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6章
15
しおりを挟むその悲鳴は、頼りなくか細い。
驚愕の色を孕む声は、少女のものだった。
少なくともラルフのものではない。
警報で駆け付けてくれた誰かなら良いが、それを確認するだけの余裕はなかった。
辛うじて視界に入ったラルフは、自身に迫る人魚の手をただ見つめている。
座り込んだまま呆然とした彼は、状況を飲み込めているのだろうか。
ともすれば興味深そうに観察しているようにも見えるが、逃げようともしない辺り思考が止まっているのかもしれない。
アトリは壁際に横たわる黒い影をちらと見て、唇を噛んだ。
これが特殊個体だとしても本体はもう身動きすらしていない。
這ってでも後退してくれれば、きっと逃げられる。
「ーーーーーーっ」
ラルフさんと名前を呼ぼうとして、息を吸い込んだ肺がずきりと痛んだ。
アトリはひやりとした壁に爪を立てて咳き込む。
致命傷でもないのに、ダメージを負った身体は思うように動かない。
焦燥に駆られる刹那。
躊躇いのない足音に、アトリは顔を上げた。
「待って! ユーグレイ!」
響き渡った声は、多分先程悲鳴を上げた誰かのものだ。
迷うことなく人魚の軀を追い越して、飛び込んで来る人影。
人魚の手がラルフに触れる寸前、彼は手にした銀剣を振るう。
研究員を捕らえようとしていた黒い手が床に叩きつけられた。
踏み込みは深いが、それを斬り落とすほどには至らない。
けれどその一閃は、確かにラルフを救った。
脱力した研究員は彼を見上げ、それから力なく落ちた人魚の手を見る。
同様にそれを一瞥した碧眼が、アトリに向けられた。
珍しく肩で息をする彼は、深く息を吐く。
ユーグレイ。
「アトリ」
その瞬間湧き上がった感情は、安堵には程遠かった。
まだ、駄目だ。
それは確かにアトリが放った魔術で崩壊しかけているが、それでもまだあの手は動いたのだ。
ユーグレイは足元の手も横たわった人魚も、もう見ていない。
焦ったようにこちらに踏み出す足。
ほんの数歩の距離だ。
けれど、アトリの手はユーグレイに届かない。
それでは彼を守れない。
吐き気がするほどの恐怖が思考を埋める。
驚いたように肩を震わせたラルフが、何か叫んだ。
意思を持つような動きで、ゆっくりと黒い手が持ち上がる。
「う、しろ……ッ」
振り絞った言葉は、あまりに遅い。
黒い手がユーグレイの肩を掴み、突き飛ばすようにして床に押さえ込んだ。
その長い指先が何の抵抗もなく彼の肩に食い込んでいく。
鮮やかな赤が少し遅れて服を染めた。
「………………」
ユーグレイは声一つ上げない。
自身を捕え床に引き倒した人魚の手を、彼は鬱陶しそうに流し見た。
握ったままの銀剣を振るう隙もない。
抵抗出来ない獲物を押し潰すように、その両手に力が籠るのがわかった。
「ユー、グ!」
普段のユーグレイであれば人魚相手に油断はしない。
アトリが、ここにいたからだ。
だから、こんなことになっている。
酷く苦い感情に押し流されるように、アトリはユーグレイに駆け寄る。
ほんの数秒。
果てなく見えた数歩。
夢中だった。
何を引き換えにしても良いから、間に合って欲しい。
気付いた相棒は何故か眉を寄せたが、僅かに片手を伸ばした。
こんな時でさえ気遣われているらしい。
お前の方がよっぽど深手だってば、と怒鳴りつけたい気持ちを飲み込んだ。
明らかにいつもより冷たい指を掴む。
加減はしない。
瞬時に構築した魔術が、視界を白く染めた。
ひゃあ、と驚いたような声が上がる。
ラルフか、或いは救援者か。
すぐ傍で一撃を目の当たりにしたユーグレイはやはり何も言わなかったが、咎めるようにアトリの手を強く握った。
仕方がない。
たかだか禁呪の成れの果てが、ユーグレイに触れていること自体耐え難かったのだ。
何よりそれは、彼に傷を負わせた。
ぱき、と儚い音を立ててユーグレイを捕らえていた黒い手が崩れる。
長く伸びた腕。
溶けかけた軀が、連鎖して割れていく。
確かにそれが存在したことを訴えるように、廊下には水溜りが残った。
微かに海の匂いがする。
ようやく色を取り戻す視界で人魚の消滅を確認して、アトリはユーグレイを振り返った。
「……大丈夫か? アトリ」
身体を起こしたユーグレイは片手で出血の続く肩を押さえて、当然のように問いかける。
その青白い顔に心臓を掴まれたような衝動が走った。
アトリは首を振る。
大丈夫か、とか。
「大丈夫じゃないのは、お前だろ!」
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