Arrive 0

黒文鳥

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3章

0.2

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 かつてカンディードという組織の体制が不完全だった頃は、人魚を防壁で止めることが出来ず外界の海岸で人が襲われることは珍しくなかった。
 その頃の組織内部の事情はよく知らないが、色々と問題はあったようである。
 後に内部の管理体制や教育が見直されて現在に至り、ここ数年の未帰還者は現場に出る構成員のみに留まっている。
 哨戒における被害というのは、人魚の接近に気付かず強襲された事例が殆どだ。
 どれほどに管理員から注意喚起があったとしても、年に数名が人魚に呑まれて0地点に消える。
 油断なのか、探知の隙を狙うほどに相手が狡猾なのか。
 魔術を行使する側ではないユーグレイには、感覚としてその脅威が掴みきれない。
 当然ペアであるアトリには、その疑問を投げかけたことがある。
 答えは端的に「わからない」だった。
 君、少しは考えているのか。
 流石にそう苦言を呈すると、アトリは難しい顔をした。
 彼が時々やる「考えても意味がないから考えない」という思考故の「わからない」ではなかったようである。
 探知を躱されている、と感じることもある。
 逆に反応が弱すぎてこちらが見過ごしたのかと思うこともある。
 果ては、今この瞬間にその場に発生したとしか考えられないこともある。
 だから、わからない。
 そう説明されて、人魚というものが旧時代の禁呪の成れの果てであることを思った。
 それは肉の身体を持たない虚ろ。
 結局のところ人智の及ばぬものなのだと理解した。
 
「ーーーーーー、あ」

 叩きつけるような雨の中、幾度目かの探知でアトリは微かに声を上げた。
 現場に出て数時間、そろそろ交代の頃合いでもあった。
 互いの顔色を見て予想以上に体力の消耗が激しいことを確認し、門へと引き返す途中である。
 どうした、と返事を急かしたい欲求を抑え込んでアトリの言葉を待った。
 人魚を見つけたのであればすぐに対処の動きに切り替わるはずだが、アトリは遠くを見たまま唐突に走り出す。
 
「アトリ!」

 手を引かれて咄嗟にその後に続くが、状況を完全に飲み込めた訳ではない。
 アトリはまだ魔術を展開したまま、酷く切羽詰まった様子で唇を噛んでいる。
 
「気付いてない、間に合わない」

 譫言のような言葉を聞いて、その危機が遠くにあることは理解出来た。
 海水を蹴るようにして走るその背の先、雨に滲む視界に人影は見えない。
 
「遠い……!」

 アトリは息継ぎをするように、一度魔術を解いたようだった。
 足を止めずに、彼はユーグレイを振り返る。
 
「向こう側! 人魚に気付いてない! もう接触する!」

 区画を二つに分けての哨戒。
 反対側の担当が人魚に捕捉されているのか。
 咄嗟にベルトに括り付けてある通信機に手を伸ばす。
 いや、オペレーターに繋げたところで、遅すぎる。
 ぐっと手を握られて、ユーグレイは反射的に魔力を渡す。
 アトリはさっと視線を雨の向こうへと投げた。
 それならば。
 
「視えるのなら届く」

「遠いんだってば!」

「防壁からの警報より早い! 当てなくて良い、撃て!」

「ーーーーッ!」

 ばしゃりと水を蹴って、アトリは数歩先へと踏み込む。
 白い指先が弧を描くようにして振り下ろされる。
 刹那、眼を灼くような鋭い光が走った。
 肉眼で捉えられたのは、その閃光の尾。
 煩いほどだった雨の音が消える。
 だらりと腕を下ろしたアトリが、震えるような息を吐いた。

 どん、と聞き逃しそうな程の異音が微かに響いた。

 ざあっと海面を打つ雨粒の音が戻って来る。
 アトリは感情の読めない表情のまま、ユーグレイを見た。

「アトリ、状況は」

 通信を入れようとした手を、アトリが遮った。
 その手は力なくユーグレイの腕を叩く。
 ゆるゆると瞬きをした彼は、気が抜けたように笑った。
 
「当たった」

「………………」

「絶対、無理だと思った。凄いな、お前」

「……何故、僕を褒める?」

「だってユーグに言われなきゃ、俺、試しもしなかった」

 ありがとな、とアトリに礼を言われて「いや」と首を振る。
 ひたすらに降りしきる雨。
 アトリが走り出した地点からはすでにかなり離れてはいるが、未だ脅威に晒された人影はなくその声さえ聞こえない。
 視えるのなら届くとユーグレイは思ったが、反対にアトリ本人は無理だと判断した。
 現に人魚を撃った魔術の音さえ、あれほどに遠かった。
 冷たいものが喉の奥に満ちるような感覚。
 君は、どこまで「視ていた」?
 
「ユーグ?」

 不思議そうに首を傾げたアトリの手を掴んだ。
 同時に、区画には防壁からの放送が入る。
 人魚の出現確認と対処完了の知らせだ。
 状況が把握出来ていないため警戒を怠らないように、と言葉が続く。
 恐らくは危機を救われたペアも、報告は入れたものの何が起こったのかわからなかったのだろう。
 仕方なかったけどきっと驚かせたな、とアトリは苦笑した。
 
「……体調は?」

 掴んだ手を引き寄せるようにして、顔を覗き込んだ。
 濡れて額に張り付いた髪を指先で払ってやる。
 雨に打たれているせいで当初から決して顔色は良くないが、幸い悪化したようには見えない。
 少し見開かれた黒い瞳は、真っ直ぐにユーグレイを見返した。
 僅かに考え込んだアトリは、ゆっくりと頷く。

「今んとこ大丈夫。寒くて腹減ったけど、倒れそうとかはない」

「そうか。戻るぞ」

 手を引くと、アトリは素直にユーグレイの後をついて来る。
 戻ったらとにかくシャワーを浴びてあったかいものでも食べようと、何事もなかったような会話が続く。
 けれど肺の辺りには、まだひやりとしたものが蟠っている。
 痛いほどの雨の冷たさを口実に、ユーグレイは防壁に戻るまでアトリの手を離さなかった。
 

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