124 / 181
6章
0
しおりを挟む聞き慣れた水の音はしなかった。
一面の黒い海は、少しの風で揺らいでいるように見える。
本来であれば視界に入るはずの防壁はどこにもない。
微かな違和感と共に、どこか判然としないこの光景が夢であることを自覚する。
この手の夢は大多数の構成員が見ているだろう。
現場で目にした悲劇の再現。
いずれこの海で迎えるかもしれない自身の最期。
まあつまり、ありきたりな悪夢の一つだ。
自覚のない状態で見るそれは人並みに嫌な気分になるものだが、こうして夢だとわかっているのであれば特に何と言うこともない。
ぽつんと海に立ち尽くしたまま、変化のない水面を眺める。
どうせ人魚が襲って来るのだろうと思ったのに、不思議なほどその気配はない。
じゃあ何が起こるのだろうか。
誰が、何に。
瞬間、殆ど反射的に脳裏を過ぎるものがある。
ああ、それは、嫌だ。
考えたら駄目だと知っているはずなのに、結局思考を止められないのはどういうことなのか。
酷く重い身体が、意思とは関係なく背後を振り返る。
遠い背中。
同じように海に立つ人影は、悲しいほど見知った形をしている。
彼一人でも多少のことなら対処出来るはずだ。
それでも、そんな遠くにいたら危ない。
駆け寄ろうとした足は暗い水に囚われたまま動かなかった。
音もなく、彼の傍の海面が盛り上がる。
人魚だ。
嬉々として口を開けるそれを、ただ見ている。
彼は脅威に気付いた様子もない。
揺れる銀髪。
彼方を見つめる彼は、果てしなく遠い。
これは、夢だ。
でも、そうだとしてもその光景を見たいはずがない。
いや、その光景だけは見たくない。
自分が海に引き摺り込まれる方が、何倍も何千倍もマシだ。
緩やかに降りかかる影。
視界から消える彼に向かって、夢中で手を伸ばした。
柔らかい毛布の端を握り込んで、アトリは目を覚ました。
常夜灯の薄明かり。
見慣れた寝室。
心臓が嫌な音を立てていた。
静かに深呼吸をしてから、寝返りを打とうとして実質それが不可能なことに気付く。
背中には心地の良い体温。
苦しくはないがしっかりと回された腕が身体を押さえ込んでいる。
「………………」
昨夜は例によってユーグレイが魔術の構築を試みたはずで、どうやらそのまま寝落ちたようだ。
単純に眠かった記憶があるから、成果があったとは言い難いがまあそれは別に良い。
アトリは背後の相棒を起こさないように慎重に振り返った。
閉じられた瞳。
枕に散らばった銀色の髪。
彫像のように静かな寝顔だ。
ヤることはヤッてるから今更だけれど、最早当然のように同じベッドで寝ているなとアトリは軽く目を閉じた。
それが不快ではないからまた困るのだが。
「アトリ」
いつもより少し掠れた声で名前を呼ばれる。
気をつけていたはずだが、気配で起きたらしい。
「……悪い、起こした」
ユーグレイは小さく笑って「構わない」と答えた。
こういうところだよなと呆れ半分感心する。
「悪い夢でも見たのか?」
酷く優しい声で問われて、アトリはひとまず口を噤んだ。
全くその察しの良さは一体何なのか。
ただまあ、そうだと頷くには少しの気恥ずかしさもある。
「いや、ちょっと目が覚めただけ」
「そうか」
大切なものでも抱きしめるように、ユーグレイの腕に力が籠る。
まだ激しく脈打つ心臓を労わるように、彼の手のひらが胸の上を覆った。
これは、バレてるな。
「眠れそうか?」
「……どーですかね」
「眠れないなら付き合うが」
「寝る。大丈夫」
ふっと微かに笑われて、アトリはユーグレイの腕を軽く叩いた。
仮にも彼より年上である。
大事大事とばかりに子ども扱いされるのは抵抗があった。
ユーグレイは何の言葉もなく、不意にアトリの首筋に唇を寄せる。
ちり、と痺れるような痛み。
アトリは片手でユーグレイの額を押しやった。
「寝るって言ってんだろーが」
「君が寝ていても構わないが?」
「どーいう意味だ、怖い! いいからお前も寝ろ」
戯れ合うように交わす言葉が積み重なるうちに、暗い夢の余韻はいつの間にか霞んでいた。
残念だと呟いたユーグレイに抱きしめられたまま、アトリは目を閉じる。
溶け落ちる思考。
ただ。
この夜の先に、あの夢の続きがないことを願った。
21
お気に入りに追加
36
あなたにおすすめの小説

目覚ましに先輩の声を使ってたらバレた話
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
サッカー部の先輩・ハヤトの声が密かに大好きなミノル。
彼を誘い家に泊まってもらった翌朝、目覚ましが鳴った。
……あ。
音声アラームを先輩の声にしているのがバレた。
しかもボイスレコーダーでこっそり録音していたことも白状することに。
やばい、どうしよう。
聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい
金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。
私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。
勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。
なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。
※小説家になろうさんにも投稿しています。

王子様から逃げられない!
白兪
BL
目を覚ますとBLゲームの主人公になっていた恭弥。この世界が受け入れられず、何とかして元の世界に戻りたいと考えるようになる。ゲームをクリアすれば元の世界に戻れるのでは…?そう思い立つが、思わぬ障壁が立ち塞がる。

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

オッサン、エルフの森の歌姫【ディーバ】になる
クロタ
BL
召喚儀式の失敗で、現代日本から異世界に飛ばされて捨てられたオッサン(39歳)と、彼を拾って過保護に庇護するエルフ(300歳、外見年齢20代)のお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる