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8章
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しおりを挟む日中は少し晴れ間も見えていたというのに、陽が落ちてからまた重い雲が出て来たらしい。
冷え切った空気は吸い込むのが痛いほどだ。
ぱきりと足元で木の枝か何かが折れる音がする。
少し前に逃げ惑った森は、酷く静かだった。
「過剰な援護は必要ないはずだ。理解しているな、アトリ」
すぐ傍でユーグレイが念を押す。
わかってるって、と答えるが気遣うような気配は消えなかった。
今回の件の事情を理解したユーグレイは、兄の「ひとまず事を収めたい」という方針に異論はないようだった。
向こうが退くのであれば深追いはしない。
防壁に戻ったら仔細を管理員に報告し併せてカグたちに謝罪をする。
ユーグレイが出した結論は彼にしては甘いものではあったが、アトリは当然それで良いと答えた。
状況を逆手に取ってリューイを拘束することも不可能ではないが、そういう選択をしなかった辺り彼にとって兄の存在は特別なものではあるのだろう。
「まあでも、あのメイドさんが戦略的撤退を良しとするかどうかわかんないだろ」
雇われているという話だが、あの二人がどこまでリューイの指示に従うかは不明瞭なままだ。
カグとニールに何かあっては申し訳が立たない。
魔術行使のためにアトリが手を差し出すと、ユーグレイは眉を顰めたが結局何も言わずに魔力を渡してくれた。
防壁に囲まれた海で行う探知とは、少しばかり勝手が違う。
耳の奥で金属が擦れるような不快な音が木霊する。
「………………っ」
静寂が満ちていたはずの暗い森は生物や木々の情報で溢れていた。
梢から落ちる葉の一枚にさえ、視線が持っていかれる。
先行したカグとニールの様子を確認してあわよくば相手の出方を見たいと思ったが、想像以上の重労働になりそうだ。
暗闇の中、視界はアトリの混乱に引き摺られるようにして彼方此方へと飛ぶ。
視ているだけだと言うのに儘ならないものだ。
ノティスでクレハの居場所を探った時の方が余程楽だった。
夜の森という環境が良くないのだろうか、或いは気を張っているからだろうか。
獣の気配や視線。
風でしなる木、擦れる葉。
積もった枯葉の下を駆けるもっと小さなもの。
あまりに、把握出来るものが多すぎる。
相変わらずぶっ飛んでるなと冷や汗をかきながらアトリは思った。
動揺を悟られたのか、ユーグレイの手に力が籠る。
さっさと目的を果たさないと問答無用で魔術行使を中断させられそうだ。
「……い、た!」
暗闇を飛んで行く視界が一瞬石畳の道を捉えた。
アトリが牽制で放った魔術の跡。
間違いなく邸へと続く道だ。
ぱっと視線を上げると邸の外観が視える。
道の脇、大きな木に身を潜めるように待機しているのはカグとニールだ。
「人魚と比べりゃ大したことねー相手だろ? 行くぞ」
相棒に促されてニールは決意を固めたようだった。
カグから魔力を受け取った彼が魔術を構築するのがわかる。
陽動のためのそれはあっさりとニールの指先から放たれて、数メートル先の木に当たって弾けた。
ぱっと散った光とやや控えめな破裂音。
相手の反応は早かった。
リューイに襲撃があることを知らされていたのかもしれない。
数秒。
邸から嬉々として飛び出して来たのは、やはりカレンが先だった。
その後を諦めたような様子でナインが追って来る。
まもなく接敵するだろう。
ニールの強張った表情が、夜の闇の中微かに垣間見えた。
これは「過剰な援護」ではない。
置いて来た身体が殆ど反射的に魔術を紡ぐ。
「ニール!」
カグの叱咤するような声。
彼らからもカレンが見えたはずだ。
嗜めるようなナインの言葉を遮って、彼女が笑う。
そこだ。
足元で弾けた魔術は、当たればただでは済まない威力だと瞬時に理解したのだろう。
カレンは長いスカートを翻して後退した。
その瞳は見えない敵を探すように周囲に向けられるが、当然彼女にはアトリを見つけられない。
「よそ見してんじゃ、ねーよッ!」
カグが吠える。
震える指先を敵に向けて、ニールが唾を飲み込んだ。
「カレン!」
それでも場慣れしている分、立て直しは早かった。
ナインの呼びかけに彼女は振り返りもせず手を出して、魔力の受け渡しを済ませる。
「アンタらじゃちょっと役不足だっての!」
いや、本当に事を収める気あるか?
カレンは言葉の割に酷く興奮した様子で魔術を撃つ。
意識して視れば、どうすればいいのかなんて考える必要もなかった。
二撃目。
アトリは放った魔術で、それを消し飛ばす。
驚愕で見開かれたカレンの瞳。
十分な隙だ。
これなら。
「…………え?」
ふっと視界が暗転した。
寸前まで聞こえていた音も声もなく、ただ自身の呼吸だけが煩く響いている。
いつの間にか、ユーグレイの手が目を覆っていた。
心地の良い体温に思わず深く息を吐く。
「アトリ、もう十分だ」
遠く微かに魔術が弾ける音が聞こえる。
カグたちは。
「いや、まだ」
「まだ? 君、自分の消耗に気付いていないのか」
ゆっくりとユーグレイの手が離れていく。
彼の方が余程辛そうな顔をしている。
ただ静かにそう言われて、アトリは徐に自身のこめかみに触れた。
寒いな、と思ったが異常なほどに汗が流れている。
無茶をする予定はもちろんなかった。
これくらいの魔術行使は、これまでだってしてきたはずで。
「……悪い」
まあ、気付いてしまったらどうしようもない。
アトリは項垂れたまま、ユーグレイの腕を掴んだ。
察した相棒が身体を支えてくれる。
「まだ、やるべきことがある。歩けるか? アトリ」
「ちょっと、気を紛らわせる用に……魔力を頂けると」
寒いはずなのに、身体の芯が熱を持っているのがわかる。
大変残念なことに、アトリの防衛反応は空気を読んではくれないのだ。
こんなところで立ち止まっている訳にはいかないから、こうなるともう感覚を切り離してそれを先送りにしてしまうしかない。
アトリは足元の枯葉を爪先で軽く蹴った。
けれど、これをやると後が酷いことになると既に思い知っている。
「責任は取る。安心しろ」
ユーグレイは何もかも見透かしたように微笑んで、少しだけ魔力を流してくれた。
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