Arrive 0

黒文鳥

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7章

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 長いスカートの裾をたくしあげて斜面を駆けて来たカレンは、ユーグレイの「交渉したい」という言葉を聞いてあからさまに不機嫌な表情をした。
 彼女は子どものように躊躇なく川に踏み込むと、水を蹴り上げて舌打ちをする。
 
「ったく腑抜けてんの? どう見たってまだやれるだろうが」

「否定はしませんが優先順位の問題でしょう。他の何に替えても守りたいものがあるというのは、個人的には好感を持てますけどね」 

 遅れて後を追って来た男の方はやはりその提案に乗り気らしい。
 彼はカレンに比べて少し危なっかしい足取りで下りて来ると、文句を言う彼女に呆れたような視線を送る。
 
「あー、ハイハイ。この状況で話を聞いてやるようなバカはお前くらいだって。ナイン」

「我々は弱者を虐げるために動いている訳ではありませんから」

 弱者と呼ばれても、ユーグレイは何も言い返さなかった。
 交渉を持ちかける立場としては圧倒的に分が悪い。
 命の保証だけを求めるのであれば、それは降伏と何が違うのだろうか。
 アトリはユーグレイの半歩後ろから二人を観察する。
 流石に寒かったのか、カレンは既に川から上がって濡れたスカートを絞っている。
 対してナインという男は流石にこちらを警戒しているようで、斜面を下り切ったところから近付いては来ない。
 距離は数メートル。
 濡れた大小の石が転がっていて足場はかなり悪いが、その分一気に詰め寄られる心配はなさそうだ。
 音を立てて降る雨、流れて行く川。
 アトリは深く呼吸をする。
 
「さて、雨も酷くなって来ましたし話し合うのであれば端的に参りましょうか。そちらの要求は?」

「治療を前提とした身の安全。それだけだ」

 ナインは呆気に取られたようにユーグレイを見返す。
 彼は緩く首を振ってから、どこか親しみを込めて頷いた。
 
「……そうですか。こちらの条件を飲んで頂けるのであれば、すぐにでも」

 魔術が直撃すれば、彼らは命を落とすだろう。
 そこまですると人質がいた時に彼らが危険に晒されかねない。
 無力化して拘束、というのが適当だろうが。
 随分とハードルが高い。

「お二人には、カンディードを抜けて我々の仲間になって頂きたい。いかがでしょうか?」

 手を差し伸べるナイン。
 ユーグレイは僅かも逡巡しなかった。
 時間をかければかけるだけアトリの状態は悪くなる。
 だからだと、わかってはいる。

「わかった」

 アトリを振り返りもせずに、ユーグレイはそう答えた。
 整えたはずの呼吸が、乱れる。
 ああ、苦しい。

「快諾ですね。では」

 一緒に来るようにと促そうとしたナインを、カレンが手で制した。
 彼女は大袈裟な溜息を吐きながら、「だからアンタは甘ちゃんなんだよ」と吐き捨てる。
 ひょいと大きな石を一つ飛び越えて、彼女はユーグレイを指差した。

「セルとエルを揃って呼びつけるとか危機感なさすぎ。銀髪の色男、アンタが先に来な」

「………………」

 一歩、ユーグレイが踏み出す。
 アトリは離れていくその手を掴んだ。
 濡れた銀色の髪から、雨が落ちる。
 驚いたように彼はやっと振り返った。
 でも、遅い。

『撃て!』

 指先から放たれる魔術。
 あは、と誰かが楽しそうに笑った。
 視界が白く染まって、激しい破裂音が響き渡る。
 
「ちゃんとやる気じゃないか! やっぱり、こうじゃなきゃさぁ!」

「ちょっと……っ、貴女きちんとあれを飲ませたんですか!?」

「全部は飲まなかったって言っただろ? まあ格上だとは思ったけど、ここまでとはね!」

 外すつもりではあったが、掠りもしなかったか。
 崩れた落ちた斜面、倒れた木々。
 露出した焦茶色の土からは、ぱちぱちと音を立てて白い煙が上がっている。
 川へと身を投げるようにして、カレンはナインを庇ったようだ。
 水の中で身体を起こした二人を確認して、アトリは素早く魔術を構築する。
 握ったままのユーグレイの手が、抵抗するように強く引かれた。
 
「待て! アトリ!」

 鋭い警告を無視して、魔力を無理やり引き出す。
 追撃は、カレンが放った魔術を飲み込んで空中で弾けた。
 余波を受けた彼女たちは突き飛ばされるように体勢を崩す。
 頭を押さえたナインが弱々しく呻くのが聞こえた。
 カレンは、まだ。
 狙いを定めるように、獰猛な眼差しの彼女に指先を向ける。
 
「やめろッ!」

 きつく握っていたはずの手が、振り払われる。
 切羽詰まった声で叫んだユーグレイを、アトリは睨む。
 もう一撃で決まる。
 夢中でその手を掴もうとした瞬間、ユーグレイに指先を思い切り叩き落とされた。
 感覚の薄れた肌が、痺れる。
 息を吸い込んだはずの喉が嫌な音を立てた。
 ユーグレイは、はっとしたように言葉を呑んだ。
 瞬間、背中に裂くような衝撃を受ける。
 反撃されたな、とアトリは酷く冷静に思った。
 ユーグレイが抱き止めてくれたおかげで岩に叩きつけられるような結末は避けられたが、意識に反して身体は全く動かない。
 
「ばっかじゃないの? 撃たせてやれば良かっただろ。それでアンタらの勝ちだったのにさ」

 ぱしゃりと水の音がする。
 かわいそ、とカレンは心底同情したように言った。
 
「どんだけ信頼してないんだっての」
 
 思い出したように荒い呼吸を繰り返して、アトリは顔を上げる。
 視界はぐにゃりと歪んで、平衡感覚が全く掴めない。
 それでもここで意識を失ったら、ユーグレイは身を挺してアトリを守ろうとするだろう。
 
「は、あッ、ーーは、ぐ……ぅ」
 
 体勢を立て直そうとするアトリを引き留めるように、ユーグレイは腕に力を込めた。
 きつく抱き締められて身動きが出来ない。
 もう良い、と掠れた声でユーグレイが訴える。
 もう良いって、何が?

「あーあ、拍子抜けだわ」

「……殺しは駄目ですよ、カレン」

 わかってるっつの、と答える声は近い。
 
「でも手か足か、一本くらいはヤっとかないとでしょ」

 きんと耳鳴りがする。
 ユーグレイの服を掴んでいた指先が無意識に動いた。
 
 どんと音を立てて弾けたのは、確かに魔術だった。

 跳ね上がった川の水が、飛沫になって降り注ぐ。
 ナインの驚いたような声。
 けれどアトリはまだそれを構築していない。
 誰が。
 
「何してんだ、クソ! さっさと来い!」

 随分と乱暴な口調。
 早く早く、と続いた声は確かに良く知る誰かのものだった。
 ただ彼らの無事を確かめるほどの気力はない。
 ユーグレイはアトリを抱え上げて、声の方へと身を翻す。
 辛うじて歪んだ風景を捉えていた視界は、ぶつりと電源を落としたように暗転した。

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