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2章
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しおりを挟む少し長めの銀髪が揺れる。
鋭い碧眼を呆然と見上げたアトリに、ユーグレイは何も言わなかった。
どうして。
いや門から少しの距離だから、たった今防壁から出てきたのだろうけれど。
リンは驚いた様子もなく、ユーグレイを見つめている。
「今日は随分と大人しいな」
抑揚のないユーグレイの声は、リンに向けられたものだ。
明らかに表情を険しくして、彼女は「貴方のためじゃないです」と答える。
門からこちらに向かうユーグレイに気付いていて、敢えて黙っていたのだろう。
或いは最後の魔術のお願いもそのために。
ユーグレイに掴まれた左手が、痛い。
「何で」
どうしてここにいるのか。
結局その手を見つめたまま、アトリは問いかける。
「情報元くらい予想が付くだろう」
ああ、全く。
会って話したことを言っても構わないのだろう、と言って笑ったのはカグだ。
明日は哨戒訓練があるしと呟いたのも、ご丁寧に伝えてくれたのか。
借りがあるからと言っていた癖に、半分やり返されたようなものだ。
ユーグレイは自嘲気味に小さく笑う。
「彼らから君のことを聞かされるのは、楽しいものではないな。アトリ」
「…………伝えてくれって頼んだ訳じゃねぇけど」
暗に離すよう引いた左手は、まだ逃してはもらえない。
こんなところまで、ただアトリに会うために。
まさか一人で来たのかと不安になったが、「ユーグレイ」と呼びかける声がしてアトリは息を吐く。
ぱしゃぱしゃと水音を立てて走って来たのは、彼のペアだ。
ロッタはユーグレイに追いついてさっと前髪を整えると、アトリとリンに気付いて目を丸くした。
その視線が、アトリの手を掴んだままのユーグレイに向けられる。
あーあ、と残念そうな吐息。
ふいっと三つ編みを揺らして、ロッタは顔を背ける。
「もぉ、ユーグレイは結局アトリさんばっか! ロッタ、横取りは好きだけど勝ち目のない勝負はしない主義なの。防壁に帰らせて頂きますぅ!」
そう言い切ったロッタに、ユーグレイは「そうか」と引き留める気配もない。
当然面白くない反応だったのだろう。
彼女はむぅと頬を膨らませて、突然歩み寄ると何故かリンの手を取った。
流石のリンもそれには驚いたようで、「えっ」と声を上げる。
「行こっ! 私たちお邪魔しちゃ悪いもんね。食堂でぱぁっと失恋パーティーでもしよ?」
「あの、私、失恋はまだしてませんけど」
「えぇやだ、気付いてないの? なおさらここには置いてけないじゃん」
ロッタは有無を言わせぬ調子で、ぐいぐいとリンを引っ張った。
彼女は戸惑った様子でアトリを見る。
「もう俺も帰るから、先戻ってて大丈夫」
そう声をかけてあげると、留まる理由を失ったリンは小さく頷く。
ロッタはユーグレイとアトリを見て、「じゃあお幸せに!」と良くわからない捨て台詞を残して門へと戻っていった。
賑やかな彼女がリンを連れていなくなってしまうと、辺りは沈黙に包まれる。
夕暮れはもう名残もなく、夜に染まる海は息を潜めたくなる気配に満ちていた。
「手、もう離せって」
「断る」
あっさりと返された答えに、アトリは呆気に取られる。
ユーグレイは碧眼を細めて、首を振った。
怒ってはいる。
けれど、どこかほっとしているようにも見えた。
ユーグと呼ぶと、彼は握った手に更に力を込める。
「君は逃げるだろう」
「もう、逃げない」
「そうか? 一度目は面会拒否からのペア解消、二度目は先程の後輩にしてやられて、これが三度目だ。用心深くなるのも仕方がないと思わないか?」
「……わかった。でも手痛いから、もうちょっと加減して欲しい」
「善処する」
する気ねぇな、これ。
アトリは少し冷たい空気を吸い込んで、門を見た。
「逃げないし、ちゃんと話すから。戻ろう、ユーグ」
促したのに、ユーグレイは一歩も動こうとしなかった。
手を掴まれている以上アトリもどこにも行けない。
門まで距離はないけれど、ここは第三区画の海だ。
「ユーグ?」
「話す気があるのなら、どこでも良いだろう」
「どこでもって、お前、何言って」
いや、こういう冗談を言うやつではない。
だから、本気なのだろうと思った。
こんなことで危険を冒すなんて馬鹿げているけれど、それを撤回させる言葉をアトリは持たない。
ユーグレイは酷く冷静な表情で「海で良い」と言い切った。
「君がさっさと必要なことを話せば、危険というほどの長居にはならない」
「…………容赦なくないか?」
二人きりで、考える時間も貰えないらしい。
「それくらいしないと、君は大事なことを話さないだろう」
ユーグレイは静かに、確信を持った口調でそう言った。
そうだ。
彼がこういう時に情けも容赦もないことは、ずっと前から知っていたはずだ。
アトリは反論を飲み込んで、繋いだままの手を握り返す。
「一回、探知するから」
魔力を、と言うまでもない。
身を切るような冷たさが一気に流れ込んで来る。
それは鋭くどこまでも澄んでいて。
やはり、綺麗だ。
結局これをずっと求めていたのだと思い知る。
周囲の安全を確かめてから、アトリは長く息を吐いた。
ユーグレイと目が合う。
ちゃんと謝るから、許して欲しいとは言わないから。
だからもう、そんなに必死になるのはやめてくれ。
「ごめん、ユーグ」
息を吸う。
ユーグレイは、何も言わない。
「色んなこと、黙っててごめん。迷惑かけたくなかったのに、結局お前に嫌なことさせた」
段々と声が小さくなる。
ペアで、親友で。
だから誰より大切にしたかった。
その想いの分だけ抱えた罪悪感は大きくて、アトリにだってどうしようもなかったのだ。
「俺、お前の隣にいる資格ない。だから」
ユーグレイの気配が揺らいだ。
間違ったことは言っていない。
でも確かに、彼の逆鱗に触れたと理解は出来た。
「だから、話す機会も貰えずに僕はペア解消を言い渡された訳か。五年もペアをやっていたのに? 信頼されていると思っていたが、君にとって僕はその程度の相手だったのか」
「っ、違う!」
アトリは強く首を振った。
そうじゃない。
感情ばかりが先立って、伝えたい言葉は何一つ出て来ない。
苦しい。
繋いだ左手に、ユーグレイの指先が食い込む。
「あの行為が君にとって屈辱的で嫌悪するべきことだったのだとしても、何も伝えさせてもらえないとは思ってもいなかった」
「だ、から…っ、そうじゃなくて!」
「それでも時間は必要だろうと耐えた。それで君は? 明らかに体調が良くないのに新人の研修なんかに手を貸して? 僕が、それをどう思うのかなんて気にもならなかったのか」
手を引かれて、不安定に踏み出した足が水を蹴る。
アトリは抵抗せず、至近距離からユーグレイを見上げた。
痛みを堪えるような顔をした彼は、「アトリ」と低く名前を呼ぶ。
「僕にされて泣くほど嫌だったからと言って、そこまで」
泣くほど嫌だった?
違う。
ユーグレイに「されたくなかった」のではなくて、「させたくなかった」だけだ。
屈辱的でも、まして嫌悪もなかったのに。
何でこんなに伝わらないんだ。
咄嗟に、右手を握り込んでユーグレイの肩を叩く。
「違うっつってんの、聞けよ!」
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