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6章
12
しおりを挟む次の夜間哨戒まで、時間は十分にあった。
約束通りアトリを起こしてくれたユーグレイと、ひとまず食堂に向かう。
腹が減っては、というやつだ。
若干余計な体力を使ったような気もするが精神的な疲労は殆どない。
正直何だかなと思わなくもないが、若いし男だし仕方ないだろう。
時刻は丁度夕食時。
第四防壁の食堂は相変わらず賑わっていたが、そこに漂う緊迫感は少し増したように感じられた。
「ま、そりゃあピリピリするか」
ぺろりと平らげてしまった夕食の皿をテーブルの端に重ねて、アトリは頬杖をついた。
食後のコーヒーを飲んでいたユーグレイも、「そうだな」と同意する。
半分待機場所と化した食堂からは時間になるとペアたちが出発し、哨戒を終えた面々が交代で戻って来ていた。
既に今日の任務を終えた同僚たちの話によると、件の影はおろか未だ人魚にも遭遇していないのだと言う。
いや、通常であればあり得ない話だ。
人魚の出現に法則性までは見出せていないが、それでも丸一日それが現れなかったことなど記憶にない。
そして海に何らかの異変がある時、組織はそれを吉兆とは考えない。
管理員たちも臨時の警戒体制から本腰を入れての対応に切り替えるつもりのようで、防壁内は既に慌しかった。
「何かの前兆と捉えて然るべきか。杞憂であれば良いが、仮に特殊個体の対処となると少なからず被害が出るだろう」
「やっと慣れてきたって新人も多い時期だからなー」
「この時期に大規模な対処があると、大抵碌なことがない」
別に新人たちをフォローするのは構わない。
ただこの間のように人員を投入しての特殊個体討伐が行われると、経験の浅い者はより被害を受けやすくなる。
多少の怪我であれば良いが、当然不慮の事態で命を落とすこともあった。
まだ関わりのほとんどないような新人たちであっても、不幸を目の当たりにするのは耐え難い。
更に今期は研修に付き合った後輩もいる。
ただ何事もないようにと願うばかりだが。
ユーグレイはコーヒーカップを静かに置いて、「君も無理はするな」と釘を刺す。
「お前それ口癖になってんだろ。無理しようにも、こんなローテで哨戒してたら一杯一杯だっつの」
アトリはテーブルに伏せて、ユーグレイを恨みがましく見上げた。
半分くらいは自業自得だが、あの調子でやられては身が持たない。
うん、ちょっと待て。
これって哨戒の後はまた帰ってヤる流れか。
ユーグレイはあっさりと頷いた。
「それなら良い」
「良くはないけどな?」
まあ、ユーグレイを煽った手前あまり強くは言えない。
でも何というか、心底気持ちの良いことを我慢するのは中々難しいのだ。
こうして反省はしていても、結局その時になったら際限なく欲しいと思ってしまう。
重ねた自身の手首に額を置いて、アトリは呻いた。
自覚するとそれは底のない沼だ。
「うん、無理は良くないよ」
それは唐突な第三者の同意だった。
聞き覚えのある少女の声に、アトリはぱっと顔を上げる。
僅か二つ離れた席に、いつの間にやらクレハが座っていた。
偶然ではなくちゃんとアトリたちだと認識して近くに来たのだろう。
「クレハ」
しれっと会話に参加したのは、全く気付いてもらえなかったからのようだ。
クレハは名前を呼ばれて、少しだけ呆れたような表情をする。
やっと気付いた、と彼女は席を移って距離を詰めた。
「あのね、先生のお使いで来たの」
「へ? 先生って」
クレハはユーグレイを見て、「アトリを借りるね」と単刀直入に言い切った。
相棒は一瞬怪訝そうに眉を顰めたが、早くも状況を理解したようで反論はしない。
先生と言われて思い浮かぶのはたった一人だが。
「アトリ、ここのところ診察に行ってないんでしょう? 間を置かずに何度も哨戒に出るなら、心配だから一回来なさいって。もう通常の診察は終わったからすぐ診てくれるよ」
「そりゃ、ありがたいけど」
ノティスの一件もあって確かに少し間が空いてしまったが、まさかセナから呼び出しがあるとは。
しかも何故クレハが彼女のお使いをしているのか。
黒髪の少女はさっと腰を上げてアトリを促す。
付き添いならばと同時に腰を浮かせたユーグレイに、クレハは「私が一緒に行くから大丈夫」とあっさりと首を振った。
先日の件を気にしてくれたのだろう。
アトリがあの時のことをちゃんとセナに伝えられるよう、彼を遠ざけておこうという心遣いらしい。
もっとも流石のユーグレイも診察室の中までは付いて来ないけど、とアトリは苦笑する。
「そんなかかんないだろうし、ちょっと行って来る」
「ああ、わかった」
「なんかあっても、絶対に先行くなよ? ユーグ」
アトリはクレハに続いて立ち上がってから、ユーグレイに念を押す。
半分冗談で半分は本気だった。
ユーグレイは少し驚いたような表情をしてから頷く。
「君を置いては行かないから、安心しろ」
そう言って、彼は何故か嬉しそうに微笑んだ。
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