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黒文鳥

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2章

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 第五防壁の自室は、元の個室とそう変わらない広さだ。
 備え付けのデスクや本棚が少し大きいのは、医療や研究に携わる人間が利用することを意識しているからだろう。
 ともあれアトリとしては利用する当てがない。
 第四防壁から引き払って来た少ない私物は、まだ荷解きもされずに部屋の隅に転がっている。
 アトリは小さな売店で買って来た夕食を、デスクの上に置く。
 忙しい医療関係者のために、手軽に栄養補給が出来るように作られたスープと柔らかいパンのセットだ。
 最早店員に心配されるほど、毎晩こればかり食べている。
 椅子に浅く腰掛けると、温かい良い匂いがした。
 それでも、食欲はあまりない。

「………………」

 気合いを入れて、スープを口に含んだ。
 なるべくゆっくりと咀嚼をして、時間をかけて食事をする。
 圧倒的に食べる量が減ったため、少しでも栄養を吸収出来るように。
 そして最悪吐いてしまった時に、苦痛が少ないように。
 どうしてこんなことになっているのかと言えば、全く何もかも、自分の責任だった。
 最後のパンの一欠片を飲む込むと、待ち構えていたように身体の芯が熱を持つ。
 今夜はどうも駄目そうだな、とアトリは冷静に思った。
 

 君、それ自傷行為だよ。
 リンの研修に付き合うという話になって、セナにはそう言われた。
 アトリの限界を正確に把握しているユーグレイとならともかく事情も知らない新人と現場に出るなんて馬鹿げている、と。
 そりゃあまあ、そうだ。
 脳の防衛反応に異常を来しているというざっくりした状況しか知らないベアもそうだが、リンに至ってはアトリの事情の殆どを知らされていない。
 先日の特殊個体の対処中に無理をして、現在はリハビリ中。
 ユーグレイとセナ以外にはアトリの現状は概ねそう理解されていたし、それ以上を知られることをアトリ自身が望まなかった。
 その上で、リンの研修に付き合うというのは確かに自傷行為だと言われても仕方がない。
 彼女はアトリがリハビリ中であると聞いて信じられないほどに気を遣ってくれた。
 痛くないか、無理をしていないか。
 まだ拙いながら必死に魔力量の調節までしようと努力してくれたが、そこに気を取られていては彼女の研修にはならない。
 全然平気だから気にすんな、と言ったのはアトリだ。
 どの口がと思うのは自分だけで、実際今日のような訓練においては身体の異変を感じたらさっさとその感覚を遮断することで事なきを得ていた。
 魔術行使に関する反応はともかく、魔力の受け取り過ぎに関しては大体がそれでどうにかなる。
 溢れるほどの魔力を防衛反応の抑え込みに使えば済むのだから、簡単ではあった。
 ただそれは後回しにされただけで、魔術が解けてしまえば積み重なったものが襲って来るのは当然の話だ。

 気を紛らわせるように長々とシャワーを浴びてから、ベッドに横になる。
 暗く、静かな部屋。
 吐き出す息に色が籠るのがわかって、アトリは目を閉じた。
 脳の防衛反応の損傷。
 治療は出来ないと言われたそれは、快癒することも酷く悪化することもなく律儀に耐え切れないほどの快感を叩きつけてくる。
 熱を冷まそうと自棄になって水を浴びれば当たり前に具合が悪くなり、セナに処方してもらった安定剤も胃が痛くなっただけで効果はなく。
 息を殺してその暴虐に抵抗すると、まるでそれが罪であるかのように苦痛に晒される。
 枷をつけられたような身体に鞭打って吐くものがなくなるまで嘔吐して、気を失うようにして眠る。
 そんなことを毎晩繰り返していたら、流石におかしくなってしまう。
 
「…………ぅ、く」

 ああ、そろそろ感覚が完全に切り替わる。
 アトリは袖口を噛んで、身体を丸めた。
 そのまま、指先で自身の首筋を撫でる。

 彼が、そうしたように。

 耐えるのではなくただそれを快楽として受け入れれば、苦痛は殆どなかった。
 組み敷かれて、胎の奥を暴かれ絶頂する。
 それを教え込んだ誰かを想い、罪悪感に溺れながら身体を慰めることを受け入れれば。
 だから、どちらかだ。
 身体の苦痛か、精神の苦痛か。
 冷静であれば概ね身体の苦痛を選んだが、実際その衝動に襲われるとどうにもならないことも多かった。
 今夜は、駄目だ。
 明日は第四区画とは言え現場に出る予定もある。
 そんなもっともな言い訳があれば、ほんの少しだけ罪悪感も和らいだ。

「は、ぁ…………あッ、んぐ」
 
 ばちん、とスイッチが入るように体が跳ねた。
 無理矢理追いやっていた感覚が、牙を剥いて襲って来る。
 考えるな。
 袖口を噛んだまま、指先で震える身体を辿る。
 触れた肌が、意図しなくても彼の手を思い出す。
 あの夜。
 ユーグレイは余すところなくアトリの身体に触れた。
 指の先から、足の爪まで。
 髪の毛の一掬いですら、彼は丁寧に指を絡めた。
 飛び飛びの記憶にはないが、残念ながら身体はしっかりとそれを記憶している。
 首筋から滑らせた指先は、鎖骨を撫でてあやすように胸元に触れる。
 神経質そうな、少し大きな手。
 
「ん、ぅ……ッ!!」

 それだけで、容易く絶頂する。
 荒い呼吸を聞きながら、耐え切れずに下腹部をぐっと押した。
 続けざまに襲って来た波に飲まれて、息が止まる。
 こんなことは、許されないのに。
 中を満たした熱を求めるように痙攣するそこは、眩暈がするほどに貪欲だ。
 死ぬほど気持ち良くて。
 辛い。
 アトリは押し出されそうな悲鳴を飲み込んだ。
 
 ペアを解消したいという申し出に、ユーグレイは最後まで首を縦に振らなかったと言う。

 結局は双方の同意の元に成り立つ関係性は、勿論アトリの望む通り継続することはなかった。
 それでも会って話がしたいとベアやセナを通じて求めて来た彼を、アトリは文字通り徹底的に拒絶してここまで逃げた。
 いや、だって、無理だ。
 身体を重ねたことは、きっと「治療行為」だと誤魔化してしまえる。
 酷いことを強いたと謝罪をしてそれでもその行為によって救われたことを感謝し、何だったらこれまでのように隣にいられたかもしれない。
 でもじゃあ、これは何て言い訳をしたら良い?
 まだ収まらない衝動のままに、きつく身体を抱き込む。
 あの狂ったような快感を、何度も注がれた欲の熱さを。
 思い出したくないのに、思い出したい。
 ほら、やっぱり。
 あいつの隣にいられるわけがない。
 もういっそ目が覚めなければ良いのに、とアトリは意識を手放す。

「…………ユーグ」

 縋るように自身の唇が紡いだ名に、心臓が軋む音がした。
 

 
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