Arrive 0

黒文鳥

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5章

0.1

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 定期船を降りたのは、もう明け方が間近に迫った時刻だった。
 広い桟橋を少し歩くと、オレンジ色の外灯に照らされた門が見える。
 防壁だ。
 ユーグレイのすぐ後ろを歩いていたアトリが、どこかほっとしたような顔をした。
 
「ここがカンディードの本拠地?」

 ノティスのホテルを出た時は酷く眠そうだった少女は、ここまでの道程で随分と好奇心を刺激されたらしい。
 子どものように列車に興奮し、定期船では終始窓に張り付いていた。
 面倒な子守りだとは思ったが、アトリがこの少女を無事にカンディードに連れ帰りたいと思っていることもわかってはいた。
 精神が入れ替わるなどという特異な事象の最中、彼女の境遇に何か思うところもあったのだろう。
 アトリの身体を盾に殺人の共謀を求められたユーグレイとしては複雑だが、仕方ない。
 クレハ・ヴェルテットは全く警戒した様子もなく軽い足取りで門へと向かう。
 苦し紛れにアトリが彼女に貸したパーカーは、上手いこと人目を引くドレスの半分を覆い隠している。
 ひらひらと揺れる銀色のドレスの裾。
 アトリが不意にユーグレイの手を握った。
 
「…………アトリ」

 僅かに振り返ると、疲れ切った顔に苦笑を浮かべてアトリは肩を竦める。
 ノティスを発つ時に口にした不安は、やはり的中していた。
 鉄道に乗ってすぐ、同じように唐突にアトリに手を握られて魔力を求められた。
 それが何のためなのか、わからないはずがない。
 防衛反応だ。
 それを抑え込むために更に魔術を行使するというのは、どう考えても負担が大きい。
 けれどその対処のために二人で席を離れることをアトリは嫌がった。
 もう危険は少ないだろうが、それでもクレハを一人にするのは駄目だろうと言う。
 逆にアトリが一人でどうにかしてくると言うのを、ユーグレイは当然許可出来ない。
 結局その反応を先送りにするしかなく、クレハに気付かれないように折々魔力を渡してここまで帰って来たのだ。
 ユーグレイはアトリの手を握り返す。
 いつもより少し高い体温。
 
「…………あっ」

 驚いたような少女の声に、ユーグレイは視線を門に向けた。
 数歩先で立ち止まったクレハにようやく追いつく。
 待ち構えていたように静かに開かれた門から、よく見知った管理員が姿を見せる。
 おっとりとした目元には、大仕事をこなしてきたユーグレイたちへの労りが見て取れた。
 片手を挙げた管理員は「おう、おかえり。二人とも」とのんびりと言う。
 大柄ではあるが至って害のなさそうな彼の何が怖かったのか。
 クレハはぱっとアトリの後ろに回った。

「平気だって、クレハ。怖そーに見えるかもだけど、あれは優しい熊さんだから」

「一応お前らの上司なんだけどなぁ。『あれ』呼ばわりはどうなんだ? アトリ」

「申し訳ない。軽いノリでデカい仕事押し付けてくれた先輩の顔みたら、つい」

 笑いながらそう言い返したアトリに、管理員は「それを言われたらおしまいだな」と降参する。
 その気安い様子を見て、クレハも少しだけ警戒を緩めたようだった。
 管理員は膝に手を置いて身体を屈め、少女と目を合わせる。

「ようこそ、カンディードへ。しばらくはゆっくりしていくと良い。もちろんここから出て行くのもここに居座るのも、お前さんの自由だから心配しなさんな」

「………………」

 口を噤んだままのクレハに、管理員は困ったように眉を下げる。
 
「あー、色々あって疲れただろ? 部屋を用意してあるから案内しよう」

 ぽんと手を叩いた管理員にやはり少女は微動だにしなかった。
 これまでの境遇を考えれば、初対面の男というだけで恐怖が先立つのかもしれない。
 アトリは背後のクレハを見て、口を開く。
 一緒に行こうか、と言うのだろうとすぐにわかった。
 ユーグレイは思わず眉を寄せてアトリの手を軽く引く。
 平気な顔をして軽口を叩いていても、もういい加減限界だろう。
 ユーグと小さく聞こえた声を無視して、ユーグレイはクレハを見た。

「ここまで来たんだ。誰かに頼るだけなのは、もう終わりにしろ」

 少女は一瞬驚いたように瞳を見開いて、それから唾を飲み込むようにして頷いた。
 意を決したようにアトリの背後から踏み出したクレハは、管理員を見上げるとか細い声で「よろしくお願いします」と言って頭を下げる。
 熊のような管理員は「はいよ」と優しく答えて、にこにこと微笑んだ。
 一緒に防壁へと入ると、長い廊下を少し行ったところで管理員たちと別れた。
 彼女の部屋は第五防壁に用意してあるのだろう。
 名残惜しげな少女に、すぐ会えるからとアトリが声をかける。
 実際あの少女がどれほどの素養を有しているとしても、ここでは監禁などという行為は行われないはずだ。
 望めば再会など容易いだろう。

「…………………」

 見慣れた広い廊下。
 夜間哨戒に出ている人員はいるだろうが、それでも時刻が時刻だ。
 少女を見送った後の、静まり返った空間。
 夜明けを映す窓はここには一つもない。
 その閉塞感にユーグレイは不思議と安堵を覚えた。

「帰って来たな」

 アトリは何も答えない。
 代わりにユーグレイの手を強く握って、ぐいと引っ張った。


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