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6章
5
しおりを挟む少し冷たい手が額に触れて、アトリは目を開けた。
一瞬状況がわからず、慌てて身体を起こす。
見慣れた天井。
横になっていたソファに手をつくと、ようやくここが自室であることを確信出来た。
急な動きを咎めるように、額に触れていた手に力が入るのがわかる。
「落ちるなよ」
すぐ傍に膝をついたユーグレイが苦笑する。
まだローブを羽織ったままの彼は、たった今戻って来たようだ。
アトリは軽く頭を振ってソファに腰掛け直す。
吃驚した、と呟くと「それはこちらの台詞だ」と呆れたような言葉が返って来た。
「休むならベッドに横になった方が良い。ここで寝るなとは言わないが、せめて照明くらいは点けておけ」
「あー、うん。そりゃそうだ」
部屋が暗かったら、まだ同居人は戻っていないと思うのが普通だ。
多少なりとも驚かせてしまったのだろう。
悪い、とアトリは素直に謝る。
あの後。
多少時間はかかったがクレハの助けで自室まで戻って、色々それどころではなかったと言うのが正直なところだ。
防衛反応の快感は強烈なものではあったが、結局自身でそれを慰められなかったのが痛い。
どうして、と考えても明確な答えは出て来ない。
変な話だがユーグレイにきっちりと仕込まれたお陰で、一人でもちゃんと処理出来る自信はあったのだが。
この反応の正体がわからなかった頃のようにただ耐えて衝動に任せて吐いて、バレたらヤバいなと辛うじて後始末はした。
そうして防衛反応が収まるより先に限界を迎えて、ソファに倒れ込んだ記憶がある。
うん、部屋を明るくするとか全く頭になかった。
「……忙しかったのか?」
端的な問いだが、ユーグレイの顔には案ずるような色が滲んでいた。
同時に少し覇気のない口調に、アトリは首を傾げる。
見慣れた碧眼には、どこか憂慮が窺えた。
こうもわかりやすいのは珍しい。
アトリに対しての心配もあるだろうが、それ以外の要因もありそうだ。
「お前の方が疲れてんじゃねぇの? どした?」
アトリは手を伸ばして、ユーグレイのこめかみを軽く小突く。
相変わらず綺麗な髪だ。
触り心地の良い銀髪を指先で弄ぶが、彼は気にした様子もない。
ただ僅かに答えに窮したようではあった。
何か、あったな。
「…………いや」
否定とも言い切れない言葉の後、ユーグレイは視線を逸らした。
急かしたかった訳でも責めたかった訳でもないが、「ユーグ」とつい名前を呼んでしまう。
彼は真っ直ぐにアトリを見た。
「管理員から出向の依頼があったが、断った」
「え? ああ、そーなん」
ノティスの件もそうだが、今後各地への支援という仕事が増えるだろうなという予感は確かにあった。
アトリの事情がある限り、以前のように現場には出られない。
防壁内の雑用は腐るほどあるが、ユーグレイのような人材をそこに投入するのは組織として避けたいだろう。
実際クレハの保護という実績をあげている。
単純な哨戒任務や人魚討伐とは違った面倒臭さがあるが、別にその手の仕事が嫌ということもない。
何故断ったのか、と聞いて良いのだろうか。
ユーグレイはアトリの躊躇いを見透かしたように、静かに言葉を続ける。
「皇国で少々問題が、という話らしい。使節団の女性研究員を覚えているか?」
「イレーナさん? 覚えてるけど」
「身内の話を持ち出して来ただろう」
「…………んなこと言ってたな、あの人」
0地点の観測を計画しているらしい彼女は、確かにユーグレイが必要だと言っていた。
彼の協力を得るために、家族に手紙でも書いてもらおうかと口にしていたほどだ。
まさか本当にそこまで手を回したのだろうか。
ユーグレイはまだわからないと首を振る。
「カンディードに、問題解決のため構成員を派遣して欲しいと手紙が送られて来たそうだ。名指しで戻って来いと言われた訳ではないが、間違いなく父の名ではあった。だから管理員も僕に出向の依頼をしたのだろうが」
「……………」
「すまないが、独断で断った。向こうも僕の顔を見たいとは思っていないだろう」
酷く冷静な声にアトリは眉を寄せる。
ユーグレイにとって、それは覆しようのない確信なのだろうと思った。
そんなはずないだろうと、無責任に否定出来ないのが悔しい。
それとも優しく慰めてやれたら良かったのだろうか。
どちらにせよ、力不足だ。
アトリは両手でユーグレイの頬に触れた。
「何で謝ってんの? ユーグがやりたくない仕事、俺がやりたいって言う訳ないだろーが」
そうだな、と答えて彼はどこかほっとしたように笑う。
ああ、全く。
そういう顔をしないで欲しい。
ぐいぐいとその頬を揉むと、流石に手首をそっと掴まれた。
悪戯を咎めるように、「アトリ」と名前を呼ばれる。
「俺は、お前の顔いくらでも見てたいし。ありがたく独り占めさせてもらおーかと」
目の保養になる、と真面目な顔をしてみせたが途中で耐え切れずに笑ってしまう。
どこから見ても文句の付けようがない美青年である。
ただこの顔じゃなくても、結局それがユーグレイならアトリはその相貌を好ましいと思っただろう。
独り占めさせてもらおうとか、重症である。
ユーグレイは何も言わなかった。
彼は何故か虚をつかれたように、目を見開いて。
それから何の前触れもなく唇が塞がれた。
弱い皮膚を重ねて熱を分け合うだけの、ささやかな口付けだ。
くぐもった吐息が口の端から漏れるが、それに羞恥を覚えるより先に小さな快感が思考を埋める。
それは強烈な感覚ではない。
それでも。
ただ純粋に、気持ち良いと思った。
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