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第二章 それぞれの出会い
2-1 マルス ~楽師との出会い
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マルスが9歳を迎えた初冬に、カルベック荘園に楽師の一行が訪れた。
バルディアスのみならず、エルモ大陸全域をいくつかの楽師団が巡回している。
其の多くは、バルディアスを訪れた際には必ず王都サドベランスに立ち寄り、その周辺の一つか二つの荘園領にも立ち寄ることになる。
カルベック荘園を楽師団が訪れるのは8年ぶりのことであった。
カルベックの屋敷にも楽師はいるが、こうした巡回の楽師団に比べると数段技量が劣るのが常である。
王宮お抱えの楽師でさえ巡回楽師団には敵わないのだから無理もないことではある。
その年、カルベック荘園領に入った楽師団は青色楽師団であった。
巡回楽師団は色で区別されているが、最も技量の高いのは赤色と青色であり、その次が黄色、緑色と続き、紫色が一番技量も劣るだろうと言うのが市井の噂であるが、その紫色楽師団でさえ王宮の楽師団を超える技量の持ち主で構成されているらしい。
ハヤ月12日、慰問を兼ねて館の公会堂で行われた久々の演奏会には多数の領民が集まった。
もっとも、一人20ラドの拝聴料は安くは無いから、楽音に興味のないものが集まるわけではない。
10ラド銀貨一枚が有れば親子三人が結構贅沢な昼食を楽しめるはずである。
それでも100名を超える男女が思い思いに着飾って公会堂に集まっていた。
そうした中に伯爵夫妻とマルスもいたのである。
楽師団は総勢で24名、それなりの年齢であり、若い楽師は少ない。
20代と思われる楽師が2人、30代と思われる楽師が3人ほどだけで、あとは40代以上の楽師である。
団長を務めるマイヤー・デリスは齢61になると言う。
団長自らが演奏の前にそれら構成員の説明をしていた。
そうして演奏が始まった。
休憩を挟んで4曲が演奏されていた。
巡回公演の際には必ず演奏される古の名曲「四季」、巡回の時期に合わせた季節の曲は「冬の大地」、五穀豊穣を願っての祭り曲は「収穫祭」そして訪れた土地に因んだ曲は「タナルの流れ」である。
タナルとはこのカルベック荘園領の境界付近を流れる川で、カルベック荘園領の大部分はここからの取水で農園を営んでいるのである。
休憩のとき以外、マルスはじっと身じろぎもせずに傾聴していた。
演奏会の翌日夕刻、ノームの招きで恒例の晩餐会が伯爵邸で開催された。
楽師全員が招かれ酒食の供応を受けるのである。
その代わりに楽師団も1曲だけ答礼の演奏をするのが習わしであった。
最初に宴があり、その後に演奏することになっている。
宴の中でマルスもホスト側として紹介を受けた。
マイヤーは目を見張り、それから言った。
「マルス殿の噂は王都サドベランスで様々お聞きいたしました。
9歳にして学問を収め、武術についても並ぶもの無き天才とか。
9歳という年齢からして、今少し小さき方かと思うておりましたが、これほどの偉丈夫とは・・・。
マルス殿、昨夜の我らの演奏を聞かれ如何思召されましたかな?」
微笑をたたえてマイヤーが訊ねた。
マルスはその目をまっすぐに見ながら言った。
「はい、さすがに噂に高い青色楽師団の演奏にございます。
見事な音色に聞き惚れておりました。
ただ、一つ、不躾ながら師にお伺いしても宜しいでしょうか?」
「はてさて、なんの問いでござりましょうや。
楽音ならばともかくその他の事には疎い我らです。
我らにお答えできるご質問なれば如何様にもどうぞ。」
「はい、昨夜三曲目の演目である「収穫祭」の中ほどで、二人の方が少し出遅れた部分があるように感じましたが、あれは元々そのような演奏方法であったのかどうか確認をいたしたかったのです。」
途端にマイヤーの笑みが消えた。
その上で静かに問い返した。
「それはどのあたりか覚えておられましょうか?」
「おそらくは収穫に励む農民が大声で音頭を取る場面をイメージした曲想の辺りでしょう。
私は楽譜を見ておりませんので定かではありませんが、次のような音階の直後です。」
マルスは、激しく上下する音階をハミングした。
マイヤーは目を瞑った。
それから首を振った。
「ケルガー、それにアセル、このように確かな耳をお持ちの方もいる。
精進せねばならぬぞ。」
名を呼ばれた二人の若い楽師は真っ赤になって俯いた。
「さてさて、マルス殿。
お手前の耳は信じられぬほど確かにございます。
僅かに32分の1ほど出遅れた二人の出だしを正確に言い当てられました。
あそこはこの二人の未熟が招いた失敗でございます。
但し、マルス殿のハミングにあるとおり極めて音階の上下が激しい部分にございます。
あの失策を見逃さないのは楽師でもかなりの力量をお持ちでなければ難しいと思われます。
サーナム殿、お手前は気づかれていましたか?」
「いや、正直なところ、私は気づかなかった。
何となく違和感はあったが、それが何かわからぬうちに演奏は進んでいた。」
マイヤーは頷いた。
「楽師であってもこの通りにございます。
我が楽師団の中でもそれに気づいたは半数ほどでしょう。
残りは、違和感は拭えなくとも自らの役割に没頭しておりました。
マルス殿は楽音にも天分をお持ちなのかもしれませぬ。
マルス殿、他に我らの演奏で気づいた点があれば教えて頂けませぬか?」
マルスは、少し躊躇ったようだったがやがて口を開いた。
「師のせっかくのお言葉ですので、敢えて申し上げます。
三つほど・・・。
モノビスを弾かれた方のお名前は存じませんが・・・。」
「サルミにございます。」
40代の男が答えた。
「サルミ殿、弓を弾く右手を痛められましたか?
弓の扱いにやや硬さが見られました。
肘の辺りを後で我が家の薬師に見て頂いては如何でしょうか?
薬師のマリクドは、良き薬草を持っています。
数日の治療で元に戻ると思いますが、そのまま放置すれば日々痛みが残るようになるかも知れません。」
驚きの表情を浮かべながらサルミが答えた。
「はい、確かに王都からこちらに参る途中凍った道に足を滑らせて荷馬車に嫌と言うほど右肘を打ち付けました。
多少の青あざができているものの、演奏に支障はないものと思っておりましたが、落ち度がありましたでしょうか?」
「いいえ、演奏は正確なものであったように思います。
但し、モノビス本来の音色に伸びがございませんでした。」
「なるほど、音色の伸びですか・・・。
これは、私も精進せねばなりますまいな。」
次いでマルスが口を開いた。
「クルードを弾かれた方は?」
50代の男が緊張しながら言った。
「私、ノムレーヌでございます。」
「高音部を弾かれるときに僅かに歪みがありました。
おそらくは胴板の中の横木の一部に接着剤の剥がれができているのではないかと思います。
低音部では目立ちませんが、高音部では共振して歪んだ音が僅かに生み出されているようでした。
おそらく冬場の移動により暖かい場所と寒い場所の繰り返しが接着剤の剥がれを生じさせたのでしょう。」
ノムレーヌもまた驚愕の表情を浮かべていた。
「私だけしか知らぬことと思っていましたが、・・・。
マイヤー様、気づいておられましたか?」
「いや、それは知らなんだ。」
「顎にかけた胴板が高音部でやや振動するのです。
音はほとんど変わらないと思っていたのですが、そうではなかったようです。
できるだけ早めに直したいと考えておりますが、この辺りではサドベランスまで戻らなければ修理は難しいかもしれません。」
だがマルスが異論を唱えた。
「失礼ながら、修理をすると共鳴板に大きな変化が生ずるかも知れません。
一つには、古くなった部材に新たな接着剤を使用することは、乾いて安定するまでに時間がかかるのでできるだけ避けた方が良いこと。
今一つは、既に横木が僅かに変形している可能性がありますので、仮に横木を取り換えるとなればどうしても新たな部材が経年変化により曲がりを生じます。
その修正には何年もかかることになるでしょうから、叶うならば新たな楽器をお求めになる方が宜しいと存じます。」
ノムレーヌは困惑していた。
使っている楽器には愛着があるのである。
だが、そうした楽器もダメになることがあるのは重々承知してはいたが、これほど早い時期に来るとは思っていなかったのである。
「接着剤の剥がれは、寒暖の繰り返しでより大きくなります。
この冬を旅で過ごされるならば、春が来るころには高音部の歪は演奏自体を難しくするほどに大きくなるでしょう。
楽師の方々がそれぞれの楽器に愛着を感じておられるのは重々承知しておりますが、楽器にも寿命があります。
元の音色の復元を目的として修理を成されるならばある意味で大修理。
腕の良い工房で先ず5年を見て頂かねばならないかも知れません。」
衝撃的な話である。
図体は大人ほどにもあるが僅かに9歳の子が言える話ではない。
「失礼ながら、マルス殿。
貴方様のお言葉はまるで工房の親方が言う様でさえもございます。
どこでそのような知識を手に入れられましたかな?」
「私の知識は耳学問、それに書籍しかありません。
但し、木材の知識を覚えれば、寒暖の差が木材にどのような影響を与えるか、楽器のように微妙な力関係にある筐体に応力がどのように作用するかはおおよそ推測できます。
楽器の構造については、お抱え楽師のサーナム殿に教えていただきました。」
マイヤーはまたも首を振った。
「いやはや、とてもマルス殿が9歳とは思えなくなり申した。
私と同年代の練達者としか思えないほどです。
マルス殿は最初に三つと申されましたが、あと一つは?」
「これも申しあげてよいものやら迷いますが、曲の解釈になるのかもしれません。
「四季」は春夏秋冬を表す演奏かと存じます。
春は生き物がその生を謳歌する爛漫を表し、夏はその生が最も力強い時期、秋は物悲しくも来たるべき冬に備えて準備に入る時期であり、収穫の時期でもあります。
祭りが多いのもこの秋の時期、そうして冬はひたすら耐えて来たるべき春に備える雌伏の時なのだと思います。
皆様はその四季折々でテンポを変えられておりました。
ですが、春夏秋冬はそれぞれの季節ごとに同じテンポであったように思います。
四季はそれぞれ移ろいます。
その時期は実は明確ではないのです。
冬に近い春、夏に近い春、夏に近い秋、冬に近い秋、夏と冬にもそのような移ろいがあるはず。
春夏秋冬を演奏するに当たりそのテンポを微妙に変えて行くことで自然の移り変わりをより表すことができるのではないかと感じました。
其の分、昨夜の演奏はやや硬い演奏だったと感じています。」
マイヤーを始め、楽師の一同は唖然としていた。
彼らに曲想から来る解釈でテンポをも徐々に変えるなどと言う発想は無かったからである。
彼らは忠実に楽譜を再現し、和音をいかに美しく聞かせるかを競っていた。
テンポは楽譜にも書いてあるが、ある意味でそこは自由裁量の分野でもあった。
そうして彼らが演奏する時には、四季折々の最初のテンポに概ね合せるだけであったのである。
春なら春で一定のテンポを保ち続けるだけでよいと考えていた。
だが、わずかに9歳の神童がその既成概念を打ち破ったのである。
「なるほど、マルス殿の御説は判りました。
だが、我らにしてもその実現はかなりの努力が必要です。
一同一層の精進をせねばなりますまいな。」
晩餐会の宴の後の演奏はこれまでになく気合の入ったものになった。
そうして、この年の後、5つの楽師団の演奏場所にサドベランスの他に必ずカルベック伯爵領が含まれるようになった。
彼らの巡回は連絡をし合って、それぞれに手分けして行っており、楽団同志が同じ国でかち合うことのないようにしているのであるが、マルスと言う若き楽音の天才がいるという一事で、毎年バルディアス王国には一つの楽師団が訪れるようになったのである。
そうして青色楽師団の演奏会の後、マルスの部屋からは色々な楽器の音色が聞こえるようになっていた。
最初の1日だけは楽器ごとにお抱え楽師がつくが、翌日からは暫く独演が続き、半年ほどで、館に有る楽器の全てをマルスは演奏できるようになっていた。
しかも、当然のようにその演奏はお抱え楽師の技量を超える水準であった。
バルディアスのみならず、エルモ大陸全域をいくつかの楽師団が巡回している。
其の多くは、バルディアスを訪れた際には必ず王都サドベランスに立ち寄り、その周辺の一つか二つの荘園領にも立ち寄ることになる。
カルベック荘園を楽師団が訪れるのは8年ぶりのことであった。
カルベックの屋敷にも楽師はいるが、こうした巡回の楽師団に比べると数段技量が劣るのが常である。
王宮お抱えの楽師でさえ巡回楽師団には敵わないのだから無理もないことではある。
その年、カルベック荘園領に入った楽師団は青色楽師団であった。
巡回楽師団は色で区別されているが、最も技量の高いのは赤色と青色であり、その次が黄色、緑色と続き、紫色が一番技量も劣るだろうと言うのが市井の噂であるが、その紫色楽師団でさえ王宮の楽師団を超える技量の持ち主で構成されているらしい。
ハヤ月12日、慰問を兼ねて館の公会堂で行われた久々の演奏会には多数の領民が集まった。
もっとも、一人20ラドの拝聴料は安くは無いから、楽音に興味のないものが集まるわけではない。
10ラド銀貨一枚が有れば親子三人が結構贅沢な昼食を楽しめるはずである。
それでも100名を超える男女が思い思いに着飾って公会堂に集まっていた。
そうした中に伯爵夫妻とマルスもいたのである。
楽師団は総勢で24名、それなりの年齢であり、若い楽師は少ない。
20代と思われる楽師が2人、30代と思われる楽師が3人ほどだけで、あとは40代以上の楽師である。
団長を務めるマイヤー・デリスは齢61になると言う。
団長自らが演奏の前にそれら構成員の説明をしていた。
そうして演奏が始まった。
休憩を挟んで4曲が演奏されていた。
巡回公演の際には必ず演奏される古の名曲「四季」、巡回の時期に合わせた季節の曲は「冬の大地」、五穀豊穣を願っての祭り曲は「収穫祭」そして訪れた土地に因んだ曲は「タナルの流れ」である。
タナルとはこのカルベック荘園領の境界付近を流れる川で、カルベック荘園領の大部分はここからの取水で農園を営んでいるのである。
休憩のとき以外、マルスはじっと身じろぎもせずに傾聴していた。
演奏会の翌日夕刻、ノームの招きで恒例の晩餐会が伯爵邸で開催された。
楽師全員が招かれ酒食の供応を受けるのである。
その代わりに楽師団も1曲だけ答礼の演奏をするのが習わしであった。
最初に宴があり、その後に演奏することになっている。
宴の中でマルスもホスト側として紹介を受けた。
マイヤーは目を見張り、それから言った。
「マルス殿の噂は王都サドベランスで様々お聞きいたしました。
9歳にして学問を収め、武術についても並ぶもの無き天才とか。
9歳という年齢からして、今少し小さき方かと思うておりましたが、これほどの偉丈夫とは・・・。
マルス殿、昨夜の我らの演奏を聞かれ如何思召されましたかな?」
微笑をたたえてマイヤーが訊ねた。
マルスはその目をまっすぐに見ながら言った。
「はい、さすがに噂に高い青色楽師団の演奏にございます。
見事な音色に聞き惚れておりました。
ただ、一つ、不躾ながら師にお伺いしても宜しいでしょうか?」
「はてさて、なんの問いでござりましょうや。
楽音ならばともかくその他の事には疎い我らです。
我らにお答えできるご質問なれば如何様にもどうぞ。」
「はい、昨夜三曲目の演目である「収穫祭」の中ほどで、二人の方が少し出遅れた部分があるように感じましたが、あれは元々そのような演奏方法であったのかどうか確認をいたしたかったのです。」
途端にマイヤーの笑みが消えた。
その上で静かに問い返した。
「それはどのあたりか覚えておられましょうか?」
「おそらくは収穫に励む農民が大声で音頭を取る場面をイメージした曲想の辺りでしょう。
私は楽譜を見ておりませんので定かではありませんが、次のような音階の直後です。」
マルスは、激しく上下する音階をハミングした。
マイヤーは目を瞑った。
それから首を振った。
「ケルガー、それにアセル、このように確かな耳をお持ちの方もいる。
精進せねばならぬぞ。」
名を呼ばれた二人の若い楽師は真っ赤になって俯いた。
「さてさて、マルス殿。
お手前の耳は信じられぬほど確かにございます。
僅かに32分の1ほど出遅れた二人の出だしを正確に言い当てられました。
あそこはこの二人の未熟が招いた失敗でございます。
但し、マルス殿のハミングにあるとおり極めて音階の上下が激しい部分にございます。
あの失策を見逃さないのは楽師でもかなりの力量をお持ちでなければ難しいと思われます。
サーナム殿、お手前は気づかれていましたか?」
「いや、正直なところ、私は気づかなかった。
何となく違和感はあったが、それが何かわからぬうちに演奏は進んでいた。」
マイヤーは頷いた。
「楽師であってもこの通りにございます。
我が楽師団の中でもそれに気づいたは半数ほどでしょう。
残りは、違和感は拭えなくとも自らの役割に没頭しておりました。
マルス殿は楽音にも天分をお持ちなのかもしれませぬ。
マルス殿、他に我らの演奏で気づいた点があれば教えて頂けませぬか?」
マルスは、少し躊躇ったようだったがやがて口を開いた。
「師のせっかくのお言葉ですので、敢えて申し上げます。
三つほど・・・。
モノビスを弾かれた方のお名前は存じませんが・・・。」
「サルミにございます。」
40代の男が答えた。
「サルミ殿、弓を弾く右手を痛められましたか?
弓の扱いにやや硬さが見られました。
肘の辺りを後で我が家の薬師に見て頂いては如何でしょうか?
薬師のマリクドは、良き薬草を持っています。
数日の治療で元に戻ると思いますが、そのまま放置すれば日々痛みが残るようになるかも知れません。」
驚きの表情を浮かべながらサルミが答えた。
「はい、確かに王都からこちらに参る途中凍った道に足を滑らせて荷馬車に嫌と言うほど右肘を打ち付けました。
多少の青あざができているものの、演奏に支障はないものと思っておりましたが、落ち度がありましたでしょうか?」
「いいえ、演奏は正確なものであったように思います。
但し、モノビス本来の音色に伸びがございませんでした。」
「なるほど、音色の伸びですか・・・。
これは、私も精進せねばなりますまいな。」
次いでマルスが口を開いた。
「クルードを弾かれた方は?」
50代の男が緊張しながら言った。
「私、ノムレーヌでございます。」
「高音部を弾かれるときに僅かに歪みがありました。
おそらくは胴板の中の横木の一部に接着剤の剥がれができているのではないかと思います。
低音部では目立ちませんが、高音部では共振して歪んだ音が僅かに生み出されているようでした。
おそらく冬場の移動により暖かい場所と寒い場所の繰り返しが接着剤の剥がれを生じさせたのでしょう。」
ノムレーヌもまた驚愕の表情を浮かべていた。
「私だけしか知らぬことと思っていましたが、・・・。
マイヤー様、気づいておられましたか?」
「いや、それは知らなんだ。」
「顎にかけた胴板が高音部でやや振動するのです。
音はほとんど変わらないと思っていたのですが、そうではなかったようです。
できるだけ早めに直したいと考えておりますが、この辺りではサドベランスまで戻らなければ修理は難しいかもしれません。」
だがマルスが異論を唱えた。
「失礼ながら、修理をすると共鳴板に大きな変化が生ずるかも知れません。
一つには、古くなった部材に新たな接着剤を使用することは、乾いて安定するまでに時間がかかるのでできるだけ避けた方が良いこと。
今一つは、既に横木が僅かに変形している可能性がありますので、仮に横木を取り換えるとなればどうしても新たな部材が経年変化により曲がりを生じます。
その修正には何年もかかることになるでしょうから、叶うならば新たな楽器をお求めになる方が宜しいと存じます。」
ノムレーヌは困惑していた。
使っている楽器には愛着があるのである。
だが、そうした楽器もダメになることがあるのは重々承知してはいたが、これほど早い時期に来るとは思っていなかったのである。
「接着剤の剥がれは、寒暖の繰り返しでより大きくなります。
この冬を旅で過ごされるならば、春が来るころには高音部の歪は演奏自体を難しくするほどに大きくなるでしょう。
楽師の方々がそれぞれの楽器に愛着を感じておられるのは重々承知しておりますが、楽器にも寿命があります。
元の音色の復元を目的として修理を成されるならばある意味で大修理。
腕の良い工房で先ず5年を見て頂かねばならないかも知れません。」
衝撃的な話である。
図体は大人ほどにもあるが僅かに9歳の子が言える話ではない。
「失礼ながら、マルス殿。
貴方様のお言葉はまるで工房の親方が言う様でさえもございます。
どこでそのような知識を手に入れられましたかな?」
「私の知識は耳学問、それに書籍しかありません。
但し、木材の知識を覚えれば、寒暖の差が木材にどのような影響を与えるか、楽器のように微妙な力関係にある筐体に応力がどのように作用するかはおおよそ推測できます。
楽器の構造については、お抱え楽師のサーナム殿に教えていただきました。」
マイヤーはまたも首を振った。
「いやはや、とてもマルス殿が9歳とは思えなくなり申した。
私と同年代の練達者としか思えないほどです。
マルス殿は最初に三つと申されましたが、あと一つは?」
「これも申しあげてよいものやら迷いますが、曲の解釈になるのかもしれません。
「四季」は春夏秋冬を表す演奏かと存じます。
春は生き物がその生を謳歌する爛漫を表し、夏はその生が最も力強い時期、秋は物悲しくも来たるべき冬に備えて準備に入る時期であり、収穫の時期でもあります。
祭りが多いのもこの秋の時期、そうして冬はひたすら耐えて来たるべき春に備える雌伏の時なのだと思います。
皆様はその四季折々でテンポを変えられておりました。
ですが、春夏秋冬はそれぞれの季節ごとに同じテンポであったように思います。
四季はそれぞれ移ろいます。
その時期は実は明確ではないのです。
冬に近い春、夏に近い春、夏に近い秋、冬に近い秋、夏と冬にもそのような移ろいがあるはず。
春夏秋冬を演奏するに当たりそのテンポを微妙に変えて行くことで自然の移り変わりをより表すことができるのではないかと感じました。
其の分、昨夜の演奏はやや硬い演奏だったと感じています。」
マイヤーを始め、楽師の一同は唖然としていた。
彼らに曲想から来る解釈でテンポをも徐々に変えるなどと言う発想は無かったからである。
彼らは忠実に楽譜を再現し、和音をいかに美しく聞かせるかを競っていた。
テンポは楽譜にも書いてあるが、ある意味でそこは自由裁量の分野でもあった。
そうして彼らが演奏する時には、四季折々の最初のテンポに概ね合せるだけであったのである。
春なら春で一定のテンポを保ち続けるだけでよいと考えていた。
だが、わずかに9歳の神童がその既成概念を打ち破ったのである。
「なるほど、マルス殿の御説は判りました。
だが、我らにしてもその実現はかなりの努力が必要です。
一同一層の精進をせねばなりますまいな。」
晩餐会の宴の後の演奏はこれまでになく気合の入ったものになった。
そうして、この年の後、5つの楽師団の演奏場所にサドベランスの他に必ずカルベック伯爵領が含まれるようになった。
彼らの巡回は連絡をし合って、それぞれに手分けして行っており、楽団同志が同じ国でかち合うことのないようにしているのであるが、マルスと言う若き楽音の天才がいるという一事で、毎年バルディアス王国には一つの楽師団が訪れるようになったのである。
そうして青色楽師団の演奏会の後、マルスの部屋からは色々な楽器の音色が聞こえるようになっていた。
最初の1日だけは楽器ごとにお抱え楽師がつくが、翌日からは暫く独演が続き、半年ほどで、館に有る楽器の全てをマルスは演奏できるようになっていた。
しかも、当然のようにその演奏はお抱え楽師の技量を超える水準であった。
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そして、自分の中にある魔法の力と向かいながら、色々な事を覚えていきます
カクヨム様と小説家になろう様にも投稿しております
少し冷めた村人少年の冒険記
mizuno sei
ファンタジー
辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。
トーマの家は貧しい農家で、神から授かった能力も、村の人たちからは「はずれギフト」とさげすまれるわけの分からないものだった。
優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。
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