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黒文鳥

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5章

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 娘のささやかな希望を、父親がどう捉えたのかはわからない。
 ただ少なくともそれは彼の意に沿うものではなかったはずだ。
 何故か上機嫌な婚約者と別れ、レクターに連れられて部屋に戻る。
 その扉が閉まった瞬間にレクターはアトリの肩に手を置いた。
 見上げた男は、憐れみの滲む嘲笑を向けて来る。

「クレハ、もちろんわかっているとは思うが、この結婚は決してお前の日常を変えはしない。あの婚約者殿が気に入ったのならそれはそれで構わないが、あまり情けをかけるものではないよ。お前はあくまで、私の娘。教会の聖女なのだから」

 言い聞かせるような優しい口調に反して、空気は纏わりつくように重い。
 場違いに穏やかな陽が、一つだけある窓から差し込んでいる。
 アトリは素っ気なく首を振った。

「…………申し訳ありません。仰っていることの意味がわかりませんが」

 肩に置かれた男の手に、少しだけ力が入る。
 身を屈めたレクターはアトリの顔を覗き込んだ。
 赤みがかった琥珀色の瞳が弧を描く。

「散々言ったのに、もう忘れてしまったのか? お前の母親もそうだったが、女というのは頭が足りなくて困る。あれは元々育ちが良くなかったから仕方がないが、お前までそうではね。クレハ」

「………………」

 吐き気がするほどの嫌悪感を飲み込んで黙り込む。
 左手で右腕を押さえて、アトリは足元に視線を落とした。
 危ない。
 うっかり引っ叩いてしまうところだった。
 レクターは娘の態度に、不信感の欠片も抱いていないようだ。
 この結婚によって自身が得る利益を、彼は恍惚と語る。
 政界への足がかり。
 資金援助。
 それによる教会内部での地位向上。
 楽しいことのように話すものだが、果たしてアトリにはそれの何が魅力的なのか理解が出来ない。
 まあ一財産は築けそうだけれど、だから何なのか。
 娘の意思を踏み躙ってまで、手に入れる価値があるものだとは思えない。

「クレハ、お前を正しく導けるのは私だけだ。お前はこれからも私の側で、その力を言われた通りに使っていれば良い。もちろん婚約者殿を愉しませてやるのは良いが、それとは別にお前にはちゃんとした子供を作ってもらわなければね」

 レクターはアトリの肩を優しく叩く。
 その点に関しては、と彼は低く笑った。
 何か愉快なことを思い出したように、視線は僅かに遠くを見る。

「あれは良くやってくれた。私にクレハ、お前を遺してくれたのだから。特別な血族だのなんだのと随分とふっかけられてしまったが、まあ払ったものに見合う働きはしてくれたよ。耐久性が低かったのは残念だったがね、何よりあれは女として最高だった」

 レクターが「あれ」と称するのが、クレハの母親であることは明白だった。
 彼は、その人を「買った」のだ。
 耐え難い飢えと寒さ。
 当然のように首に嵌められた所有の証。
 微かな痛みを伴って、それらの記憶が蘇る。
 これは、あの国の人間が辿った末路の一つなのか。
 
「……っ!」
 
 無意識に、肩に置かれていたレクターの手を払い落とした。
 無駄な抵抗をして怪しまれては、明日の婚約発表の場がどうなるかわからない。
 けれど冷静なのは結局思考だけで、身体は殆ど流れるように攻撃に回っていた。
 振り上げた白い小さな手。
 父親は娘の抵抗に、薄く笑っただけだった。
 
「痛、っ……」

 あっさりと手首を掴まれて下ろされる。
 同時に長い黒髪を絡め取られて、ぐいと引っ張られた。
 編み込まれていた赤いリボンが、数本の髪と一緒に抜け落ちる。
 この身体が華奢な少女のそれであることを失念していた。
 アトリから見ても大柄なレクターに、クレハが敵う訳がない。
 踵が床から浮く。
 そのまま数歩引きずられ、頭を押されてベッドに倒れ込む。
 床に叩きつけられなかったのは流石に外傷を気にしてのことだろうか。
 柔らかな毛布を掴んで振り返ると、レクターは息が掛かるほど近くにいた。
 彼は体勢を整えようとしたアトリを押さえつける。
 いや、ここまでされたらもう良いだろう。
 咄嗟に触れられた手から魔力を引き出そうとして。
 
「っう……? く」

 吸い込もうとした空気が、上手く肺に入っていかない。
 慌てて喉に手をやるが、レクターはその細い首に触れてもいなかった。
 じゃあ何でこんなに苦しいのか。
 回らなくなる頭で、そういえばこんなことがあったと思い出す。
 セルがエルに代わって魔術を構築する方法。
 ユーグレイとそれを試した時、彼に許されなければ息をすることさえ出来ない感覚に陥った。
 他者に、自身の機能の多くを掌握されている状態。
 そういえば。
 レクターとクレハは皇国の研究院に出入りをしていたという話を、誰かが。
 
「反抗したい年頃なのは仕方がないが少し落ち着きなさい、クレハ。お前も、これをされるのは嫌だろう」

 そうやってずっと、この子を支配して来たのか。
 氷を飲み込んだかのように胃の辺りが冷たくなる。
 レクターは少し乱れた自身の金髪を、片手で撫でつけた。

「私もお前が苦しむ顔を見るのは、心が痛い。あまり聞き分けのないことをーー」

 ほんの少しだけ離れて行った男の身体。
 アトリはその脇腹を、膝で打った。
 明確に敵対の意を持って放った攻撃は、彼に些細な痛みさえもたらさなかっただろう。
 けれどレクター・ヴェルテットは、ようやく笑みを消してアトリを見た。

「ここの神様は、こういうことを……、許してくれんの?」

 アトリに問われた彼は、何も答えなかった。
 表情の抜け落ちた男は、獣のように荒い息を一つ吐き出す。
 大きな手が何の手心もなく脚を掴んだ。
 少し軽率だったか。
 この身体に傷を付けるようなことはしないと思いたいが、さて。 
 薄い布越し。
 太い指が肌に食い込む感覚に、アトリは奥歯を噛んだ。


 
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