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4章
7
しおりを挟む昨日より早い時間に訪れた教会は、少しばかり閑散としていた。
広く開けた礼拝堂。
天井近くの窓からどこか現実味のない光が差し込んでいる。
アトリとユーグレイを先導するようにさっさと神聖な空間に踏み入れたフォックスは、待ち構えていたその人に随分と気安く「やあ」と声をかけた。
白い礼服に身を包んだ彼は気分を害した様子もなく、けれど困った人だと言いたげに微笑む。
レクター・ヴェルテット。
アトリは息を吐いて、彼を眺めた。
焼きついた印象は簡単には拭えないが、少なくともこうして見る分には耐え難い嫌悪までは感じない。
ただ、その人の近くには行きたくないと思う。
「忙しいのに悪いですねぇ、旦那」
「いいえ、かのカンディードからのお客様をお迎え出来るのは我々としても幸せなことです」
レクターはそう言って、アトリとユーグレイを見た。
「皆様の献身によって我々の日常は守られています。心からの感謝を。ご体調は、その後どうですか?」
「え? ああ、全然大丈夫です」
そういえばあの場から立ち去るのに、アトリの体調不良を口実にしていた。
危うく何のことか問い返すところだったが、ユーグレイの目配せで辛うじてそう返事をする。
それは何よりです、と頷いたレクターは「ここでは何ですから」と訪問者たちを促した。
まずは何らかの方法でクレハ・ヴェルテットと接触することが第一の目標だとフォックスは言った。
そしてその接触の場に、レクターはいないことが望ましい。
何の圧力もない状況下で、彼女本人の意思を確認したいからだ。
けれどそれは言うほど簡単ではないだろう。
だからレクターが側にいる状態で話をすることになるだろうと想定はしていたのだ。
ただ彼女が本心を語ることが出来なくとも、その言葉の端、表情、視線に何らかの意思は表れるだろう。
三人もいればまあ何かしら気付けるでしょ、とフォックスは軽く計画をまとめたのだが。
回廊を進んだ先、案内された部屋には数人で囲めるほどのテーブルと椅子があった。
壁には額縁に入った風景画が飾られている。
一応、応接室ではあるのだろうか。
大きな窓を隠すカーテンは、華美ではないが随分と良い生地が使われていそうだ。
「どうぞおかけ下さい。今、お茶をご用意しますね」
そう言って背を向けるレクター。
部屋には人気がなく、目的の少女の影もない。
これから来るのか。
さっさと椅子に腰掛けたフォックスは一瞬笑みを深めた。
銀のトレーを手に戻って来たレクターは、テーブルに紅茶の入ったティーカップを置いていく。
高級なものでなくて申し訳ありませんが、とクッキーより少し厚みのある焼き菓子を添えると彼もようやく腰を下ろした。
「さて、こうして来て頂いたのにお詫びをしなくてはならないことがございます。実は、今朝方娘が熱を出してしまいまして……。皆様にご挨拶するのを彼女も楽しみにしていたようなのですが、本当に申し訳ございません」
フォックスはティーカップを持ち上げて、紅茶を舐めた。
「そりゃあ仕方ない。大変な時に押しかけちゃいましたね、旦那。聞きたいこともあるし自分らは日を改めるんで、どうぞ娘さんの側にいてあげて下さいな」
「いいえ、わざわざ来て下さったのに申し訳ない。娘のことで何か聞きたいことがあるのであれば勿論私がお答え致しますので、何でもお聞き下さい」
会わせたくないのだ。
カンディードから打診があったと言っても、それに強制力がある訳ではない。
不都合だと思えば、こうやって娘を出さなければ良い。
その上で、再度の訪問を困難にする手を打って来ている。
ここでレクターに質問をぶつけたところで意味はなく、疑問は解決したでしょうからと次の機会は巡って来ない可能性が高い。
やんわりと「でも心配でしょ?」と食い下がるフォックスに、レクターは「よくあることですから」と平然と返す。
ユーグレイが静かに息を吐く。
この手では、駄目だ。
「よくあることって、身体が弱いとか?」
アトリはティーカップで指先を温めながら、訊いた。
レクターは穏やかな笑みのまま、「身体が弱いというほどでもないのですが、時折」と答える。
問いかけに深い意味はなかった。
単純にこの手段では分が悪すぎると諦めただけだ。
それなら彼と話をするのも、別に無駄ではないだろう。
「……時折か。彼女は優秀な術者と聞いているが、防衛反応に問題はないのか? 子どもの傷を癒した時は酷かったのでは」
アトリの意図に気付いたのだろう。
ユーグレイがごく自然に言葉を繋いだ。
レクターは少し困ったように眉を下げて、首を振る。
「いえ、娘は昔からあまり強く防衛反応が出る方ではありませんので。お子さんを助けた時も少し怠さを訴えたくらいでしたよ」
「それは、羨ましい限りで」
心底からそう思う。
溜息を吐いたアトリに、ユーグレイが微かに苦笑した。
「これもきっと何かの運命だったのでしょうね。あの場に偶然私たちが居合わせて、本当に良かったと思っています」
「『私たち』? じゃ、やっぱりレクターさんが」
誰がセルなのかと思ったが、やはり最も身近にいる父親が魔力を渡していたらしい。
最早この雑談はアトリたちに任せる気らしいフォックスが、焼き菓子を頬張りながら「言ってなかったっけぇ?」と呑気に口を挟む。
聞けば、カンディードの目に留まるほどではないにせよレクターも素養持ちだと言う。
「強く出ないとは言え防衛反応を甘く見ない方が良い。時に、命に関わる」
ユーグレイの低い声に、アトリは口を噤んだ。
存じておりますとも、と応じるレクターの声はそれに対してあまりに重さがなかった。
ユーグレイは、アトリが防衛反応で苦しむことを酷く厭う。
無理はするなと繰り返すし、大丈夫かと何度も問う。
時にもうやめろとアトリの魔術行使を制止することさえあった。
彼は防衛反応によってエルが命を落とす可能性があることを、理解しているからだ。
では、レクターはどうだろうか。
「娘は自身より他人の痛みに敏感なようで、私も案じてはいるのですが……。癖なのでしょうね、なかなか改まらないのですよ」
レクターはどこか自慢げに微笑む。
アトリはじわりと込み上げた不快感を飲み込んだ。
所有物を見せびらかすような高揚が、言葉の端に滲んでいる。
駄目だ、やっぱり。
気持ちが悪い。
「アトリ」
耳に心地の良い声。
アトリははっとユーグレイを見て、それからレクターに向き直った。
口を付けないまま、紅茶は冷めてしまいそうだ。
「レクターさん。紙とペンをお借りしても?」
「……構いませんが」
怪訝そうな表情をしたレクターが腰を上げる。
何すんの、とフォックスがこっそりと聞いてくるが、説明する間もなく手元に紙とペンが用意される。
ユーグレイはただアトリの手元を見つめていた。
「娘さんに手紙を書くので、今、返事だけもらって来てくれません?」
「手紙、ですか」
質の良い紙にペンを走らせる。
レクターの視線が綴られる文字に注がれるが、アトリは構わず続けた。
「正直言うと俺、こーいう面倒なことは苦手なんで。何もないってわかれば、それで良いです。ただ、必ずクレハさんに返事を書かせて欲しい。体調が悪いとこ申し訳ないけど、この手紙に一言もらうだけで良いから」
明言はしなかったが、レクターはアトリが示唆したことに気付いたようではあった。
カンディードが彼女の状況を危ぶんでいること。
そのために彼女の意思を確認に来たこと。
そして、手紙という不正の効くもので妥協すると申し出ていること。
素知らぬ顔で、彼は頷く。
アトリは書き終えた手紙を二つに折り畳んで、レクターに手渡す。
「代筆はしないで下さい。バレた時、こっちもまた動かなきゃいけなくなりますんで」
「何のお話かわかりませんが、今、娘に返事を書かせれば良いのですね? 少しお時間を頂きますが」
ちょっとアトリさん、と咎める声を無視してアトリは「構いません」と答える。
レクターは手にした手紙に視線を落としてから、再び立ち上がり「では」と部屋を出て行く。
ぱたん、と軽い音を立てて、扉が閉まった。
「なんで勝手に話進めちゃったかな! 手紙の返事なんて良いように書かせ放題だからサ、意味ないって」
「ユーグ!」
腰を上げたフォックスには悪いが、やはり説明している時間がない。
アトリはユーグレイに手を差し出す。
相棒はやはりわかっているようだったが、「限界までは視るな」と釘を刺した。
レクターは娘のところへ向かったはずだ。
今なら、彼を追って『視る』だけで良い。
教会内を隈なく探知しなくてもいいだけ、負担も軽く確実なはずだ。
防壁を越える自信はないが、ただの石壁や扉程度は問題がないだろうという確信もある。
ユーグレイから魔力を受け取ると、アトリは躊躇いなく魔術を発動した。
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