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第二章 それぞれの出会い

2-15 マルス ~王都参内 その六(重奏)

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 恭しく彫金の施されたモルゼックを手に取り、吸い口を小布で拭いてから、両手に構えて、口づけ、一連の音を出した。
 アンリがため息をついた。

「とてもいい音色。
 今私が使っているモルゼックも良い品の筈だけれど、それに比べると何というか・・。
 淀みが無いわ。
 そう一切の外連見けれんみの無い音が出せる。」

 アンリは一心不乱にカイヨのタムセールという曲を奏で始めた。
 綺麗な音色が室内に響き渡る。

 しばらくの間アンリは演奏に没頭した。
 演奏が終わると、マルスが拍手をしてくれた。

「アンリ殿の腕前は確かにそのモルゼックにふさわしい水準に達しています。
 欲を言えば、運指うんしがもう少し滑らかに行けばもっと良い音色になるし、息遣いをより長く我慢できるようになれば更に良い音が出るでしょう。
 いずれもアンリ様の体格が成長すればより楽になるはずです。
 指の開きが狭い分、損をしていますし、肺活量の不足が音の強弱に影響を与え、そうして長い音を出すときに息切れがするはずです。
 タムセールは全体にゆったりとした曲想ですが、そのために一節ごとの時間が長い。
 今のアンリ様にはタムセールよりもリズム感がありピッチの速い、ラソールが似あっているはずです。
 あと二年辛抱なさい。
 そうすればタムセールもアンリ様が望むように演奏できます。
 今の段階では、今の演奏が最上の部類です。
 五大楽師団のうち紫ならば今の腕でも末席を穢すことはできるかもしれません。」

「まぁ、本当に?
 本当にそう思ってくださるのなら嬉しいわ。
 マルス様は楽器に憧憬が深いと聞いていますけれど、御自分では演奏はなさらないのですか?」

「カルベックの屋敷では時折演奏をしています。
 全くの自己流ですけれどね。」

「でも、伯爵家にはお抱えの楽師が居られるはず、その方に習ったりはしないのですか?」

「楽器の種類によって初めて扱う際には教えを乞いましたが、その後は自己流で練習しています。
邸の楽師から教えてもらうことはあまりないと思います。」

「もしかして、その楽師様たちよりも数段上の腕ということですか?」

「うーん、そう言っては楽師の立場がありませんね。
 そうではなく、より高い感性を求めていろいろと探している途上にあると言うことでしょう。」

「では、このモルゼックも演奏できますの?」

「ええ、できると思います。」

「お願い、是非演奏してくださいな。」

「宜しいですよ。
 但し、アンリ様との二重奏を致しましょう。
 普段お使いになっているモルゼックはありますか?」

 アンリは嬉々として、部屋の隅に有る棚からケースを持ってきた。

「アンリ様はそのダランデック作のモルゼックをお使いください。
 僕にはこちらの古い方をお貸しいただけますか?」

「はい、マルス様がそれでよろしければ。」

 マルスはケースを開いてアンリが普段使用しているモルゼックを手に取った。
 贈り物にしたモルゼックに比べると見栄えはそこそこだが確かに造りが悪い。

 吸い口を小布で拭いてから一連の音階を出してみた。
 いくつかの音階で少しずれている部分がある。

 普通に聞けば多分気にはならないだろうが、音にうるさい人が聞けば嫌な音色に感じてしまうだろう。
 音階が本来よりも64分の3の範囲内で僅かにずれているのである。

 そうしてそれは運指により矯正が可能な範囲であった。
 但し、高度な技であるのでアンリには難しいだろう。

 マルスはその音階だけ運指を調整して再度一連の音階を奏でた。
 その途端、アンリが驚いた顔をした。

「マルス様、一体どうやって・・・。
 一回目の音色と二回目の音色が違います。」

「うん、このモルゼックは少し造りが悪いようですね。
 音が少しずれている部分があります。
 それで、指の位置を少し変えることで微妙な調整をしているところです。
 もう少し待ってね。」

 再度マルスは一連の音階を奏でた。
 マルスは頷いた。

「はい、準備はできましたよ。
 アンリ様の好きな曲或いは得意な曲でラソールはありますか?」

「はい、得意ではないのですけれど好きな曲はマリのラソール、カレルのラソールが割合引きやすいかも。」

「では、アンリ様の好きなマリのラソールにしましょう。
 得意な曲はいつでも弾けます。
 好きだけれどあえて得意な曲から外したのは少し難しい部分があるからでしょう。
 それに挑戦です。」

「でも、マリのラソールはモルゼックの単独練習曲で重奏曲ではありませんよ。」

「そうですね。
 アンリ様は譜面の通り演奏してください。
 勝手に僕が音を重ねます。
 但し、僕が奏でる音色に惑わされないようにね。
 アンリ様の音色とは違う音が出ます。」

 アンリは不安を感じながらも頷いた。
 アンリが最初の出だしの一節を奏でるとすぐにマルスの音色が重ねられた。

 その音色は実に巧妙で、アンリが唖然とするほどであったが、同時にその音色につられずに譜面通り演奏するのが大変であった。
 アンリは何時しかその演奏にだけ没頭し、陶酔していた。

 重ねられる音色がとても心に響いていたからである。
 二重奏が終わった時、アンリはどっと疲労感を覚えていた。

 それでも興奮気味に語った。

「凄いわ。
 マルス様、譜面も無しにこれほどの重奏ができるなんて・・・。」

 マルスが笑みを見せながら言った。

「アンリ殿の出来も素晴らしかった。
 とてもいい二重奏ができましたね。」

 そのとき、遠慮がちにアンリの部屋が叩かれた。
 宴の始まる時間を告げに女官がやってきたのだった。

 アンリはモルゼックをケースに仕舞うとそれを押し抱くように部屋を出た。
 父母に贈り物を披露するためである。

 宴はサディス家の者と招待客用であったが、デラウェアとレナンの席も用意されていた。
 宴の合間の語らいは和やかでとても親しいものだった。

 マルスの博学にサディス家一同が驚くとともに、アンリが贈り物のモルデックを披露すると是非に演奏をしてほしいと侯爵夫妻から依頼をされた。
 どうやら、先ほどの演奏が屋敷の中にも聞こえており、普段以上に見事な演奏が聞かれたからであったらしい。

 アンリが頬を染めながら言った。

「マルス様も宜しければ、御一緒に演奏をお願いできますか?」

「僕もですか?
 余り晴れ舞台に立つのは得意じゃないけれど、アンリ殿のお願いならばお受けしないわけにも行かないでしょうね。
 少し待っていただけますか。」

 マルスは傍に佇んでいたサディス家侍従のボドレスに何事か囁いた。
 ボドレスは頷いて食堂を出て行った。

 戻って来たとき、ボドレスは楽器のケースを持っていた。
 胴の膨らみと大きさから弦楽器とわかる。

 それを受け取ったマルスが言った。

「アンリ殿はモルゼックを、僕はサリューズを演奏しましょう。
 モルゼックとサリューズの重奏です。
 アンリ殿、演奏する曲を選んでくれますか?」

「はい、では、先ほどは演奏できなかったカレルのラソールをおねがいします。」

 それを聞いたアマンダ夫人が口を挟んだ。

「あら、アンリ、カレルのラソールはモルゼックの演奏曲で、サリューズとの重奏曲ではないわよ。」

「はい、十分承知しております。
 でもマルス様なら合わせて頂けます。
 ね、マルス様?」

 マルスは笑みを浮かべながら頷いた。
 弦を張り、調律するまでに少し時間がかかったが、やがて、マルスがアンリに向かって頷いた。

 アンリがそれに頷き返し、モルゼックを構えて演奏を始めた。
 追いかけるようにサリューズの音色が響き渡る。

 カレルのラソールは、とても若い男女の恋の物語であり、はつらつとしたテンポが身上の曲である。
 切れの良いモルゼックの音色と重なる清流の流れにも似たサリューズの音色が溶け合って、情景が間近に見えるような演奏が続いた。

 誰しもが自らの初恋の思い出に浸っていた。
 演奏が終わった時、会食者と給仕をしていた者全てから暖かい拍手が沸き起こっていた。

 サディス侯爵が言った。

「アンリのモルゼックの腕が上がったのかな。
 これまでになくとても見事だった。
 それに合わられせるマルス殿の技量は並外れているとしか言いようがない。
 赤や青の楽師でもこれほどの演奏ができるかどうか。」

「侯爵殿、アンリ殿の腕前は以前からかなり上のものでした。
 ただ、使われているモルゼックに少し欠陥があったのです。
 中級者までならば使うには支障が無い品ですが、上級者が使うには不足のある品だったのです。
 更なる上級者ならばその欠陥を補いつつ演奏も可能ですが、アンリ殿の今の技量では体格と共に無理がありました。
 アンリ殿はまだまだ成長期、あと二年か三年もすれば更なる上達が見込まれます。」

「ほう、前のモルゼックは私の母が生前にアンリに贈ったもの。
 代々我が家に伝わるモルゼックで中々に見栄えが良いものと自負していたのだが、品としては悪いものなのですかな?」

「確かに素晴らしい彫金が施してございますから飾っておくには見事なのですが、実は音を出した時に音階にほんの少しずれがございます。
 先ほども申しましたように中級者までならばそれに気づかずに演奏も可能ですが、上級者になればなるほどその音色に疑問を持つことになるでしょう。
 アンリ殿もその段階に差し掛かっており、自分の演奏に自信を失いかけていました。
 今手にされているモルゼックは一級の楽師が使っても何ら差し支えないほどの名品です。
 ですからアンリ殿も自信をもって演奏ができるし、これからのさらなる上達も見込めるはずなのです。」

 アンリが追いかけるように言った。

「このモルゼックは、私が王都に来た時から目を付けていたものなのです。
 でも少々お高い品で、私のような者が使うにはもったいないと思って、御店の番頭さんにはできれば二、三年売るのは待っていただけないかとお願いしていたものなんです。
 先日見た時には非売品の札が貼られていました。
 知り合いの番頭さんに尋ねて、私のためにそうしてくれたとわかりました。
 ですから二年経ったらお父様にご無理を申し上げようと思っていた所なんです。
 それをマルス様が贈り物としてくれたのですよ。
 想像していた通り、とてもいい音色のモルゼックで本当に惚れ込みました。
 まして、マルス様からの贈り物ですから、私の生涯の宝物です。」

 侯爵が頷きながら言った。

「なるほど、楽音を知る者同士、品物の良さは我々凡人には判らないが、アンリの命を救った奇縁で知り合い、王宮の舞踏会で未だ元服前の二人が競技会の第一の栄誉直前に迫ったほどの息のあった踊りは誠に見事なものと我ら夫婦も見ていたからよく知っているが、アンリがよくあれほどに踊れたものと感心しているよ。
 そうして今またここで聞いた演奏もそれに勝るとも劣らぬ良き演奏だった。
 これを機にアンリと良き交友を深めてくれるとありがたい。」

 サディス侯爵の言葉は公的にマルスとアンリの交友を認める発言であった。
 普通はこうした発言は婚姻間近の男女に言う言葉であるが、ある意味でそうした許嫁の関係になるまでの交友を認める発言にもなる。

 これで、サディス侯爵からカルベック伯爵に正式に申し入れをし、カルベック伯爵がそれを受ければ、仮に幼くても良家の間で婚姻の約束ができたことになるはずである。
 マルスはそれほどサディス侯爵に気に入れられたということになる。

 サディス家の宴はしめやかに終わり、マルスはサディス家差し回しの馬車で帰路についていた。
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