Arrive 0

黒文鳥

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8章

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 魔力を渡し終わっても、ユーグレイはアトリの手を握ったままだった。
 じわりと思考を侵していた防衛反応を切り離すと、やはり冷静ではなかったんだなと改めて思う。
 同時に、状況があまりよろしくないことも理解出来た。
 眉間に刻まれた皺。
 長い沈黙。
 対峙したその人は何も言わなかったが、果たして何を思うのだろうか。
 ペアという関係が基礎となる組織内においては、こういうことくらい別に気にしないのだが。

「………ユーグ、手」

 もう平気だと軽く引いた手は、やはりまだ逃がしてはもらえなかった。
 いやちょっと待て。
 喧嘩を売りたかったのは確かだが、仮にも父親である人の前でこれは拙いのでは。
 アトリの焦りとは裏腹に、ユーグレイは全く気にした様子もなく微笑む。
 そういう顔は、狡い。

「僕の道行は、貴方から見ればただの逃避だろう。果てのない贖罪など、自己満足に過ぎないと理解もしている」

 しんと響く声。
 ユーグレイは真っ直ぐに父親を見つめて続ける。

「そうだ。組織でも、決して上手くは立ち回れなかった。それでも別に構わなかった。あの海で死ぬことが出来れば、僕という生き物にも意味があったと思える気がしたんだ」

 アトリは咄嗟に、離そうとしていた手に力を込めた。
 ペアを組んだばかりの頃のユーグレイは確かにそういうところがあった。
 アトリの魔術に頼ることなく、自身の銀剣で人魚に斬りかかったことさえあったのだ。
 いつだってたった一人で、どこか遠くを見ていた。
 それが、怖かった。
 ずっとひたすらに振り返らずに進んで行って、ユーグレイはいつか帰って来ない。
 そんな日が、来るんじゃないかと。
 彼はふっと視線を寄越す。
 見慣れた碧眼は酷く柔らかく細められる。
 
「けれどそれ以上の意味を、君がくれた。他愛のない口喧嘩の仕方も、共に口にする食事の温かさも、手を繋ぐ喜びも、全部君が教えてくれた。空虚な僕をそのまま受け入れて、そして多くのもので満たしてくれた」

「…………あ、ぅ、おいちょっと」

 まともにそんな言葉を食らったら、堪らない。
 恐らくは真っ赤になった顔を、アトリは片手で覆った。
 これは何の罰ゲームなのか。
 ユーグレイが笑う気配がする。
 確信犯だな、こいつは。

「何も無駄ではなかったと、他の誰でもないアトリが証明してくれた。だから僕はそれで良い。それ以上は、ない」

 ユーグレイの顔は勿論のこと、彼の父親の顔を見る余裕はなかった。
 視線を落とした先、私室の床には磨かれた美しい木目が浮かび上がっている。
 目眩すら覚えて、アトリは軽く目を閉じた。
 ユーグレイはごく自然な所作で、アトリの腰に手を回して身体を支える。
 もう文句も出て来なかった。
 
「僕は、ここには戻らない」

 彼はそう言い切って口を閉ざした。
 父親が何を考えてカンディードに依頼を出し、何の抵抗もせずにここに留まっていたのか理解しているのだろう。
 フレンシッド家の当主はゆっくりとため息を吐いて、ソファに腰を下ろした。
 呆れたと言うよりはどこか疲弊したようにその人は首を振る。

「どこの誰を愛妾にしようと構わない。帰って来れば、それなりの暮らしを約束出来る。これまでのように、命を削るような仕事をする必要もない」

 だからフレンシッド家の息子として跡取りを作れ、と低く言葉が続く。
 リューイはもう駄目だ、贖罪ならば兄の代わりを務めろ、と。
 あんまりな発言ではあったが反発する気が起きなかったのは、その人の声に熱がなかったからだ。
 ユーグレイはもう、戻らないと言った。
 この人は、何もかも終わってしまったのだとわかっている。

「ユーグレイ」

 名を呼ばれたユーグレイは、扉の前から一歩も動かなかった。
 傍観者のように、歩み寄ることもせずに父親を見据える。

「僕が欲しいものは一つだけだ」

 腰に回された手に力が入るのがわかった。
 同時に階下から聞き慣れたペアの声がする。
 対応しているのは、先程席を外した使用人だろう。
 若干不機嫌そうなカグの声を聞く限りでは、リューイの思惑通りカレンたちを捕縛するところまではいかなかったようだ。
 無事で何よりだが、この後彼らに事の真相を打ち明ける時のことを思うと少し気が重い。

「依頼は完了した。後のやり取りは、彼らに任せる」

 いや良いのか、これで。
 アトリは踵を返すユーグレイの服を思い切り掴む。
 相棒は案外あっさりと足を止めた。
 彼の父は「構わない」と言って目を伏せる。

「お前がそうしたいのであれば、勝手にしろ。もう私が手を掴んで引き留められるような、幼い子どもではないのだ。無駄な問答をするつもりは元よりない」

 突き放すような響きはない。
 その人の言葉には、もう手を離れた子への想いが微かに滲んでいた。

「ユーグ」

 言いたいことを言って良い、とアトリはユーグレイを促す。
 大声で罵ったって、可哀想にと憐れんだって良いのだ。
 多くを我慢したのだからそれぐらい、したって良い。
 ああ、でもきっとそういうことはしないんだろう。
 こいつは結局そういうやつだ。
 ユーグレイは、父親を振り返った。
 
「……貴方が無事で良かったと思う」

 ユーグレイらしい、端的な飾り気のない言葉だった。
 彼は返事を待たない。
 逃げる訳ではなく、もうここにいる必要がないから立ち去るのだ。
 部屋を出て扉を閉めたユーグレイは、いつも通り涼しい表情をしていた。
 良いのか、とアトリが問うと「これで良い」と彼は答える。

「ユーグが良いなら、良いけど。カグたちにここ任せるって怒られそうじゃねぇ?」

 気を利かせた使用人がまだエントランスで二人を留めているようだ。
 階下を覗き込もうとしたアトリを、ユーグレイが急に引き寄せる。
 
「だ、から、ユーグ、そーいうのは」

 ひんやりとしたユーグレイの手が額に触れて、アトリは口を噤んだ。
 
「君、気付いていないのか? 熱がある」

「え、嘘」

「嘘を吐く必要がどこにある。防衛反応もあるだろう。早く戻るぞ」

 君のこと以上に重要なことはない、とユーグレイはきっぱりと言い切ってアトリの手を引いた。



 
 

 
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