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2章
0.1
しおりを挟むお疲れ様とアトリに労われて、ユーグレイは「君も」と短く返した。
それ以上互いに言葉が出て来なかったのも、仕方がない。
すれ違う同僚たちも事情はよく把握しているのだろう。
部屋までの道のり、あちこちから大変だったなと声をかけられる。
アトリはぼんやりと廊下の天井を見上げて、溜息を吐いた。
「ひさびさ、凄かったな」
「そうだな」
そういう日もある。
第三区画の夜間哨戒。
その切り上げの時間間際に人魚の対処に当たることになったのは、さして珍しいことでもなかった。
それ自体は何の問題もなく終えたのだが、交代で現場に出るはずだった新人ペアが怖くなったと防壁から出て来ず。
オペレーターから、急遽別のペアを送るからもう少し哨戒を続けて欲しいと要請された。
これくらいのイレギュラー対応は経験して来ている。
ユーグレイもアトリもさして文句も言わず哨戒を継続。
空が明るくなる頃第二区画を追われて来た人魚の迎撃をして、やっと数分の休憩を取った。
その後ようやく交代に来てくれたペアは、応援要請を受けたくなかったエルと勝手に要請を受けてしまったセルで険悪なムード。
これは任せていいのか逡巡する間もなく案の定言い合いが始まって、慌ててアトリが仲裁に入るが場は収まらず。
管理員が出張って来て話をつけてくれるまで現場を離れることが出来ず、結局防壁に戻ったのはもう夕方に近い時間だった。
「大丈夫か?」
ユーグレイはすぐ隣を歩くアトリの顔を窺う。
以前と変わらず二人で現場に出るようにはなったが、当然無理はさせられない。
担当医からも管理員に報告が入っており、現状仕事はセーブしながら様子を見ているような段階である。
ただ本人曰く、ユーグレイに隠す必要がなくなっただけでかなり楽とのこと。
実際不調を隠しているような様子もなく予想以上に上手く復帰が出来たと思っていたのだが。
これは流石にきつかっただろう。
最初の段階で要請を断って防壁に帰っておくべきだったと今更後悔する。
アトリはユーグレイの視線に苦笑した。
「んな心配しなくても、ぶっ倒れてないだろ?」
「…………そうだが」
ふらふらしているわけでもないし、受け答えが怪しいわけでもない。
少し白い顔はしているがまだ余裕はありそうだった。
ただ先に立ち寄った食堂では殆ど食事を摂っていない。
アトリもユーグレイがそれを気にかけていることをわかってはいるのだろう。
不本意そうな顔で「だって」と力なく首を振る。
「寝落ちて皿に顔突っ込みそうなんだよ。空腹はもうピーク過ぎたし」
「それはそれで見ものだが」
「……お前、本当に心配してる?」
「していないと思われているのなら心外だな」
負担は大きかったはずだ。
ただアトリ自身が言うように、眠いだけなのも本当だとは思っていた。
食堂でもユーグレイが食事を取りに行く僅かな時間でテーブルに突っ伏して眠っていたから、身体が食事より睡眠を欲しがっているのだろうと理解はしている。
付き合ってくれなくてもゆっくり食ってて良かったのに、とアトリはあっさりと言った。
「どうせ同じ部屋に戻るんだから、嫌でも様子くらい見られるだろ」
「そういう問題じゃない」
重い足取りで階段を上がり、個室が並ぶ廊下に出る。
アトリはユーグレイの返答に、少しだけ言葉に詰まった様子だった。
どれほど大丈夫だと言われても心配なのだと伝わっているのだろうか。
軽く口にした台詞を撤回するように、彼は「ごめん」と謝る。
怒っているわけではない。
勿論ユーグレイとて逆の立場であれば付き合う必要はないと言っただろう。
ただ、大切なのだと。
怖いほどにそう思う。
思わず伸ばした指先で、その耳元に触れ黒髪を摘む。
「っ、ちょ」
アトリは驚いたように耳を押さえて、ぱっとユーグレイを見た。
こんな些細な接触すら未だ慣れないのか。
息を吐くようにして小さく笑って、「どうした?」と聞く。
「ユーグ、お前、そーいうのどうかと」
「そういうの、とは。君の許容範囲は不可思議だな。やることはやっていると思うが、これは駄目なのか」
「やることって、え? いや、王子様的にその発言はアウトだろ」
「別に王室関係者ではないが。君に『王子様』と呼ばれるのは少し愉快だな」
戯れ合うようなやり取りの間に、かつての自室を通り過ぎる。
その先にある談話室の隣、移ったばかりの部屋の扉は少し大きい。
鍵を開けて促すとアトリは何の衒いもなく室内に踏み込んで、照明のスイッチを入れた。
ただいまぁ、と疲れた声が響いて、何故か堪らない気持ちになる。
ここを「檻」だと言ったのは、虚言ではない。
短い廊下の左右には小さな調理スペースとシャワー室。
奥にはソファとテーブルが置かれた狭い共有空間があり、向かい合うように寝室が二つある。
実質二部屋を繋げたほどの広さで、他人と生活するにはやはり手狭だった。
ユーグレイは寧ろそちらの方が都合が良かったが、肝心のアトリは果たしてどうだろうか。
けれど案じるほどのことはなく、大人しく檻に入った彼はユーグレイ同様居心地良さそうに過ごしているように見えた。
「悪い。先、浴びて良い?」
シャワー室の戸を開けたアトリにそう訊かれて、ユーグレイは当然頷いた。
ふあ、と欠伸をして彼は灰色のローブを脱ぐ。
だから全く、何故こうも警戒心がないのか。
するりと肩から落ちたローブを、背後から掴んだ。
アトリははっとして、肩越しにユーグレイを振り返った。
抱き締めるように回した腕に力が入る。
「……今日はしないかんな」
「あれだけ魔術を行使したのにか? 相当キツイと思うが」
「だから、今お前とやったら普通に死ぬって! 今日は……、自分でするから。ユーグ」
ぐいぐいと拘束を解くように腕を引っ張られて、ユーグレイは仕方なく力を緩める。
欲しくてどうしようもなかったものを手に入れて、それなのに満足にはいつでもほど遠い。
際限なくどこまでも欲しいのは、何故なのか。
歯止めをかけるには育ち過ぎた衝動のまま、その無防備な首筋に口付ける。
ひくと震えた身体を離すと、アトリは何か言いかけてそのままシャワー室に逃げ込んだ。
「逆上せるほど浴びるなよ」
「お前、ホント、いい加減にしろ!」
薄い戸の向こうから耐えかねたような声が聞こえて、ユーグレイは堪え切れずに笑った。
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