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黒文鳥

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4章

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「う゛、ッ、痛ぅ……!」

 片手が硬い木の縁を掴んだ。
 これは、テーブルだ。
 鮮明な身体の感覚に、あの場から戻ることが出来たのだと実感した。
 喜びや達成感を得る余裕はない。
 ずぐりと抉られるような痛みが、頭の奥で脈動している。
 支え切れずに椅子から傾いた身体を、誰かが抱き止めてくれた。

「アトリ!」

 ユーグレイだ。
 返事をしたいのに、喉の奥からは掠れた音しか出て来ない。
 灼けたように熱を持った眼を無意識に押さえると、少し乱暴にその手を取られた。
 ひんやりとした指先が、瞼を押し上げる。
 切羽詰まった表情のユーグレイ。
 フォックスも腰を上げて心配そうにこちらを見ている。
 
「ユー、グ」

「……見えているな?」

 アトリは呻くように「ああ」と答える。
 痛みに対して、目の機能には全く異常がない。
 
「ちょっと尋常じゃない感じだけど何事!? 医者呼ぼっか?」

 焦ったようなフォックスの問いに、アトリは小さく首を振った。
 外傷ではない。
 何が起こったのかよくわからないが、少なくともこれは魔術に起因する痛みだろう。
 医者を呼んでもらっても処置の仕様がない。
 防衛反応が、またおかしいのか。
 或いは別のダメージなのか。
 肩で息をしながら、どちらにしてもこれはちょっと酷そうだとアトリは思う。
 
「強行、手段を、取って良い」

 何よりまず得た情報を吐き出しておかなければ。
 ここでアトリが何も言わずに倒れたら、それだけ手を打つのが遅くなる。
 
「クレハ・ヴェルテットが置かれている状況は、俺たちが思っているより、ずっと、悪い」

「もういい、アトリ」

 視界には問題がないのに、目を開けているのが辛くて仕方がない。
 苦痛を誤魔化すように息を吐くが、その息さえ震えが止まらなかった。
 目を覆って背中を丸めると、ユーグレイが脂汗の滲んだ首筋を労わるように撫でてくれる。
 彼女には、いるのだろうか。
 こうやってその身を案じ優しく触れてくれる誰かが。
 もしいないのであれば、出来る限り早くあそこから連れ出さないと。
 きっと、何もかも手遅れになる。
 扉が開く音がして意図せず肩が震えた。
 この痛みがなかったら、アトリは素知らぬ顔で入って来たその人に詰め寄っていただろう。

「お待たせ致しました。おや、如何されましたか?」

 礼服が擦れるような音。
 窺うようにそう言いながらレクターが近付いて来るのがわかった。

「……具合が良くないようですね。よろしければ部屋をお貸ししましょう。少しゆっくりと休まれていくと良い」

 感情に比例するように、痛みが激しくなる。
 指の間から僅かに視線を上げると、心配そうな顔したレクターが手を伸ばすのが見えた。
 気持ちが悪い。
 嫌だ。

「触るな」

 拒絶の言葉は、アトリ自身ではなくユーグレイが発したものだった。
 それは容赦なく鋭く、冷たい。
 肩に回した手で、彼はアトリの身体を少し引き寄せる。
 格好良いなぁ全く、とくすぐったく思ったがいつものような軽口にはならない。
 アトリはユーグレイの腕の中で大人しく息を潜めた。
 気圧されたようにレクターが息を呑む音が聞こえる。

「ああ、返事は自分が預かりますよ、旦那。押しかけておいて悪いがどうも彼、体調が戻り切ってなかったみたいでサ。うっかりすると吐きそうなんだと。さっさとホテルに戻ることにしますわ」

 のんびりとした声が、張り詰めた空気を緩めるように響く。
 そうですか、と答えるレクターから返事が書かれた手紙を受け取って、フォックスはアトリたちを促す。
 
「ほーい、撤収撤収! てか歩けるかいな?」

「…………たぶん」

 アトリはテーブルに手を置いて、ユーグレイの腕を支えに腰を上げる。
 一瞬。
 高所からノティスの街並みを見下ろしている幻覚に襲われた。
 古い石造りの建物。
 細く入り組んだ道。
 真下に見えるのは、回廊の細長い屋根と石畳の広場。
 この風景は、あの少女が窓から見たものと同じだろう。
 足元がするりと崩れて、そのまま落ちて行くような恐怖。
 何か、強い違和感があった。
 先程まで少女を視ていた魔術はすでに解けている。
 それなのにまだ、どこか繋がっているような。
 
「ーーーーへ、あ?」

 ふわりと実際に身体浮いて、呆気に取られた声が出た。
 膝裏に腕を回してアトリを抱えたユーグレイは、何か文句でもあるのかと言いたげに眉を寄せる。
 ひゅう、と口笛を吹いたのはフォックスだ。
 防壁では最早揶揄われることもないが、流石に羞恥が勝る。
 ただ文句を口にする気力はすでになかった。
 脳を貫く激痛は、一向に引かない。
 もう別に良いか、とアトリはユーグレイの肩口に額を寄せる。
 彼の低い体温が酷く心地良い。
 
「……熱いな」

 ユーグレイが顔を顰めてそう言った。
 確かに、熱い。
 さっきまで焼かれるような熱を感じていたのは目だけだったのに、いつの間にか全身が熱かった。

「しんどい」

 端的に心情を口にすると、ユーグレイは「だろうな」とあっさり答える。
 だろうなって。
 もうちょっとこう優しい言葉は出て来ないものかと笑いたかったが、引き攣るような息が溢れただけだった。
 フォックスが軽い調子でレクターに挨拶をするのが、微かに聞こえる。
 
「……毎回、悪いけど、まかせた」
 
「任された」
 
 当然のように返って来たユーグレイの言葉を聞いて、アトリは瞼を閉じた。



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