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6章
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しおりを挟む聞き慣れた水の音はしなかった。
一面の黒い海は、少しの風で揺らいでいるように見える。
本来であれば視界に入るはずの防壁はどこにもない。
微かな違和感と共に、どこか判然としないこの光景が夢であることを自覚する。
この手の夢は大多数の構成員が見ているだろう。
現場で目にした悲劇の再現。
いずれこの海で迎えるかもしれない自身の最期。
まあつまり、ありきたりな悪夢の一つだ。
自覚のない状態で見るそれは人並みに嫌な気分になるものだが、こうして夢だとわかっているのであれば特に何と言うこともない。
ぽつんと海に立ち尽くしたまま、変化のない水面を眺める。
どうせ人魚が襲って来るのだろうと思ったのに、不思議なほどその気配はない。
じゃあ何が起こるのだろうか。
誰が、何に。
瞬間、殆ど反射的に脳裏を過ぎるものがある。
ああ、それは、嫌だ。
考えたら駄目だと知っているはずなのに、結局思考を止められないのはどういうことなのか。
酷く重い身体が、意思とは関係なく背後を振り返る。
遠い背中。
同じように海に立つ人影は、悲しいほど見知った形をしている。
彼一人でも多少のことなら対処出来るはずだ。
それでも、そんな遠くにいたら危ない。
駆け寄ろうとした足は暗い水に囚われたまま動かなかった。
音もなく、彼の傍の海面が盛り上がる。
人魚だ。
嬉々として口を開けるそれを、ただ見ている。
彼は脅威に気付いた様子もない。
揺れる銀髪。
彼方を見つめる彼は、果てしなく遠い。
これは、夢だ。
でも、そうだとしてもその光景を見たいはずがない。
いや、その光景だけは見たくない。
自分が海に引き摺り込まれる方が、何倍も何千倍もマシだ。
緩やかに降りかかる影。
視界から消える彼に向かって、夢中で手を伸ばした。
柔らかい毛布の端を握り込んで、アトリは目を覚ました。
常夜灯の薄明かり。
見慣れた寝室。
心臓が嫌な音を立てていた。
静かに深呼吸をしてから、寝返りを打とうとして実質それが不可能なことに気付く。
背中には心地の良い体温。
苦しくはないがしっかりと回された腕が身体を押さえ込んでいる。
「………………」
昨夜は例によってユーグレイが魔術の構築を試みたはずで、どうやらそのまま寝落ちたようだ。
単純に眠かった記憶があるから、成果があったとは言い難いがまあそれは別に良い。
アトリは背後の相棒を起こさないように慎重に振り返った。
閉じられた瞳。
枕に散らばった銀色の髪。
彫像のように静かな寝顔だ。
ヤることはヤッてるから今更だけれど、最早当然のように同じベッドで寝ているなとアトリは軽く目を閉じた。
それが不快ではないからまた困るのだが。
「アトリ」
いつもより少し掠れた声で名前を呼ばれる。
気をつけていたはずだが、気配で起きたらしい。
「……悪い、起こした」
ユーグレイは小さく笑って「構わない」と答えた。
こういうところだよなと呆れ半分感心する。
「悪い夢でも見たのか?」
酷く優しい声で問われて、アトリはひとまず口を噤んだ。
全くその察しの良さは一体何なのか。
ただまあ、そうだと頷くには少しの気恥ずかしさもある。
「いや、ちょっと目が覚めただけ」
「そうか」
大切なものでも抱きしめるように、ユーグレイの腕に力が籠る。
まだ激しく脈打つ心臓を労わるように、彼の手のひらが胸の上を覆った。
これは、バレてるな。
「眠れそうか?」
「……どーですかね」
「眠れないなら付き合うが」
「寝る。大丈夫」
ふっと微かに笑われて、アトリはユーグレイの腕を軽く叩いた。
仮にも彼より年上である。
大事大事とばかりに子ども扱いされるのは抵抗があった。
ユーグレイは何の言葉もなく、不意にアトリの首筋に唇を寄せる。
ちり、と痺れるような痛み。
アトリは片手でユーグレイの額を押しやった。
「寝るって言ってんだろーが」
「君が寝ていても構わないが?」
「どーいう意味だ、怖い! いいからお前も寝ろ」
戯れ合うように交わす言葉が積み重なるうちに、暗い夢の余韻はいつの間にか霞んでいた。
残念だと呟いたユーグレイに抱きしめられたまま、アトリは目を閉じる。
溶け落ちる思考。
ただ。
この夜の先に、あの夢の続きがないことを願った。
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