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1章
0.4
しおりを挟む「君、自分のペアが大事ならきちんと気にかけなさい。魔力を渡すだけのセルと違って、魔術を生み出すエルってのはかなりのリスクを負ってるんだから」
駆け込んだ防壁内の病院。
診察をしてくれた薄桃色の髪の女性に、そう釘をさされる。
処置室の簡易ベッドに寝かされたアトリは、幸い治療の必要なしと診断された。
脳の防衛反応が強く出て、昏倒しただけだろうとのことだ。
実際、その寝顔は穏やかで苦痛の色はない。
「ほら、君も着替えておいで。戻って来る頃は、アトリ君も目を覚ましてると思うよ?」
そう言われて、海水を吸った服が今更酷く冷たく感じる。
医師に追い出されるようにして、ユーグレイは病室を後にした。
夜の遅い時間だ。
防壁内の通路は、静かで人気がない。
ユーグレイは殆ど走るようにして自室に向かった。
何故こうも急いでいるのか、自分でも理解が出来ない。
いや、可能な限り早く、彼のところに戻りたいからだ。
それ以外に、理由などない。
慌ただしく駆け込んだ部屋で、濡れた服を着替える。
その僅かな手間さえ煩わしい。
色のない、温度のないもの。
ユーグレイ・フレンシッドという人間は、もう終わった生き物だ。
だから全てが自分とは関わりがないものと、そう思っていたのに。
脱いだ服を椅子の背凭れにかけたまま、ユーグレイはさっさと踵を返す。
部屋を出ようと勢い良く扉を開けると、小さな悲鳴が上がった。
誰かいるとは到底思っておらず、流石に目を見張る。
部屋の前にいたのは、若い女性だ。
彼女はユーグレイを見て、「ごめんなさい、こんな遅くに」と笑みを浮かべる。
その目を見た瞬間に、不快感が押し寄せて来た。
良くあることではないが、偶にこうして部屋に押しかけて来る人間がいる。
身体の線がはっきりと見えるような薄い服を纏って、一般に蠱惑的と言われるような笑みを湛えて。
「私の部屋、近くなの。ユーグレイさんが戻って来た音がしたから、つい。ずっとお話がしたくて」
「迷惑だ。帰ってくれ」
ただでさえ不愉快だと言うのに、今は一秒だって惜しかった。
こんな下らないことに時間を取られたくはない。
女性は一瞬怯んだが、「そう言わないで」とユーグレイの腕に触れた。
「ねえ、私ね、管理員にもお墨付きをもらったエルなのよ。ユーグレイさん、ずっとペアが決まらなくて困っていたんでしょう? 今は臨時の相手で我慢しているって聞いて、私、可哀想で」
臨時の相手?
我慢している?
身を切るほどの冷気が、身体を巡るのがわかった。
ユーグレイの感情に反応して、それは渦巻くように増幅していく。
彼女はそれに気付いた様子もない。
しなだれかかって来た生温かい身体から、腐った果実のように甘い匂いがした。
「知っている? ユーグレイさん。本当に相性の良いペアは身体の相性もとても良くて、凄いんですって。ねえ、試してーー」
ユーグレイは彼女の肩を押しやるのと同時に、荒れ狂うような魔力の一端を叩き付けた。
呆気ない。
喉が潰れたような声を上げて、彼女は途端に崩れ落ちる。
ユーグレイが触れた剥き出しの肩を押さえて、彼女は一転して怯えた表情をした。
濡れたような唇が、震える。
「失せろ」
この程度の接触で化け物を見るような視線を向ける癖に、笑わせる。
ユーグレイに見下ろされた彼女は、慌てた様子で廊下を這って逃げ出す。
その姿を一瞥して、ユーグレイは駆け出した。
誰でも良いなどと、もう言えるはずがない。
ペアと呼んでも良いと、呼びたいと思ったのはたった一人だけだった。
静かに入って来なさいと怒られたユーグレイに、アトリはベッドに横になったまま「やーい、怒られてら」と声をかけて来た。
もうとうに目を覚ましていたらしい。
青白い顔で揶揄われて、ユーグレイは息を吐いた。
この感情を、恐らく「安堵」と呼ぶのだろう。
医師が許可した数十分の面会。
治療の必要はないが、念のため彼は一晩入院になるらしい。
ベッド脇に置かれた小さな椅子に腰を下ろすと、アトリはふっと笑った。
「運搬どーも」
「……いや」
何か言葉をかけたかったような気もしたが、結局何も言えなかった。
けれどアトリはユーグレイの沈黙をものともしない。
彼は子どもを叱る大人のように、仕方ないなみたいな表情をする。
「で、ユーグレイさん。謝罪の言葉は?」
軽い調子でそう促されて、ユーグレイは素直に「悪かった」と謝った。
あの状況で、彼が怒ったのは当然だろう。
「君を軽んじたわけではない。安全の面でも、褒められた判断ではなかった。すまない」
アトリはじっとユーグレイを見上げて、それから一つ頷く。
「もう良いよ。俺も、怒鳴ったりして悪かった」
しん、と静寂が下りた。
照明に照らされる、無機質な処置室。
アトリは指先で毛布の端を探って、握り込んだ。
視線を逸らすほんの少しの動きで、彼の黒髪が枕を滑る。
白い首筋に、緊張が滲んでいた。
ああ。
「なあ、ユーグレイ」
何だ、と問うことは、出来ない。
アトリはユーグレイを見ずに、静かに続ける。
「俺、やっぱり、お前のペア辞めようか?」
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