上 下
3 / 35
大好きな絵本の世界

しおりを挟む

「梨沙ちゃんもついに独り立ちかぁ。寂しくなるわね」

この場所を去ると決めたと報告した時、施設のリビングで温かいお茶を飲みながら、岩田がしみじみ言っていたのを思い出す。

「あなたは聞き分けが良くて育てやすい子だったけど、我慢しすぎていないかよく心配になったものだわ。最近じゃ子供たちの面倒まで見てくれて」
「ここ3年くらいで、小学校前の子結構増えたから」
「決して歓迎していい事情じゃないけど賑やかになったわね。みんな梨沙ちゃんに懐いちゃって」

元々細い目をさらに細めてこちらを見る岩田は、まるで本当の母親のように慈愛に満ちている。

「自分の分のおやつあげたり、この前は夜中のトイレにも起きて一緒に行ってくれたんだって?」
「あはは、美佐ちゃん1人じゃ行けないって泣いちゃって」
「私達じゃなく梨沙ちゃんの所に行っちゃうんだから。あなたはいつでもいい母親になれるわね」

両親がいなくても、自分だけの家族がいなくても、決して自分は不幸ではない。

梨沙が本気でそう思えるのは愛情を持って育ててくれた彼女たちがいたおかげだった。

「岩田さん、ありがとう。お世話になりました」
「やだ、まだあと2ヶ月はあるでしょ!それまではうちで最年長者として助けてもらうわよ!年末の大掃除、結局終わってないのよ」

娘を嫁に出す気分だわとおちゃらけて笑う岩田の瞳にうっすらと涙が浮かんでいたのを見て、梨沙は幸せな気持ちになりながら「もちろん!」と笑顔で返した。


そんな会話をした今年の正月を思い出し、部屋でひとり感傷に浸る。

手に持ったメイド服は、週に3度程袖を通していた。

『メイドカフェ・レスピナード』は、オタクの聖地と呼ばれる駅前にある比較的新しいメイド喫茶。

はじめは時給につられとんでもないバイトを選んでしまったと後悔の連続だった。

着慣れない恥ずかしい制服、言い慣れない恥ずかしいセリフ。メニューの名前ひとつとっても異次元で、注文を取るだけでも顔が真っ赤になり心臓がバクバクした。

『お待たせしました、ご主人さま。ご注文の“萌え萌えくまたんおむらいちゅ”でございます』

今ではこんな料理の提供も笑顔を引きつらせることなく出来るようになったし、最初は悲惨だったケチャップで顔や文字を描く技術もかなり向上した。

人間慣れれば意外になんでも出来るものだと自分に笑ってしまう。

「メイド服も着納めかぁ」

あんなに着るのが恥ずかしかったメイド服も、もう2度と着ないと思うと少しさみしく感じる。

クリーニングに出してしまう前にもう1度だけ、と自室で着替えて鏡の前に立った。後ろ手でエプロンドレスのリボンをきゅっと結ぶ。

身長が153センチと平均より少し小さい梨沙は、くるぶしがすっぽり隠れるので他のメイドよりもスカート丈が長く感じる。

膝上の超ミニスカートにニーハイなんていう制服の店もあるが、とてもじゃないけど着られないと数ある時給の良いメイド喫茶の中から『レスピナード』を選んだ。

アイドルのようなフリフリの創作メイド服ではなく、中世ヨーロッパ時代の映画に出てきそうな比較的落ち着いた制服。

くるりと回るとサーキュラースカートがふわりと広がり、フリルのついたエプロンドレスが揺れる。
頭には白地に黒いリボンのあしらわれたホワイトブリムと呼ばれるヘッドドレス。

「うん、可愛いけど……2度と着ることはないなぁ」

写真でも撮っておこうかとスマホを目で探すと、ふと口の開いたダンボールの中に入っている絵本に視線を奪われた。

『私だけの王子様』

表紙にはブロンド髪にピンクのドレスを着た美しいお姫様。胸の前できゅっと両手を握ってキラキラした瞳で空を見上げ、まだ見ぬ王子様に想いを馳せている。

梨沙は子供の頃からこの絵本が大好きだった。

昔フランスの劇作家が描いた珠玉のラブコメ戯曲を基にした絵本で、梨沙がここに預けられた時に持っていたもの。

当時3歳だった梨沙のお気に入りだったのか、彼女の母親の趣味だったのかは今となってはわからない。

それでも梨沙にとってお姫様は、シンデレラでも白雪姫でもなく、この『私だけの王子様』のヒロイン、シルヴィア姫だった。

姫の花婿候補である王子が城を訪れるところから物語は始まる。

王子の人となりを探るため侍女と入れ替わって観察しようと思ったものの、姫が見初めたのは王子の従者だった。

身分違いの恋と思い悩みながらも、シルヴィア姫は従者に『たとえ使用人だとしても、あなたは私にとってたったひとりの王子様です』と想いを打ち明ける。

結局王子様も従者と入れ替わっていたことが分かって、身分の差もなくハッピーエンド。

よくある意地悪な継母や怖い魔女の出てこないこの絵本が今も大好きで、たまに読み返しては空想に浸ってしまう。

(もしも私にも自分だけの王子様が現れたとしたら……)

子供じゃあるまいし、本当に白馬に乗った王子様が迎えに来るなんて信じているわけではない。

しかし梨沙は『私だけの』という部分にどうしても惹かれてしまう。

施設のみんなは家族みたいなもの。もちろんそれは本心だが、自分だけの家族ではない。

もう両親に会うことは叶わなくても、これから先『私だけの家族』をつくることは出来る。

読み込みすぎて端が擦れてしまっている絵本を手に取り、ゆっくりと表紙をめくる。

シルヴィア姫がリサという偶然にも梨沙と同じ名前の侍女と入れ替わり、メイド姿で王子扮する従者に愛を打ち明けるページを開いた。

お気に入りのシーンで何度も読んだから、絵本には開き癖がついてしまっている。

次のページは姫のドレスを着た侍女と、王子の格好をした従者が愛を語っているシーン。互いに自分は召使いだということを黙っていて、相手は高貴な身分だと信じている2人。

例え身分が違えども気持ちは変わらないと強く想い合う彼らもまた、シルヴィア姫と王子が真実を打ち明けたおかげで、何の障害もなく結ばれることが出来た。

姫と王子。侍女と従者。それぞれ正しい相手に惹かれていた。

姫と王子の入れ替わりという嘘から始まったドタバタ劇は、誰も不幸になることなくみんながハッピーエンド。

読み終わったあとの幸福感に、梨沙は何度助けられて来ただろうと絵本をぎゅっと抱きしめる。

寂しくて眠れない夜も、嫌なことがあって泣きたい時も、いつもこの絵本を読んで幸せを与えてもらった。

ぼんやりとしか思い出せない母の形見だと思えば、なお大切に感じた。

何度読んでも幸せな気持ちになれる絵本を胸に抱き、梨沙はいつの間にかうとうと眠りに落ちた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

侯爵家の愛されない娘でしたが、前世の記憶を思い出したらお父様がバリ好みのイケメン過ぎて毎日が楽しくなりました

下菊みこと
ファンタジー
前世の記憶を思い出したらなにもかも上手くいったお話。 ご都合主義のSS。 お父様、キャラチェンジが激しくないですか。 小説家になろう様でも投稿しています。 突然ですが長編化します!ごめんなさい!ぜひ見てください!

冷宮の人形姫

りーさん
ファンタジー
冷宮に閉じ込められて育てられた姫がいた。父親である皇帝には関心を持たれず、少しの使用人と母親と共に育ってきた。 幼少の頃からの虐待により、感情を表に出せなくなった姫は、5歳になった時に母親が亡くなった。そんな時、皇帝が姫を迎えに来た。 ※すみません、完全にファンタジーになりそうなので、ファンタジーにしますね。 ※皇帝のミドルネームを、イント→レントに変えます。(第一皇妃のミドルネームと被りそうなので) そして、レンド→レクトに変えます。(皇帝のミドルネームと似てしまうため)変わってないよというところがあれば教えてください。

【R18】微笑みを消してから

大城いぬこ
恋愛
共同事業のため、格上の侯爵家に嫁ぐことになったエルマリア。しかし、夫となったレイモンド・フローレンは同じ邸で暮らす男爵令嬢を愛していた。

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

人生の全てを捨てた王太子妃

八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。 傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。 だけど本当は・・・ 受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。 ※※※幸せな話とは言い難いです※※※ タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。 ※本編六話+番外編六話の全十二話。 ※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

【完結】転生地味悪役令嬢は婚約者と男好きヒロイン諸共無視しまくる。

なーさ
恋愛
アイドルオタクの地味女子 水上羽月はある日推しが轢かれそうになるのを助けて死んでしまう。そのことを不憫に思った女神が「あなた、可哀想だから転生!」「え?」なんの因果か異世界に転生してしまう!転生したのは地味な公爵令嬢レフカ・エミリーだった。目が覚めると私の周りを大人が囲っていた。婚約者の第一王子も男好きヒロインも無視します!今世はうーん小説にでも生きようかな〜と思ったらあれ?あの人は前世の推しでは!?地味令嬢のエミリーが知らず知らずのうちに戦ったり溺愛されたりするお話。 本当に駄文です。そんなものでも読んでお気に入り登録していただけたら嬉しいです!

処理中です...