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2章
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しおりを挟むふわふわした金髪が、首を傾げる動きに合わせて揺れた。
緊張感を帯びた蜂蜜色の瞳。
「どう、ですか? アトリさん」
恐る恐るそう問いかける後輩に、アトリは思わず笑いながら「大丈夫」と請け負った。
軽く握り合った両手。
流れ込んで来る魔力は、その不安そうな様子とは裏腹に安定している。
「上手になったなー、リン」
これならもう一人前に近い、と純粋に褒める。
アトリの手を握ったまま、リン・アルカウェラは嬉しそうにはにかんだ。
正式にユーグレイとのペアを解消して、アトリは第四防壁の自室を早々に引き払った。
元々自身の持ち物はそう多くない。
荷物を纏めて移ったのは、第五防壁の個室だ。
現場に出る組織員とは違い、非戦闘員は主にここを生活の拠点としている。
ユーグレイとは、もうペアではない。
けれど、じゃあ別の誰かとペアを組んでまたあの海に出るかと言われたら、それも現実的ではない気がした。
そうなるとアトリは分類的にはもう「非戦闘員」だ。
第五防壁に移るのは当然だと思えたし、何より第四防壁の自室では何かの折ユーグレイと遭遇する可能性もある。
諸々の手続きを請け負ってくれたベアは、アトリの判断をどう思ったのか。
ひとまずアトリの立場を、「療養中」と曖昧なままにしてくれた。
そうしてあの夜以来彼に会わずペア解消まで至って、半月。
ベアから唐突に、新人の面倒を見てみないかと誘われたのだ。
特殊個体の襲撃で多々怪我人が出たのに加えて、時期的に皇国の使節団訪問などが控えていてあちこち手が回らないのだと言う。
区画の見学をさせたり、不安点を聞いてやったり、というサポートで構わない。
そう言われて、快諾とはいかないものの断る理由はなかった。
どちらにせよ、アトリも延々と療養中という訳にはいかない。
そうして、じゃあよろしく頼むと引き合わされたのが。
あの講習会で、自分のペアになってくれる人なんているのかと不安を口にした少女。
リン・アルカウェラだった。
午後は少し人がいた広い訓練場も、陽が落ちる頃には貸切状態だった。
片付け、と言っても魔力受け渡しの練習程度では散らかしようがない。
照明を落として廊下に出ると、リンは雛鳥のように後をついて来る。
アトリの視線に気付くと、彼女はぺこりと頭を下げて「今日もありがとうございました」と丁寧に挨拶をした。
「どういたしまして。優秀な生徒で、俺楽させてもらってっけどな」
「そんなことないです! 長々と、魔力量の調節に付き合って頂いてしまって」
元々その魔力のことでエルとトラブルがあったからか、リンは適切な量の魔力を相手に渡すのが苦手だった。
如何に早く、魔術行使に適した量の魔力をペアに渡すことが出来るか。
状況によってはそれが生死を分けることもあるため、とにかくこの数日は重点的にその訓練をしていたのである。
それも彼女の努力の甲斐あって、今日で一区切り。
今後は実際に現場を見学させてあげて、ある程度経験を積ませたら研修は終了。
その後、肝心のペアを決め独り立ちだ。
「右手でも左手でも同じくらいの量の魔力を渡すって、やっぱり少し難しかったです」
自身の両手を見ながら、リンは言う。
直に肌が触れていればどこでも魔力の受け渡しが可能なのだが、現場で素肌を晒していて咄嗟に触れられる部位はやはり手だ。
そして何かあった時どちらかの手でしか上手く受け渡しが出来ない、では困ってしまう。
だからまあ、これに関しては「両利き」であることが望ましい。
「ペアが決まったら相手と相談して、基本どっちの手繋いで受け渡しするかとか決めると良いよ」
「……アトリさんは、どちらの手で魔力を受けるって決めてるんですか?」
「俺? 俺は、一応左手だけど」
リンは真剣な表情で「そうなんですね」と頷いた。
そこは別に大事な情報ではないのだが。
何せよ、とにかく真面目で一生懸命な後輩は正直可愛かった。
彼女の狭い歩幅に合わせて、長い廊下を並んで歩く。
その間も、リンからの問いは途切れることがない。
大人しそうに見えて、彼女は結構な質問魔である。
なるべく丁寧に、正しい答えを返してやりたくてアトリも毎度必死だ。
「皇国の使節団って、いつもこの時期に来るんですか?」
第五防壁に繋がる連絡通路を前に、立ち止まる。
防壁と防壁を繋ぐそこは、やや狭く照明が少ない。
リンは第四防壁、アトリは第五防壁の自室に戻るため、訓練が終わるとここで別れるのが常だ。
けれど彼女はいつでも聞きたいことがあるようで、大体ここで数十分の質疑応答が始まる。
今日も例に漏れず、リンの小さな唇からはそんな問いが転がり出した。
「大体この時期なんじゃねぇかな。俺も、そんな詳しくないけど」
「管理員さんたち、ばたばたしてますけど……。使節団って、スパイ、なんですか?」
リンは廊下を見回してから、こっそりとそう聞いた。
スパイって。
アトリは、「違う違う」と笑った。
「カンディードはどの国家にも属さない完全独立組織だろ? でもさ、実際はどっかの大国の軍隊よか戦力は遥かに上なわけだ」
訓練を受けたセルとエルがこれだけ揃っているのだ。
軍事的な魔術の利用は国際的に禁じられているが、そんなものは建前で強制力があるわけではない。
各国からしたら、そんな集団が実は侵攻を企んでいるのではという不安が常にある。
逆にカンディードとしては、それを疑われて人魚の対処に支障が出るのは避けたい。
だから組織の内部は、基本的にオープンだ。
日々の対処記録。
医療や研究の成果。
訪問者とのやり取りまで、全て。
望まれればあらゆる情報を開示することで、ようやくカンディードは各国の信頼を得た。
現在はそれぞれの国が時期をずらして使節団を送ってくる体制で落ち着いている。
誰かさんの受け売りだが、アトリの説明にリンは納得したようではあった。
「ま、失礼があっちゃ面倒なお客さんだから上も大変なんだろ」
「そう、なんですか。でもお陰でアトリさんに研修に付き合って頂けたので、感謝しなくちゃいけませんね」
「そりゃまた」
光栄ですねとアトリが肩を竦めると、リンは砂糖菓子みたいなふわふわした表情で微笑んだ。
何というか、落ち着かない。
彼女の質問が途切れたのを見計らって、それじゃと言いかけると彼女ははっとした様子で「あの」と続ける。
「あの、もし良かったら、夕ご飯、一緒に」
誘われるのは、初めてではない。
何が琴線に触れたのか。
妙に懐いてくれたリンは度々そう声をかけてくれる。
彼女なりにお礼がしたいのか、或いはまだまだ聞きたいことがあるのか。
「ありがとな、リン」
どちらにせよ、素直にその気持ちは嬉しい。
アトリは努めて明るく、そう礼を言った。
「でもちょっと仕事溜まってるし、もう少し落ち着いてからな」
そう答えて、視線を落とすリンの頭を軽くぽんぽんと撫でる。
こんなに良い子で、大丈夫だろうか。
うっかり悪い大人に騙されやしないだろうか。
「ほら、明日は第四区画に出んだから、ちゃんと食って早く寝ろよ? 研修終わったら、何でも好きなもん奢ってやるから」
リンは少しの沈黙の後、こくりと頷いて「約束ですよ」と念を押す。
もちろん、と頷き返すと彼女はやっと笑顔を見せた。
「じゃあ、おやすみなさい。アトリさん。また、明日」
日々の別れ際でさえ丁寧に言葉を尽くすのは、多分とても大切なことだ。
冷たい罪悪感を押し込めて、「また明日」と答える。
ああ、また明日会えますように、なんて。
慣れっこになった胸の痛みを飲み込むと、直視出来ない後悔が肺を焼くような感覚があった。
アトリは平気な顔でひらりと手を振って、第五防壁に続く少しだけ暗い連絡通路を歩き出した。
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