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6章
3
しおりを挟む「ーーーー大丈夫ですか?」
頭上から降って来た問いは、予想に反して純粋な気遣いに満ちていた。
子どものようにはしゃいでいたのが嘘のように、ラルフの声は落ち着いている。
アトリは荒い息と一緒に唾を飲み込んだ。
すぐ傍にラルフが膝をつく気配がする。
「すみません。触んないで……、下さい」
少しだけ視線を上げると、案の定僅かに持ち上げていた手をラルフが引っ込めるのが見えた。
具合の悪い人間にそうするように背を撫でようとしてくれたのだろう。
その厚意を拒否したい訳ではなかったが、今はとにかく身体に触れて欲しくはなかった。
たった今失態を犯したばかりで、恥の上塗りは避けたい。
付き合いは短いが、ラルフが悪い人ではないことは十分にわかっている。
出来ればこれ以上、彼に不快な思いをさせたくはなかった。
「少しでも動けるようであれば、防壁の中へ戻りましょう。辛いようであれば、手を」
「………………」
アトリは凪いだ海面を見て、頷く。
正直な所、もうほんの僅かでも動きたくはなかった。
ただ危険が少ないとはいえ、ここも海であることに変わりはない。
ほんの数歩の距離だ。
息を詰めて立ち上がると、ほっとした表情のラルフと目が合った。
こうなる可能性があると知っていたはずなのに油断が過ぎたなと酷く反省する。
事情を理解してくれているユーグレイがずっと側にいたからだろう。
「大丈夫です。戻りましょう」
ラルフは心底安堵したようにゆっくりと頷いて、門の扉を開ける。
先にと彼を促して、アトリは重い身体を引きずるようにして後に続いた。
日頃から人気のない第四防壁の門。
耳鳴りがするような静寂の中、軋むような音を立てて扉が閉まる。
アトリは詰めていた息を吐き出して、そのまま扉に寄りかかった。
「……すみません」
これくらいなら、などという感覚は最早当てにならないのだと痛感する。
溺れるような快感を正しく受け入れようと身体の奥が疼く。
受け入れることに慣れた胎が熱を求めているのがわかった。
駄目だ。
「いいえ、謝らないで下さい。横になりますか? 楽な姿勢を取られた方が良いのでは?」
「………………いや、え?」
楽な姿勢、とは。
冷や汗をかきながらラルフを見ると、彼はいつでも手を貸せるように身構えていた。
完全にアウトだと思ったが、その後のアトリの様子からただの体調不良だと思ってくれたのだろうか。
良かった。
ふっと息を吐くと、ラルフは小さく首を振る。
「腹痛ですか? 場合によっては質の悪い病気のこともありますし、どの辺りがーー」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
ラルフの大きな手が原因を探るようにアトリの腹部を軽く押す。
逃げようと引いた足が扉にぶつかった。
目の前が真っ白になる。
嫌だ。
「ーーーーッん、ぐ!」
夢中で突き出した手が、彼の身体を押す。
噛み締めた奥歯が痛い。
どん、と何かがぶつかるような音がして、無意識に捩った身体が背後の扉に衝突したのだと気付いた。
「も、申し訳ありません! 大丈夫ですかっ!?」
切羽詰まったようなラルフの声。
彼に非はない。
大丈夫と答えたかったが、僅かに開いた口からは震えるような息しか出て来なかった。
ゆっくりと戻って来た視界は、まだちらちらと明滅している。
「どなたか、呼んで来ますね!」
いや、こんな状況で誰か呼んで来られたら困る。
部屋に戻って、一人になれたらそれで良いのだ。
崩れ落ちそうな身体を扉に押しつけたまま、アトリは必死に首を振った。
「……だ、いじょうぶ、です。ちょっと、落ち着いて、きた、ので」
「無理をなさらないで下さい、アトリさん。どう見ても、普通ではありませんよ」
そうだ。
普通の体調不良ではない。
誰に診てもらったところで、どうしようもない。
「ーーーーラルフ、さん」
アトリの呼びかけに、ラルフは慌てたように「はい」と答える。
「水が、欲しい、です」
「水、ですね。わかりました!」
くるりと踵を返したラルフは足早に去って行く。
近くの談話室か、或いは売店に向かってくれたのだろう。
本当に、申し訳ない。
視界から彼の姿が消えると同時に、アトリは壁に手をついて歩き出した。
なんでも良い。
早くここから逃げたかった。
「…………っう」
それは確かに快感のはずなのに、どうしてか気持ち悪くて仕方ない。
冷たい石の壁に爪を立てて、アトリは吐き気を堪えた。
数メートル先の階段が酷く遠い。
腹部に触れたラルフの手の感覚が、まだ残っている。
こんなのは事故みたいなものだ。
セナに診てもらった時だって、同じようなことをされたはずで。
ようやく辿り着いた階段を、手すりに縋りながら数段上がる。
ああ、でも。
嫌だ。
ひやりとした思考が、訴えた。
あれはユーグレイの手じゃなかったのに。
それなのに。
あんな風に、容易く達した。
こみ上げて来た感覚にアトリは思わずえずく。
「アトリさん!」
彼の声はそう遠くない。
止まっていた足が、弾かれたように動いた。
広い踊り場まで駆け上がると、アトリは階下を振り返った。
翻る白衣。
鳶色の髪は少し乱れている。
アトリの姿を見つけて、ラルフは「そこにいて下さい」と叫ぶ。
追いつかれてはいけない、と何故か思った。
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