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2章
15
しおりを挟む「でも、何かあったら絶対、力にならせて下さい。ペアじゃなくても、私」
揺れるその金髪は、やはり綺麗だ。
反応の鈍さに心配そうな顔で首を傾げたリンに、アトリは「うん、聞いてるよ」と答えた。
ぼんやりとはしていたが、話はきちんと聞いている。
だが何故そうなったのかは、わかるようなわからないような。
ともあれ可愛い後輩が手を離れるのは、感慨深いものがある。
リンは少し寂しそうな顔で笑って、それから「本当に、色々ありがとうございました」と頭を下げた。
「今日これから、ロッタさんと申請に行ってきます。一番にアトリさんに報告しなきゃって思っていたから、会えて良かったです」
かちゃかちゃと食器が鳴る音。
さざめくような談笑が響く食堂は、遅い朝食を楽しむ人で賑わっている。
リンちゃん、と良く通る声に呼ばれて、彼女はぱっと顔を向けた。
食堂の入り口でぴょこぴょこと跳ねながら、ロッタが手を振っている。
じゃあ行ってきます、と腰を上げたリンはやはり楽しそうだ。
経緯を説明していた時は何となく成り行きでみたいな言い方だったのに、それはそれとして嬉しいのだろう。
アトリは「良かったな」と声をかけて、その背を見送った。
リンとロッタは一度こちらを振り返って、それから二人で何か話しながら食堂を出て行く。
二人がペアになるとは思ってもいなかったが、意外と仲が良さそうで安心する。
向かいの席で、あまり興味もなさそうにしていたユーグレイが視線を上げた。
手元にはいつもの朝食と、書類。
コーヒーを一口飲んで、ユーグレイはしれっと「大丈夫か?」と問う。
「随分ぼんやりしているが」
「っ、どちらさんのせいですかね!」
というかお前のせいですが。
ユーグレイは反省の色もなく、「君のせいでもあるな」とあっさり言った。
全部欲しいって大袈裟な、と思ったが。
どうやらユーグレイ・フレンシッドは、本気らしい。
わかったから、もう無理だから。
文字通り泣きながら懇願する程度には、思い知らされた。
輪郭を失うほどの行為の後、昼過ぎに目を覚ますと既に書類を用意したユーグレイがいて。
求められるままにサインをしてペアの申請が通り、あっと言う間に元の鞘に戻ることになったのが数日前。
それでもリンの研修は最後までやりたいという希望を受け入れてもらえただけ、良かったのだろう。
もっとも現場に出た日は必ずユーグレイにお持ち帰りされ、ぐずぐずになるまで抱き潰されては果たして良かったと言えるのか。
全く、そういう欲が強そうには見えないのに。
挙句周囲にはペア再結成をことある毎に祝福されて、どこにも逃げ場がない。
ここ数日はそんなだから、アトリがぼんやりしているのは仕方のないことではあった。
「だが、楽だろう?」
カットされたフルーツをいくつか残したまま、ユーグレイは皿をするりとこちらに押しやった。
元々は彼の朝食だが、何故かここのところ何かにつけて食べ物を与えられている気がする。
アトリが「いらねぇの?」と訊くと、「良いから食べろ」と返って来るのもお決まりだ。
まあ美味しいものに罪はないので、ありがたく頂くが。
精神的にも身体的にも、以前と比べて楽だろうという彼の問いには渋々頷いた。
「…………そーだけど」
ユーグレイはアトリの返答に表情を緩める。
嬉しそうな顔すんな、と言うだけは言った。
実際、楽だった。
脳の防衛反応の暴走。
それを一番知られたくなかった相手に、全部受け入れて貰えたということは何より大きい。
変わらず襲って来るその衝動は、ユーグレイとの行為で上書きされて苦痛を味わう間もなかった。
根本的には何も解決はしていないとわかってはいる。
けれど少なくとも、息が出来なくなるような罪悪感からは解放された。
あれに耐えて目を覚ました後に嘔吐する、なんてこともしばらくしていない。
「互いに利点があるのなら、別段文句を言うことではないと思うが」
現場に出た日にユーグレイがアトリを抱くのは、そのためだ。
あの荒れ狂うような快感をアトリが抵抗なく受け入れて、ダメージを負わないようにするための手段であると理解はしている。
理解はしているが。
ぱくと瑞々しい果実を口に放り込んで、アトリは頬杖をついた。
「いやでもお前、毎回あんなんされてたら壊れるっつの」
「壊れるほどいいのか。光栄だな」
「褒めてない。あのな、本当、毎度相手が意識飛ばすほどヤんのは普通になしだろ」
声だけは落として、アトリはじろとユーグレイを見た。
そりゃあ、気持ち良い。
良いけれど、訳もわからなくなってイキながらぷつりと意識がなくなるのは、ちょっと怖い。
そしてそうなる自分を受け入れられるほど、まだ達観も出来なかった。
少しだけ触れ合って一緒に寝るだけでも良いんだけど、と慎ましやかな提案もしてみたが問答無用で却下されている。
酷い。
ユーグレイは平然と首を振った。
「五年も我慢させられていたんだ。これくらいは仕方ない」
「仕方なくない」
「君だって、嫌ではないんだろう?」
「だから、嫌じゃないけど壊れるって言ってんだろ!」
ふっとユーグレイは口元を押さえて、肩を揺らした。
こうやって以前と変わらず、けれど聞かれては困る内容の会話をしていることが少し信じられない。
彼の隣を誰かに明け渡して自分は逃げてしまおうと、そう思ったのに。
多分もう、二度とそうは思えない。
ユーグレイは「また話し合いが必要だな」と言って、徐に手元の書類をアトリに差し出した。
「何これ」
ペアの申請はしたばかりだ。
受け取った書類には細かく何かの説明が書かれ、その一番下にはもうユーグレイのサインがあった。
「書いてあるだろう。相部屋利用の申請だが?」
「相部屋」
「寝室が分かれているから正確には相部屋ではないが。似たようなものだな」
第四防壁には、所謂家族寮的な少し広い部屋がいくつかある。
主には、夫婦や恋人が生活するためのものだ。
時には新人が入る個室が足りなくて、仲の良いペアが管理員に頼まれてそっちに移ったなんて話も聞かなくはない。
その部屋の利用申請、とは。
「部屋、変えんの? ユーグ」
「君も一緒にな」
当然と言いたげな響きの言葉に、アトリは顔を引き攣らせた。
いや、まだ第五防壁の自室を使ってはいるけれど元々の部屋に戻れば良いだけで。
そもそもこんな状態で更に一緒にいる時間が増えたら、壊れるどころの話ではないんですが。
「は……? えっ、何で?」
「何故か、聞きたいのか?」
ユーグレイは碧眼を細めて、アトリを見る。
獲物を見据えたみたいな瞳に思わず言葉を飲んだ。
こういう時の彼は、本気だ。
「危うく君を逃すところだったんだ。今度はきちんと檻に入れておこうと思うのは、当然だろう」
檻って。
書類を持ったアトリの指先を、明確な意図を持ってユーグレイが撫でた。
公共の場でやめろ、とその手から逃れるが、理性に反して身体は呆気なく熱を持つ。
十代の少年じゃあるまいし、いつからこんな過剰に反応してしまうようになったのか。
いや。
それだけユーグレイに、その快感を教え込まれたからだ。
思い至って、耳まで熱くなったのがわかった。
「それくらいの覚悟はして逃げたんだろう? アトリ。僕に捕まったのだから、もう、潔く諦めろ」
ユーグレイはアトリの動揺を見透かしたように、柔らかく微笑んだ。
欲しくて堪らなかったものをようやく手にした安堵が、その表情に滲んでいる。
何もかもどうでも良いみたいな顔をしていた彼は、どこにもいない。
そんな顔をされては、もう。
大人しく檻に入るしかないだろうな、とアトリは思った。
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