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5章
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しおりを挟む最悪の場合急所でも蹴り上げるかと思ったが。
幸いレクターが少女の脚を掴んだところで、控えめなノックが部屋に響いて彼は動きを止めた。
急かすように或いは彼の愚行を咎めるように、その音は強くなる。
レクターは冷ややかにアトリを見下ろして、静かに「どうした?」と扉の向こうに問いかけた。
躊躇うような一瞬の間。
扉越しのくぐもった声が「お客様がお見えで」と酷く端的に用件を述べる。
余興に水を差されたかのように、レクターは眉を寄せた。
彼はゆっくりと身体を起こして白い礼服を整える。
そうか、と答えた平坦な声の後。
レクターは身を翻す刹那「クレハ」と囁くように続けた。
「お前にはまだ教育が足りなかったようだね。この件については、また話をしよう」
「………………きちんとした対話であれば、喜んで」
掴まれた脚を押さえて、アトリは答える。
レクターの眼が鋭くなるが、彼は何も言わずに部屋を出て行った。
微かに遠ざかって行く足音に耳を澄ませて、アトリはようやく上体を起こしてベッドに腰掛ける。
乱暴に引っ張られた髪を指先で梳いてため息を吐いた。
魔術が使えなければ、所詮エルもただの人間と変わらない。
ユーグレイがいてくれれば。
「……クレハ様」
僅かに扉を開けて、白い顔をした女性が少女の名を呼んだ。
マリィだ。
彼女は背後を振り返ってから焦ったように部屋に滑り込む。
こちらに駆け寄る寸前、床に落ちていた赤いリボンに気付いてそれを拾い上げた。
「お着替えのお手伝いをと、思って……」
レクターを呼びに来た人についてここまで来たのだろう。
どこまで聞いていたのかは知らないが、その表情は怯えたように強張っている。
アトリは軽く笑って自身の服を見下ろした。
「それは助かる。正直どうしようかなって」
薄く繊細な服の着脱など全く経験がない。
袖部分のレースに触れながら呑気にそう言うと、マリィはリボンを握り締めたままぱっとこちらに走って来た。
「随分と大事なお客様のようでした。レクター様はいつもお部屋の外でお待ちになられるのに……、使いの方と行ってしまわれて」
「うん。……うん?」
「クレハ様、お力になると約束致しましたでしょう? 今、お部屋に鍵はかかっていません」
はっとして、マリィが入っていた扉に視線をやる。
欠かさず掛けられていた鍵は開けられたまま。
レクターの目もない。
彼女はアトリの肩に手を置いて、「さあ」と促す。
その手は微かに震えている。
「回廊まで降りれば、観光客もおります。人混みに紛れてしまえば、きっと大丈夫でしょう。ああ、でもクレハ様、お髪は上手く隠してしまわないと」
早口でそう言いながら、マリィは少女の髪を纏めようと指を潜らせる。
アトリは彼女の腕に触れてそれを止めた。
正直なところ、今であれば逃げ出せるような気はする。
彼女の力を借りて教会を出さえしてしまえば、ユーグレイのところに戻れる。
そうだ。
こんな状態で戻って「アトリ」だと認識してもらえないとしても、それでもユーグレイの隣に帰りたい。
会って、顔を見て、話したい。
怖いほどの欲求に辛うじて蓋をして、アトリは首を振った。
「力を貸して欲しいとは言ったけど、それじゃ貴方の立場が悪くなる。一緒に逃げられる訳じゃないんだろ?」
望めばフォックスが手厚く保護してくれるとは思うが、彼女の家族やこれまでの生活はどうなるのかわからない。
マリィはアトリの前に蹲み込んだ。
諦めきれないような表情で「でも」と繰り返して、唇を噛む。
「でもこんな、あんまりです。お許し下さい、クレハ様。今までずっと……」
言葉は嗚咽が混ざり、最後は啜り泣きに変わった。
その背を宥めるように、そっと撫でる。
クレハという少女を取り巻く環境は確かに最悪だけれど、でももしかしたら彼女自身にも出来ることがもう少しあったのではないだろうか。
少なくとも「助けて欲しい」という言葉一つで、マリィはここまで心を寄せてくれた。
「んな泣かなくても大丈夫だって。泣き寝入りする気はないし、ちゃんとやられた分はやり返すつもりでいるから」
まあ、そのための婚約発表だ。
レクターのような手合いは公の場で叩くに限る。
軽く言い放ったアトリに、マリィは泣き顔のまま呆然とした。
「それで、逃亡の手助けは必要ないけどちょっと外への伝言を頼まれて欲しいかな」
「は、はい。何なりと」
指先で涙を拭って彼女は頷いた。
出来れば、婚約発表の場にユーグレイたちを呼びたい。
現地調査員であるフォックスの伝手があれば恐らくは不可能ではないだろう。
レクターの所業を暴露して、そのままカンディードに助けてもらうという流れが一番手っ取り早く安全だ。
伝言を聞き終えて、マリィは何か探るような瞳でじっとアトリを見た。
クレハの名で助けを求めるだけの言葉だ。
首を傾げると、彼女は静かに後ろに下がる。
床に座り込んだまま、ベッドに腰掛けたアトリを見上げて胸の前で手を組んだ。
「……クレハ様は、本当に『クレハ』様でしょうか?」
「………………」
疑惑がようやく形になったような、半分確信を持った問いかけだ。
取り繕うことも殆どしなかったから、そう指摘されても仕方がないとは思った。
今更少女らしく微笑むことはしない。
いつものようにアトリは笑った。
「本当に『クレハ』じゃなかったら、マリィはどうする?」
それでもこんな馬鹿げた現象など、実際起こるものだとは思わないだろう。
本物の魔術師がいた時代ではないのだ。
だから彼女がどう答えたとしても、最終的には誤魔化してしまうつもりでいた。
アトリの問いに、マリィは敬虔な信者のように頭を垂れる。
「全て、御心のままに。ああ、我らが慈悲深き神よ。どうか、クレハ様をお救い下さいませ」
「………………」
なんか知らんうちに神様にされてしまった。
最早肯定も否定もする気力はなく、アトリは額を押さえて項垂れた。
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