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黒文鳥

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6章

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 その悲鳴は、頼りなくか細い。
 驚愕の色を孕む声は、少女のものだった。
 少なくともラルフのものではない。
 警報で駆け付けてくれた誰かなら良いが、それを確認するだけの余裕はなかった。
 辛うじて視界に入ったラルフは、自身に迫る人魚の手をただ見つめている。
 座り込んだまま呆然とした彼は、状況を飲み込めているのだろうか。
 ともすれば興味深そうに観察しているようにも見えるが、逃げようともしない辺り思考が止まっているのかもしれない。
 アトリは壁際に横たわる黒い影をちらと見て、唇を噛んだ。
 これが特殊個体だとしても本体はもう身動きすらしていない。
 這ってでも後退してくれれば、きっと逃げられる。
 
「ーーーーーーっ」

 ラルフさんと名前を呼ぼうとして、息を吸い込んだ肺がずきりと痛んだ。
 アトリはひやりとした壁に爪を立てて咳き込む。
 致命傷でもないのに、ダメージを負った身体は思うように動かない。
 焦燥に駆られる刹那。
 躊躇いのない足音に、アトリは顔を上げた。
 
「待って! ユーグレイ!」

 響き渡った声は、多分先程悲鳴を上げた誰かのものだ。
 迷うことなく人魚の軀を追い越して、飛び込んで来る人影。
 人魚の手がラルフに触れる寸前、彼は手にした銀剣を振るう。
 研究員を捕らえようとしていた黒い手が床に叩きつけられた。
 踏み込みは深いが、それを斬り落とすほどには至らない。
 けれどその一閃は、確かにラルフを救った。
 脱力した研究員は彼を見上げ、それから力なく落ちた人魚の手を見る。
 同様にそれを一瞥した碧眼が、アトリに向けられた。
 珍しく肩で息をする彼は、深く息を吐く。
 ユーグレイ。

「アトリ」

 その瞬間湧き上がった感情は、安堵には程遠かった。
 まだ、駄目だ。
 それは確かにアトリが放った魔術で崩壊しかけているが、それでもまだあの手は動いたのだ。
 ユーグレイは足元の手も横たわった人魚も、もう見ていない。
 焦ったようにこちらに踏み出す足。
 ほんの数歩の距離だ。
 けれど、アトリの手はユーグレイに届かない。
 それでは彼を守れない。
 吐き気がするほどの恐怖が思考を埋める。
 驚いたように肩を震わせたラルフが、何か叫んだ。
 意思を持つような動きで、ゆっくりと黒い手が持ち上がる。
 
「う、しろ……ッ」

 振り絞った言葉は、あまりに遅い。
 黒い手がユーグレイの肩を掴み、突き飛ばすようにして床に押さえ込んだ。
 その長い指先が何の抵抗もなく彼の肩に食い込んでいく。
 鮮やかな赤が少し遅れて服を染めた。

「………………」

 ユーグレイは声一つ上げない。
 自身を捕え床に引き倒した人魚の手を、彼は鬱陶しそうに流し見た。
 握ったままの銀剣を振るう隙もない。
 抵抗出来ない獲物を押し潰すように、その両手に力が籠るのがわかった。
 
「ユー、グ!」

 普段のユーグレイであれば人魚相手に油断はしない。
 アトリが、ここにいたからだ。
 だから、こんなことになっている。
 酷く苦い感情に押し流されるように、アトリはユーグレイに駆け寄る。
 ほんの数秒。
 果てなく見えた数歩。
 夢中だった。
 何を引き換えにしても良いから、間に合って欲しい。
 気付いた相棒は何故か眉を寄せたが、僅かに片手を伸ばした。
 こんな時でさえ気遣われているらしい。
 お前の方がよっぽど深手だってば、と怒鳴りつけたい気持ちを飲み込んだ。
 明らかにいつもより冷たい指を掴む。
 加減はしない。
 
 瞬時に構築した魔術が、視界を白く染めた。
 
 ひゃあ、と驚いたような声が上がる。
 ラルフか、或いは救援者か。
 すぐ傍で一撃を目の当たりにしたユーグレイはやはり何も言わなかったが、咎めるようにアトリの手を強く握った。
 仕方がない。
 たかだか禁呪の成れの果てが、ユーグレイに触れていること自体耐え難かったのだ。
 何よりそれは、彼に傷を負わせた。
 ぱき、と儚い音を立ててユーグレイを捕らえていた黒い手が崩れる。
 長く伸びた腕。
 溶けかけた軀が、連鎖して割れていく。
 確かにそれが存在したことを訴えるように、廊下には水溜りが残った。
 微かに海の匂いがする。
 ようやく色を取り戻す視界で人魚の消滅を確認して、アトリはユーグレイを振り返った。

「……大丈夫か? アトリ」

 身体を起こしたユーグレイは片手で出血の続く肩を押さえて、当然のように問いかける。
 その青白い顔に心臓を掴まれたような衝動が走った。
 アトリは首を振る。
 大丈夫か、とか。

「大丈夫じゃないのは、お前だろ!」


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