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2章
2
しおりを挟む第四区画の海は、第二、三と違って僅かに本来の海に近い気配がする。
第三区画より少しだけ深い海は、青空を映して酷く穏やかだ。
リンの手を取って、一度周囲の探知をしたアトリは「大丈夫」と軽く頷く。
強張った顔をしていた彼女は、ぱっと表情を緩めた。
灰色のローブと紺色のワンピースの裾を一緒に摘んで、門から数段の階段を降りた彼女はアトリを振り返って微笑む。
一応、ここは防壁に挟まれた海。
人魚が出てもおかしくはない区画なのだが。
まあ緊張で固くなり過ぎるよりは良いか、とアトリは苦笑した。
魔力受け渡しの訓練に区切りを付けたのが、昨日。
こうして現場に出たのは、今日が初めてだ。
とは言っても、突然第三区画に連れて行くようなことは勿論しない。
一般的に新人が最初に出る現場はここ、第四区画だ。
第二区画をすり抜けて第三まで人魚が出て来ることはあるが、そこを越えて第四区画まで人魚が来ることはあまりない。
そして来ることはあっても、第二か第三で探知はされていて早々に区画内に警告が発せられることが殆どだ。
つまり、突然人魚が出て来てなんてことが少ない危険性の低い区画である。
同時にその環境は極めて第三区画に近いため、非常に訓練に適していた。
そして同様の目的の人間がいないと、区画は全く人気がない。
リンがはしゃぐのも、わからなくもなかった。
「綺麗ですけど、これ、ずぅっと歩いてたら、確かに疲れちゃいますね」
再度探知のために立ち止まると、リンは綺麗な眉を少し下げてそう言った。
もうすぐ、区画内を一周することになる。
最初は軽く感じた水も、ここまで来ると足に纏わりつくように重く感じるのだろう。
展開した魔術で区画全体を見渡してから、アトリは広がり過ぎる探知を無理やり切り離した。
期待をしていた訳ではないが、やはり出力は狂ったままだった。
箱庭を俯瞰するような、全能感。
或いはこの探知は、その気になれば防壁すら越えるのかもしれない。
「…………アトリさん?」
「ん? ああ、最初はそんなもんかも。慣れるまでは筋肉痛でしんどいんだよなー」
そうじゃなくてもアトリは探知をしながら区画を回ったら、防衛反応でへとへとだった訳だが。
まあ、良くやったものだ。
リンはくすりと笑って、「確かに、もう足が痛いです」と軽く握った小さな拳で自身のふくらはぎを叩く。
柔らかい日差しに、彼女の金髪がきらきらと光った。
「でも、足細くなったりするかもですね」
年頃の女の子らしい発言に、アトリは思わず笑った。
華奢ですらりとした足は、もう十分に綺麗だと思うのだが。
「逆に腹減るからめっちゃ食っちゃって、色々逞しくなったって話は聞いたことあるけど?」
「う、怖いこと言うの、無しです。私、もうお腹空いてるのに」
項垂れるリンを促して、アトリは歩き出した。
無理はせず、歩調は努めてゆっくりだ。
別段時間に追われてはいないため、哨戒任務に関する基本的な話から細々した決まりまで、請われるままに教える。
終着点と定めた第五防壁の門まで、あと少しの距離。
「アトリさんは」
傍を歩くリンが、ふとアトリを見上げながら言った。
次の質問か、と構えもせずにその言葉の先を待つ。
「ペアとして、ユーグレイさんにこういうことを配慮して欲しかったとか、そういうの、ありますか?」
「…………え」
ユーグ?
あいつが、何?
咄嗟に、思考が追いつかなかった。
彼女は蜂蜜色の瞳を伏せて、続ける。
「私、ペアになる人のこと絶対大切にしたいので、参考に……したいなって思って」
「ああ、そーいう」
アトリは小さく頷いて、けれどリンの視線から目を逸らした。
真っ青な海。
緩やかな曲線を描く白い防壁。
もう、あいつの隣を歩くことはないのか。
「ユーグは、何ていうかそういうの完璧だったから。配慮して欲しかったこととか、全然思い浮かばないな」
「……………………」
強い魔術は使えない。
挙句防衛反応に振り回されるアトリに、ユーグレイは嫌な顔もせず良く付き合ってくれたものだと思う。
アトリが苦しむことのない量の魔力を、いつでも違うことなく渡してくれた。
何気ない会話の一つ一つから、その日の限界ですら測っていたのだろう。
辛いとアトリが訴えるより早く、彼が防壁に戻ろうと言い出すことが殆どだった。
勿論いつだって感謝をしていたけれど、それに釣り合うだけの何かをちゃんと返せていたのだろうか。
そんなこと、今更だけれど。
「そんな心配しなくても、大丈夫だって」
安請け合いではなかったのだが、リンは何も言わなかった。
ペアとしてどんな配慮をして欲しかったのか、なんて聞ける時点で十分だ。
きっと彼女の隣に立つ人も、そう思うだろう。
「あ、の…………」
ようやく言葉を絞り出したリンは、何故か言い淀む。
そんなに深刻な話をしていたつもりはなかった。
気軽に、何と聞き返そうとして。
視線の先。
第五防壁の門を背に、誰かが座り込んでいるのが見えた。
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