害も別邸までは届かず、また津波の被害もマルビス程に大きくなかったようであるが、それでも市街地の三分の一ほどが流されてしまったと言う。
 夕焼けの中で見渡す市街地は石造りの家は少なく、ほとんどが木造であった。

 流石に津波から1年半と言う短い時間であるため海岸付近は更地が多かった。
 ドレドランでも海岸部に必要な工舎や倉庫などは新たに建て替えても、住居はできるだけ高台に移したようである。

 クレイン達が救援に駆け付けた際に燃えていたのは造船所であり海岸部に近い商人の家などで有ったらしい。
 別邸に着くとすぐに湯殿に案内され、湯を浴びて出てくると着替えの衣装が用意されていた。

 衣装はクレインの身体に馴染んでいた。
 かなり高級な衣装で有ることから或いは侯国王家の縁の品である可能性が高い。

 湯殿から出たクレインはすぐに奥の間に通された。
 そこには見事な宮廷衣装に着替えたロザリンが待っていた。

 ロザリンは優雅に立ち上がり、改めて挨拶を交わした。

「それにしても、お兄様の衣装が良くお似合いです。」

「あ、やはり、・・・。
 しかし王族の衣装を借りても宜しいのでしょうか?」

「何を仰られますか。
 クレイン様は私の命の恩人でありこのドレドランを賊の蹂躙から救ってくれたお方。
 この衣装はお兄様が若い頃に着ていた衣装ですが、もうすっかりお太りになられてこの衣装は着ることもできないのです。
 ですからご遠慮なく。
 それにクレイン殿も私の記憶に間違いが無ければ、私の義理の御姉様のお血筋を引いていらっしゃるお方。
 そうではございませぬか?」

「はい、確かに侯国王の第一王子に嫁がれたバルディアス王家の一の姫様は親族になります。
 私の祖父が前国王の弟になりますので。」

「左様でございますわね。
 でもお義姉様からはクレイン殿がかような優れた剣士であることは伺っておりませんでした。
 あと、確か妹様がいらっしゃるとお聞きしました。」

「はい、アンリと言う今年15になった妹が一人おります。」

「まぁ、そうなのですね。
 妹様はもうどちらかに嫁入りがお決まりですの?」

「いいえ、まだそのような話はありませんが、当人はもうすでに相手を決めているようです。」

「あら、親が決めた相手ではなく、当人が選んだのですか?」

「はい、そのようです。
 私から見ても似合いの二人です。」

「あらまぁ、クレイン様もご存じの方ですのね。
 どちらの方なのですか。」

「カルベック伯爵の一人息子でマルスというものです。」

「カルベックのマルス殿・・・。
 風の噂で聞いたことがございます。
 バルディアスとベンシャ公国との戦役の際に活躍なされた年若いお方。
 誰しもが思いつかぬ奇策を用いて一兵も失わずに2万もの敵の大軍を降伏に至らしめた知恵者と聞いております。」

「そうです。
 今は16歳になっていますが、背丈は私よりも高い偉丈夫ですし、学士そこのけの知識を持っている男です。
私の剣の師でもあります。」

「まぁ、クレイン殿の師匠と言うと、クレイン殿よりも御強いのですか?」

「ええ、彼と稽古をしていると自分が幼い子供に見えるぐらい力量に差があるのがわかります。」

「でも、普通ならばそうした年若の者に教えを乞うなど中々できないでしょう。」

「ふむ、男の誇りと言うか矜持と言うか痛く傷つきますが、現実には勝てません。
 ならば、その現実を踏まえて何でも教えを乞うのが私の生きる道と思っております。」

「でも、私の見る処では、クレイン殿の腕前は、王宮剣術指南役のマルメデスよりもはるかに上のように思えますが、如何でしょう。」

「さて、マルメデス殿と稽古をしたことは無いのでわかりませんが、かなり上達したとは思っています。
 以前は、サディス公爵家の剣術指南役と稽古をして、三本とも負けていましたが、最近は逆になりましたから。」

 ロザリンは頷いた。

「あの太刀筋は一朝一夕では身に付きません。
 私はマルメデスと立ち会ったなら貴方の方が三本とも勝つような気がします。
 ところで、クレイン様。
 クレイン様はどなたか妻となる方をお決めでございますか?」

「いいえ、目下募集中と言うところです。」

 それを聞いてロザリンの顔が更にほころんだように見えた。

「では、別の御話。
 私から三つほどお聞きしたいことがございますけれどお答えいただけましょうか?」

「はい、私の応えられることであれば何なりと。」

「では、恐れ入りますがお答えください。
 4教書には、種々の訓示がなされていますが、其の内、マディラの書には、人として生きるために大事なものが5つあると記されています。
 その5つについてその具体的意味や解釈を含めてご説明ください。」

「おやおや、何かの試験のようですね。
 マディラの書では、本来人の有るべき姿として、仁、儀、忠、孝、礼、智、信、悌の徳を持つべきとし、其の内のさらに仁、義、礼、知、信を最小限度必要な徳として生きる拠り所にすべきと説いています。
 仁とは人を愛することに通じるものであり、男女の愛ではなく普遍的な人類愛そのものではないかと思っています。
 男女の愛は互いに求め合うものですが、仁は見返りを求めない愛、言い換えれば母の子に対する愛情、慈愛に似ていると存じます。
 儀とは、人が生きて行く上において持つべき規範であり、原動力ともなり得るもの。
 儀をもって律すれば自ずとその行動は正義となります。
 私が今回ドレドランで救援の手を差し伸べたのもある意味で儀に適うものと思っています。
 礼とは人が社会で生きて行く上で守るべき準則であり、場所時代により変化はしますが、人が寄り添って生きて行くには欠くべからざるもの。
 礼が過ぎると余所余所しくはなりますが、一方で礼を欠くと人間関係がぎくしゃくとして上手くゆかなくなります。
 智とは、人が生きて行く上で身に付けなければならない技術、知識であり、学問とは少し異なると思います。
 学問は定型的なものを教えるだけですが、智とはその学問で得た知識を生かす技でもあります。
 人が諍いを起こしたときにどうやって収めるべきか或いは和解をすべきかを考える元が智であると思っています。
 信とは、人を信ずる心ではありますが、同時にその信ずる者を選ぶことが大事です。
 また逆に人から信を得られる人物になることこそ必要なことで、マディラはそのことを重視していると思います。
 人を信ずるよりも人に信じられる人になるべくそれぞれが努力を成すことが人の世では大事だと言っているのだと思います。」

 ロザリンは、ふうとため息をついた。
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