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5章
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しおりを挟む膝を抱えるようにして俯いたクレハは、「あーあ」と小さく呟いた。
横顔を隠した黒髪。
襟から覗く白い首筋がやけに頼りなく見えて、不思議な気持ちになる。
間違いなくこれはアトリの身体のはずなのに。
「全然上手くいかなかった。この身体ならもしかしてって思ったのに」
何か考えがあってレクターと接触しようとしたらしい。
アトリは扉をちらりと見て、それから「一人で来たのか?」と問う。
クレハは少しだけ視線を上げて、ぎゅっと膝を抱く腕に力を込める。
「そう」
「そうって、ユーグは?」
「ユーグ?」
怪訝そうに聞き返した彼女は、僅かに思案してからどこか諦めたような顔で微笑んだ。
「貴方はユーグレイさんのこと、そう呼ぶんだ? そっか、やっぱり仲良しなんだね。それじゃすぐバレちゃったのも仕方ないかな」
羨ましいな、と聞き取れないほどの言葉がぽつりと続いた。
アトリは傍に膝をついたまま、ひやりとしたものを飲み込む。
バレちゃった?
「え? 待っ、バレちゃったって」
「うん。もう、割とすぐ。私がアトリさんじゃないって気付いて、怖い顔で指摘されちゃった。名乗らなかったから、私とアトリさんが入れ替わってるってことまではわかってないと思う。だから、アトリさんを盾にするには丁度良くって」
クレハは何てことないように少し肩を竦めてみせた。
「レクター・ヴェルテットを殺すのを手伝って欲しかったの。でもユーグレイさん、その身体で人殺しをさせる訳にはいかないって言うから」
いや、あっさり彼女は言うが情報があまりに多くて混乱する。
アトリはこめかみに手をやって、首を振った。
レクターを殺す?
それを手伝えとユーグレイに迫った?
「……それで?」
「どうしても納得してもらえなさそうだったから、隙を見て逃げて来ちゃった。一人でも、あの人と接触さえ出来れば機会があると思ったんだけどな」
そうして一人でレクターを訪ね、逆に都合良く薬を盛られて捕まってしまったと。
突っ走り過ぎだろ。
「その行動力を別んとこに生かせねぇのかな。どーすんの、これ」
クレハは首を傾げるようにしてアトリを見上げる。
見慣れた自身の顔だ。
けれど諦観に彩られたそれは全く別の他人の顔に見えた。
「どうするって、でも勝手に私を『観測』したのはアトリさんだよ」
何も疑問などないかのように、彼女は当たり前のように言い返した。
自身の魔術が引き起こした事態だろうという予想はしていたが、そう言われると自信を持って「そうだ」と答えられない。
そもそも『観測』とは。
「私の身体で、私の世界を視ている。クレハ・ヴェルテットという人間の『観測』でしょう? よく知らなかったけど、カンディードって凄いんだね。私、『観測』されるほど弱くないと思ってたのに」
「……観、測。それはどう解いたら?」
彼女はきょとんとした。
そんなことがわからないはずがないと言いたげな表情。
クレハという少女は、一般的な魔術知識より多くを知っているようだ。
ただそれが特筆すべきことだと彼女は気付いていないらしい。
アトリも同じだけの知識があると思い込んだまま、クレハは「ああ」と小さく笑う。
「もしかしてあの人の魔力で解除しようとしたの? それは無理だよ。これだけ完全な『観測』をしてるんだもの。魔術を構築した時と同じだけの魔力が必要に決まってるよ」
そうか。
そうなると、やはりユーグレイと合流しないことにはどうにもならないらしい。
それでもこの異常事態が何か名前のつく現象で、解除方法があるとわかったのは随分な進展だった。
膝を抱えて小さくなっているクレハに、「そういうこと誰に教わったの?」と問う。
彼女はじっとアトリを見て、それから「お母さんから」と答えた。
何か訊きたそうな瞳だ。
けれど彼女の母親がアトリと同郷だとしても、語れることはそう多くはない。
気が付かない振りをしてアトリは軽く首を振った。
「……俺が勝手にやらかしたんなら仕方ない。何か物騒な話を聞いた気もするけど、ひとまず何もなかったならそれで良い。ちゃんと責任取ってカンディードまで連れて帰るから、それでチャラにしてくれると」
「どうするの? アトリさんが、あの人を殺してくれる?」
その問いかけに躊躇はない。
数回の接触と会話だけで、レクターに対する嫌悪は正直振り切れている。
クレハのその感情は或いは当然のものと言えるのかもしれないが。
アトリはきっぱりと首を振った。
「何であんなの相手に手を汚さなきゃなんないんだよ。いや、本当に驚愕のクソ具合だけど。社会的に死んでもらうくらいで良いだろ?」
「社会的に、死んでもらう?」
悪い顔をして笑った自覚はある。
殺したいと思うくらいなのだから、クレハ本人の了承も得たようなものだ。
これで心置きなくレクターの本性を暴露してしまえる。
アトリはようやく立ち上がって、ベッドに視線をやった。
明日の夜、婚約発表の場で混乱が生じればここの警戒も弱まるだろう。
何か理由をつけてクレハをここに留まらせ、マリィに脱出の手助けをして貰えば良いか。
酷く不愉快な期待を寄せられていたから、レクターもそうそう「アトリ」をどこかにやったりはしないだろう。
「何はともあれ明日かな。俺の身体で悪いけど、さっさとベッドで寝ちゃったら?」
クレハはさっきから同じ体勢のまま、呆気に取られたようにアトリを見上げた。
「このまま?」
「え、このまま。ああ、シャワー浴びるなら別に」
クレハは「そうじゃなくて」と、アトリの言葉を遮った。
相変わらずやや抑揚に乏しいが、それでも少しばかり焦ったような声の響きだ。
「手伝って」
何を、と問い返すのはやめた。
クレハは薬を盛られていて、つい先程レクターにそれを確かめられたばかりだ。
彼女は苦痛が和らげばそれで良いようで、何の恥じらいもなくアトリの手を掴む。
「嫌だけど!?」
「何で? これ、アトリの身体だよ。私は別に気にしないし」
「何で!? 俺が気にするっつの!」
しれっと呼び捨てにされたが、気に留める暇もない。
クレハはぐいぐいとアトリの手を引っ張る。
「でも男の人は自分でするんでしょう? それなら特に問題はないと思うな。それとも私の手で触られるのは嫌?」
「……とんでもねーお嬢さんだな!」
アトリはクレハの手を振り払って、数歩後退した。
床に座り込んだままの彼女は不満そうに小さく唇を尖らせる。
「あのな、父親に何言われて来たのか予想はつくけど、そーいうことは」
そういうことは、想いを寄せ合う相手とするべきで。
アトリは無意識に首筋に手をやった。
触れたいとか、したいとか。
いつから彼しか思い浮かばなくなったのだろう。
「そういうことは、好きな人としろ」
クレハはしばらく黙り込んで、それからようやく一つ頷いた。
「うん、わかった。わかったから手伝って。何か気持ち良いって言うより気持ち悪くなって来たから、早く」
「わかってねぇだろ、それ」
聞き分けのない子ども相手にしているような気分になって来た。
けれど気持ち良いより気持ち悪いと聞くと防衛反応の暴走で何度も苦しめられた記憶が呼び起こされ、そう無碍にも出来ない。
アトリは溜息を吐いて、咄嗟に取っていた数歩の距離を埋めた。
蹲み込んでクレハの腕を取ると、立ち上がるよう促す。
「顔色も悪くないし、ほっといても死にはしないだろ。とにかく吐いちゃって、落ち着いたら水でも浴びて寝ちゃえって」
その手伝いだったらするから、と言うとクレハは素直に腰を上げる。
別に良かったのにと冗談だか本気だかわからない一言は、無視することにした。
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