99 / 181
5章
4
しおりを挟む噂の婚約者を前にして浮かんだ感想は、「思ったより普通だな」というあっさりとしたものだった。
あの日アトリたちが通された部屋より、幾分か豪奢な一室。
円卓には向き合うように二対の椅子が置かれ、ワインのボトルとグラスが用意されていた。
窓はやけに小さく扉もやや重厚であったことを考えると、元々内密な打ち合わせなどに使われる部屋なのかもしれない。
レクターに連れられて部屋に入ると、その人は既に椅子に座っていた。
小麦色の髪に明るい茶色の瞳。
身に纏った濃紺のスーツは随分と仕立てが良さそうだ。
レクターに向けられた無感動な視線は、一瞬で人の良さそうな笑みに変わる。
正直どんなやつが出てくるのかと思ったが、見目だけで言うのなら十分に好青年と言っていい。
椅子から立ち上がった彼はレクターと親しげに握手を交わす。
室内に従者を立ち入らせていないところを見ると、本当に秘密裏の用件なのだろう。
彼はアトリにも一応笑みを向けたが、早々にレクターとの会話に意識を向けてしまう。
レクターは彼がクレハにご執心だと言っていたが、果たしてそうだろうか。
好意がないとは言わないが、そこにたじろぐような熱は感じられない。
少なくともそれはユーグレイから向けられる感情の十分の一にも満たないだろう。
彼の隣に座るようレクターに促されて仕方なく腰を下ろしたが、彼らはそこにアトリがいることなどあまり意識はしていないようだ。
やはり、そうなのだ。
彼らにとってこの少女は、飾られた花と一緒。
ただそこにあるだけの物と同じなのだろう。
「これは私ではなく父の希望なのですがーー」
勧められたワインで唇を湿らせて、青年は落ち着いた声で話し出す。
この身体で一緒になって飲酒をする訳にもいかず、かといって気軽に会話に加われるはずもない。
最初は育ちの良いお嬢様っぽく見えるよう手を組んで楚々と座っていたアトリは、彼らの会話に耳を傾けながらふらふらとつま先を揺らした。
ほったらかしである。
娘のためにお茶くらい用意したって良いだろうと思うが、それをレクターに求めるのは無駄な気もする。
話は、翌日に控えている婚約者の父の講演会に関することらしい。
その講演会の後、立食パーティーの場で彼とクレハの婚約を発表したいと言う要望だ。
いやそもそもまだ発表はしていなかったのか。
公表するもしないも、結婚してしまえば一緒である。
どうでも良い話だと思ったが、レクターは意外にも渋い顔をした。
「以前も申し上げましたが、我々は神に仕える身。新聞社も顔を出すような華やかな場で婚約の発表などは、些か」
「もちろん、父も承知の上です。パーティーとはいえそう大きなものではありませんし、取材に来る新聞社も二社程度。クレハさんもそう緊張されずに楽しめるでしょう。それに結婚前にどこからか情報が漏れるよりは、先に発表しておいた方が良いと思うのですが」
穏やかなやり取りは変わらないが、どこか空気が張り詰めている。
アトリにはさっぱりわからないが、彼らは彼らなりに何らかの事情があって意見が対立しているらしい。
まあ、そんなことより。
新聞社が取材に来る立食パーティー、と言うのは非常に都合が良い。
婚約者側の関係者や教会の人間相手にクレハの現状を訴えても仕方ないが、それが新聞社となれば話は別だ。
レクターのような人間を引っ叩くなら、お誂え向きの舞台だろう。
「ですが、娘はお恥ずかしいことに淑女としてはまだまだ。お見苦しいところをお見せしてしまうことになっては……、クレハ?」
レクターの呼びかけに、アトリは顔を上げて彼を見た。
暗に彼の要望を拒否するよう求められているとわかる。
無論、その意に従う義理はない。
困ったような顔を作ったレクターに、アトリははっきりと首を振った。
「いえ、そういうことであれば是非」
一瞬、息を呑むような沈黙があった。
レクターも婚約者も、アトリをまじまじと見つめる。
よもや少女の口からそんな言葉が出て来るとは思いもしなかった、そんな顔だ。
そうですか、と先に我に返って明るく言ったのは青年だった。
「貴女がそう言ってくれて良かった、クレハさん」
いいえ、と隣の婚約者に答える。
ドレスは私が贈りましょう、と満足そうに微笑む彼はどことなく年相応にあどけない。
ふぅ、と息を吐いたレクターは静かに首を振った。
睨まれるくらいはするだろうと思ったが、父親は心底理解出来ない様子で「何故」と呟く。
アトリは真っ直ぐにレクターを見て、首を傾げた。
そんなこともわからないのか、と無邪気に見えるよう笑う。
「何故って。せめて、綺麗なドレスを着てたくさんの人に祝福されたいからですが。それくらいは、許してくれても良いでしょう?」
良いように使われて、ほぼ初対面の男と結婚するのだから。
せめて、それくらいは。
レクターはさっと眉を寄せた。
けれど彼が何か言う前に、僅かに腰を浮かせた婚約者がレクターの手を半ば無理やりに取って握手をする。
「流石はレクター様! 快くご承諾下さったと報告させて頂きます。きっと父もご無理をさせたことに対して何か返礼を、と思うでしょう」
レクターは彼を見下しているようだったが、この婚約者は案外やり手かもしれない。
にこにこと話を纏めた彼に、レクターは逡巡の末「仕方ありませんね」と頷いた。
公の場にクレハを出しての婚約発表とそれに対する見返りを天秤にかけて、結局は相手の意に沿う方が自身の利となると考えたのだろう。
自分の娘が他者に境遇を訴え出るなんて出来るはずがないと、確信しているからか。
話を終えてレクターが腰を上げる。
ああ、と不意に青年はアトリの肩に手を回した。
「この後少し、クレハさんとお話をさせて頂いても?」
軽く身体を引き寄せられる。
他人の体温。
微かに爽やかな香水の匂いがした。
嫌だなと確かに思った。
この人は、この距離を許した相手ではない。
レクターは娘の肩を抱いた青年を平然と見返して、「あまり長い時間は取れませんが」と前置きをして承諾する。
そのまま振り返りもせず、彼は部屋を出て行った。
扉が閉まった瞬間、肩を掴んだ青年の手に力が籠る。
彼はアトリの耳元に口を寄せて、ふっと笑った。
11
お気に入りに追加
36
あなたにおすすめの小説

目覚ましに先輩の声を使ってたらバレた話
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
サッカー部の先輩・ハヤトの声が密かに大好きなミノル。
彼を誘い家に泊まってもらった翌朝、目覚ましが鳴った。
……あ。
音声アラームを先輩の声にしているのがバレた。
しかもボイスレコーダーでこっそり録音していたことも白状することに。
やばい、どうしよう。
聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい
金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。
私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。
勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。
なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。
※小説家になろうさんにも投稿しています。

王子様から逃げられない!
白兪
BL
目を覚ますとBLゲームの主人公になっていた恭弥。この世界が受け入れられず、何とかして元の世界に戻りたいと考えるようになる。ゲームをクリアすれば元の世界に戻れるのでは…?そう思い立つが、思わぬ障壁が立ち塞がる。

僕の王子様
くるむ
BL
鹿倉歩(かぐらあゆむ)は、クリスマスイブに出合った礼人のことが忘れられずに彼と同じ高校を受けることを決意。
無事に受かり礼人と同じ高校に通うことが出来たのだが、校内での礼人の人気があまりにもすさまじいことを知り、自分から近づけずにいた。
そんな中、やたらイケメンばかりがそろっている『読書同好会』の存在を知り、そこに礼人が在籍していることを聞きつけて……。
見た目が派手で性格も明るく、反面人の心の機微にも敏感で一目置かれる存在でもあるくせに、実は騒がれることが嫌いで他人が傍にいるだけで眠ることも出来ない神経質な礼人と、大人しくて素直なワンコのお話。
元々は、神経質なイケメンがただ一人のワンコに甘える話が書きたくて考えたお話です。
※『近くにいるのに君が遠い』のスピンオフになっています。未読の方は読んでいただけたらより礼人のことが分かるかと思います。

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる