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2章
4
しおりを挟むリン、と呼びかけると彼女は嬉しそうに手を伸ばしてくれる。
白くて柔らかい、小さな手。
その手から流れ込む魔力が、ぱちりと熱を持って弾ける。
熱い。
呆気に取られたような表情のラルフに、「手出して」と端的に言った。
「はい? は、ーーーーえ?」
握手をするかのように、緩く開かれて差し出される手。
アトリはそのまま、彼の手を握り込む。
目を閉じて、集中する。
不思議そうな彼の声は、一瞬で驚愕の音に変わった。
リンから受け取った魔力で、アトリはラルフの視力を強化するよう魔術を編んでいく。
ニールにやったのと、基本は同じだ。
あの時後先考えずに傷を治そうとして、けれど完治には至らなかった。
他人の身体強化は、多分自身に向けるものより上手く作用しないのだろう。
そうだとしたら、それはきっとストッパーとして使える。
何よりこの手の魔術なら、アトリは辛うじて得意だと言えた。
消去法で、これが一番問題が少ないと思ったのだ。
広がる視界のイメージを、その魔術に乗せる。
ぐんと加速する風景。
どこまでも視せようと、魔力は一気に流れていく。
ああ、違う。
少しだ。
少しだけで、良い。
手を離れて暴走を始めようとする魔術に、アトリは唇を噛んだ。
頼むから、ちょっとは術者の意向に従って欲しい。
握った手が、驚きで震えるのがわかった。
「………………ッ」
もう十分だろう。
噛んでいた唇を舐めて、アトリはラルフの手を離した。
そしてゆっくりと目を開く。
恐れていたほどの反動はないが、一瞬ぼやけた視界に背筋が冷えた。
幸いバレない程度の深呼吸で、明瞭な視野が戻って来る。
目の前には、手を差し出したままの状態のラルフがいる。
目を見開いた彼は、微動だにせず呆然としていた。
「あ、れ? ヤバかった?」
まだ目の焦点の合わない彼の肩を、アトリは軽く叩いた。
反応の鈍さに、焦る。
やはり軽率だったのだろうか。
攻勢の強い魔術なんかよりは、よほど安全だと思ったのだが。
何が起こったのかわからなかったのか、リンはきょとんと周囲を見渡して魔術の痕跡を探している。
「アトリさん、今の」
「あー、せっかくだしと思って視力強化をしてみたんだけど」
上手くは行かなかったかな、と言いかけたアトリを、「とんでもない」と興奮した声が遮った。
強く首を振ったのは、ラルフだ。
良かった。
眼鏡を外して目を擦った彼は、やっと意識がはっきりしたようだった。
ああ、と震えるような溜息を吐く。
「凄い、これが、貴方が視ているものですか」
その感動で掠れた声に、アトリは咄嗟に返事も出来なかった。
鳥のように海面を滑る疾走感と浮遊感。
何の不安もなく魔術を行使していた頃の、あの高揚感が蘇る。
ありがとうございます、とラルフは眉を下げて笑った。
「ああ、本当に、ここまで来た甲斐がありました」
「んな、大袈裟な」
大袈裟ではありませんよ、と彼は熱の籠った声で否定した。
そんなに感動されると、逆に反応に困る。
ラルフは首を捻って「何かお礼を」と考え込んだ。
それからぱっと明るい顔をして、軽く手を叩く。
「そうですね。お礼とお近付きの記念を兼ねて、これから一緒に食事でもいかがですか? 勿論何でも奢りますとも」
「や、別に」
「アトリさん、行きましょう」
くい、と袖口を引っ張られてアトリはリンを見た。
確かにお腹は空いていると言っていたか。
じゃあリンだけでも、と言うと、彼女は「一緒が良いんです」と首を振る。
何故か必死な様子に見えたのは、気のせいだろうか。
いや、でも。
食事に行くとなると、第四防壁の食堂だろう。
当然、あそこは彼の生活圏内だ。
いつまでも逃げていられるとは思わないけれど、敢えて遭遇する確率の高い場所に踏み込むのは避けたかった。
「まだお昼には少し早いですし、きっと空いていますよ。さあ」
そうラルフに促されて、防壁へと入る。
様々な言い訳が一瞬脳裏を過ぎって、最終的には重い溜息と共に諦めた。
食堂は確かに人の少ない時間帯だろう。
彼は遠目でも目立つから、いればすぐにわかる。
そこまで考えてアトリは思考を止めた。
防壁内で生活しているのだから、いずれユーグレイと会うことになるとわかってはいる。
いっそさっさと顔を見て謝って、近況を聞いたりなんかして。
じゃまた、なんて当たり障りなく別れた方がきっと楽だ。
アトリさん、とリンがまた袖口を引く。
「んなに急がなくても大丈夫だって」
そう答えて、アトリも歩き出す。
でもいざ顔を見たら、きっと逃げ出したくなるんだろうなと自嘲気味に思った。
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