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2章
3
しおりを挟む第五防壁の銀色の門。
階段を降りてはいないから、正確には海に出てはいないと言えるのだろうか。
子どものように膝を抱えたその人は、ぼんやりと区画から見える空を眺めていた。
何か言いかけていたリンも、気付いたらしい。
その容貌がはっきりとわかる程の距離まで来て、アトリとリンは顔を見合わせる。
一段、二段と二人は揃って階段を上がった。
反応はまだない。
灰色のローブの代わりに仕立ての良さそうな白衣を羽織った、眼鏡の男性だ。
三十代前半くらいだろうか。
白衣の下はきちんとしたシャツにスラックス。
鳶色の髪は清潔な印象でセットされていて、一見奇行に走りそうな人物には見えない。
けれどその周囲にはペアもいなければ、護衛も見当たらなかった。
「えぇ……? 大丈夫ですか?」
アトリは少し腰を屈めて、男性の目の前で手をひらひらと振った。
穏やかそうな垂れ目をゆっくりと瞬かせて、彼は「おや」と手を振り返す。
いや、そうじゃなくて。
「何してんですか? こんなとこで」
「いやぁ、何をしているかと言われてしまうと、私にも説明が難しいのですが」
まるで昼寝から目を覚ましたばかりのように、気の抜けた声だ。
けれどアトリとリンの困惑した顔をしばらく見上げて、彼はようやく我に返ったようだった。
よっこいしょ、と掛け声をかけて立ち上がる。
「ああ、すみません。ご心配をおかけしてしまったようで。私、皇国の研究院から参りました、ラルフ・ノーマンと申します。そのー、決して怪しい者では」
皇国の研究院、と聞いてリンが背筋を正した。
それを横目で見ながら、アトリは簡単に名乗り返す。
使節団の方ですか、と恐る恐る問う彼女に、ラルフは頭に手をやって「一応そうなりますねぇ」と答えた。
いや、益々わからない。
皇国の使節団の一員が、たった一人で第四区画に出て黄昏ているとかどういう状況だ。
どうやら本人も、自身が怪しいことは重々承知しているようだが。
「こう見えて私、魔術研究に携わっているのですが」
実のところ防壁に囲まれた海もカンディードの活動も知識でしか知らなくてですね、とラルフは続ける。
「邪魔はしないので使節団の一人として連れて行って欲しいと、研究院のお偉方に文字通り泣きつきまして」
「泣きついて」
「はい。何だったらこのままだと研究報告を上げられないと、滅茶苦茶に駄々を捏ねました」
「駄々を捏ねた」
真剣な様子の彼は、話を誇張しているように見えない。
アトリは笑いを堪えながら、彼の言葉を一つ一つ繰り返した。
「念願叶ってこちらに伺えたところまでは良かったのですが、使節団の皆さんは現場には興味がないようでそちらの視察はなし。ここまで来て諦めもつかず、こっそり個人視察をさせて頂いておりました」
「なる、ほど?」
「安全性を取って第四区画に出てみたものの、人魚は勿論カンディードの皆さんも活動されている様子がなくて。とはいえ流石に海に入る勇気もなく、こうして空を眺めていた次第です」
ね、怪しくはないでしょうと自信満々に微笑まれて、アトリは額を押さえた。
「天然なんですね」
「…………っ、リン」
悪気なく発せられたリンの一言に、結局堪え切れずに吹き出してしまう。
使節団と聞いてどうするべきか一瞬悩んだが、事情は理解出来たしどうやら悪い人でもなさそうだ。
「人魚を見たいなら、上に話通して第二か第三区画に護衛付きで出んのが一番だと思いますよ。第四区画は滅多に哨戒もないから、俺らみたいに研修で出るやつがいないと誰もいないし。とにかく気が済んだなら防壁に戻りましょうか」
ラルフは曖昧な返事をしてから、やっと気が付いたみたいな顔でぱっとアトリの手を取った。
何故か不服そうな顔をしたリンが、アトリのローブをきゅっと掴んで引っ張る。
「研修? 研修ですか! ああ、そもそもお二人で海に出られているということは、セルとエルですよね?」
セルと言ってアトリを見て、エルと言ってリンを見たラルフはやはり研究員だ。
その男女比を良く知っているのだろう。
逆です、と訂正をしてから隠すこともなく頷く。
薄いレンズの向こう、髪と同じ鳶色の瞳が期待に輝いた。
「こうしてお会い出来たのも何かのご縁。厚かましいお願いで申し訳ないのですが、是非、魔術を見せては頂けませんか? その、簡単でぱっと派手な感じの、普段使う魔術で構いませんので!」
お願いします、と頭を下げられてアトリは手を握られたまま返答に窮した。
簡単で、ぱっと派手な感じの、普段使う魔術とは。
思い浮かぶのは人魚に対して撃ち出すそれだが、アトリ自身現状その魔術がどれほどの威力で紡がれるのか予想が出来ない。
かと言ってそれ以外の魔術となると、視覚的に捉えられるものではなくなってしまう。
「アトリさん?」
不思議そうなリンは、別段その要求に思うところはないようだ。
アトリとて以前であれば悩みもせず、それくらいならと言っただろう。
さて、どうするか。
「……見たことないんですか、魔術。研究員さんなんじゃなくて?」
「勿論、見たことはあります。私も一応魔力持ちで、自分の魔力でエルに魔術を使ってもらったこともありますよ。もっとも私は制御が下手でして、セルと呼ばれるほどの資質はなかったんですが」
あっさりとそう言うラルフは、卑下した様子もない。
どこまでもその瞳は穏やかで、凪いだ海のようだ。
「そもそも私たちが研究院で実験的に使う魔術と、現場で使われる魔術は本質が違うでしょう。私は、『本当のもの』が見たくてここまで来たんです」
だから、とラルフは言葉を続けようとして、アトリを真っ直ぐに見る。
一呼吸の後、彼はふっと手を離した。
「……いえ、突然そんなことをお願いされては困ってしまいますよね。不躾なことを申し上げて大変失礼を致しました」
「………………」
気付かれた、と思った。
アトリの逡巡を、彼はきちんと見て取って退いてくれたようだった。
いっそその立場を振り翳して、要求を命令にするくらいのことは出来るはずだ。
気にしないで下さい、と笑う彼は、けれど少し残念そうに肩を落とす。
あーあ、全く。
「あんま、期待しないで下さいよ」
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