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黒文鳥

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1章

0.3

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 そうして、管理員から「上手くいって良かったよ」と言われる程度の日数を経て。
 揃って海に出ることが、当たり前になった頃だ。
 
「じゃあ、今夜もほどほどに頑張りますか」

 そう言って、アトリは躊躇いもなく手を差し出す。
 第三区画の海は、夜間でも比較的哨戒がしやすい。
 けれど当然その探知にはエルの魔術行使が必要で、そればかりは避けようがなかった。
 ユーグレイは彼の手を握って、魔力を渡す。
 自分は落ちこぼれだとアトリは言ったが、それは厳密には正しくないだろうと思われた。
 問題なのは、脳の防衛反応が鋭敏すぎる点だ。
 そしてそれ故に、魔術を行使する際も出力が制限されている。
 だが他者より劣るのだと自覚があるからだろう。
 彼は少ない魔力で自身に負担のない魔術を行使することに長けていた。
 それは無論攻撃性も低く強い魔術ではなかったが、適切で無駄は一切ない。
 これ見よがしに高位の魔術を行使して見せた連中より、遥かに信頼が出来るのは当然のことだ。

「…………大丈夫そうかな」

 アトリは目を軽く押さえてから、ほら行こうとユーグレイを促す。
 哨戒任務は基本的に場所を変えて見ての繰り返しだ。
 その度ユーグレイは魔力を渡すことになるため、かつてのペア候補たちは多彩な言い訳をして哨戒を早く切り上げようとした。
 対して彼は途中から目が痛い頭が痛いと訴え出すものの、ユーグレイとの接触に関しては全く気にも留めていない様子だ。
 誰もが口を揃えて「怖い」と言ったユーグレイの魔力に、未だ何の反応もない。
 鈍感なのだろうか。
 だが脳の防衛反応が鋭敏過ぎることを考えれば、それはとても不自然なようにも思える。
 結局本人に「どうなのか」と問うことは出来ないでいた。
 本当は辛かったが我慢をしていた。
 だからもうペアを辞めてもいいか。
 きっとそんな答えが返って来て、終わりになる。

「人魚ってさ、部屋ん中にいつの間にか出る蜘蛛みたいだよな」

「何の話だ」

 アトリは足元の海水を蹴って、呑気にそう言った。
 ユーグレイは間髪入れず言葉を返す。
 旧時代の禁呪の成れの果てを捕まえて、「部屋に出る蜘蛛」とは。
 彼は「いやだって」と続ける。

「さっきまでいなかったはずなのに気付いたら壁に張り付いてるみたいなとこ、そっくりだろ」

「…………そうか?」

 同意が得られると思っていたのか、アトリは意外そうに首を傾げる。
 確かに国によっては、蜘蛛を忌まわしいものの象徴とすることもあるだろう。
 そういう背景があるのなら、理解出来ない程ではないが。

「蜘蛛は嫌いか?」

「え? いや、嫌いってほどじゃねぇけど」

 癖のない黒髪が、はらはらと揺れる。
 今夜は珍しく、少し風があった。

「俺、寒いとこの出だから、蜘蛛とかこっちに来て初めて見たんだよな」

 アトリは何を思い返したのか、気まずそうに視線を逸らす。
 
「だからほら、部屋に突然出て物珍しくてさ。結構デカかったし、こんな玩具みたいな生き物がいんだーとか思って、気軽に突っついちゃったんだよ。向こうもびっくりしたんだろーな。ぱーって俺の手を伝って袖ん中に逃げ込んで来て」
 
 それ以来ちょっと、と言葉が続いて、ユーグレイは堪え切れずに息を吐き出した。
 アトリは「笑うとこじゃねぇぞ」と納得いかない顔をする。
 笑う?
 笑ってなど。
 
「人魚も何か同じ印象なんだよな、俺。へーこんなんがいんのか、って思ってたらアレだろ? それでうわーってなるみたいな」
 
「人魚と蜘蛛が似ているかはともかく、君が蜘蛛嫌いだということはわかった」

「だから嫌いってほどじゃないって。デカいのが出ても、ちゃんと一人でどうにか出来るし。触って愛でろと言われたら、まあ無理だけど」

 強情だな、という言葉を飲み込む。
 立ち止まったアトリが手を伸ばし、ユーグレイは魔力を渡す。
 そちらに集中をすると、彼は色々考える余裕がないのか表情が希薄になる。
 その横顔を見るのが、ユーグレイは嫌いではない。
 透明で綺麗だと、単純にそう思う。
 
「あ、ちょ、待て」

 途切れ途切れの言葉に、緊張感が滲んだ。
 アトリはぱっと頭を振って、ユーグレイの手を掴む。
 魔術の維持には量が足りなかったのだろう。
 求められるまま、ユーグレイは魔力を流した。
 同時に視線を遠くまで向けるが、少し波の立つ夜の海に異変は見つけられない。
 人魚であるのなら、彼とペアになって初めての対処となる。
 状況を問いただしたい気持ちを押さえつけて、待つ。
 
「今、第三防壁から影が」

 気付いた、来る。
 そうアトリは淡々と口にした。
 彼の見つめる先を確認して、ユーグレイは腰の銀剣を抜いた。
 数えるのが億劫なほどの数秒。
 すぐ隣でアトリがすっと息を吸った。
 
 僅か数歩先の浅い海が、ゆっくりと盛り上がる。
 
 こうして来るとわかっているものに対処するのは、そう難しいことではない。
 魚影であったものは、獲物を捕らえようと黒い口を開いた。
 視界の端で、アトリが再度手を伸ばすのが見える。
 セルの魔力を受け取って、エルが魔術で人魚を討つ。
 それが当然だ。
 けれどユーグレイは、その手を握らなかった。
 彼より先に前に踏み出し、銀剣を振り抜く。
 手応えは浅い。
 怯んだ影が少し海に沈んだ。
 魔術と違って致命傷とはいかないが、それでも何度か斬りつけていれば沈黙するだろう。
 いやいっそ、それくらいでなければこちらも満足が出来ない。
 
「ユーグっ、お前!!」

 咎めるような声と同時に、銀剣を握った手を強く引かれた。
 殆ど無理やりに魔力を持って行かれて、驚く。
 蹈鞴を踏んだユーグレイを庇うように、アトリはそれの正面に立った。
 そのローブがふわりと揺れて。
 抵抗のしようもなく、人魚に飲まれたあの人の影が重なる。
 けれど。
 ユーグレイの目の前で、アトリは流れるように指先を振り払った。
 瞬間構築された淡く光る矢が、人魚の腕を撃ち抜く。
 追撃は、速い。
 続く数本の矢が、仰け反ったそれの中枢に吸い込まれた。
 ぱしゃ、と軽い水音を立てて人魚は海面に倒れる。
 もうそれっきり、動かない。

「………………」

 こんなに呆気ないものなのか。
 ユーグレイはゆらゆらと漂う骸を、無感動に見下ろす。
 アトリは長く息を吐いて、勢い良く振り返った。

「どーいうつもりしてんだ、馬鹿!! いくら俺に問題があるっつってもな、銀剣それよりまともな働きぐらいするっての! 何のためにペアがいると思ってんだ、お前はっ!!」
 
 ユーグレイが口を挟む間もない。
 声を荒げたアトリは、肩で息をしながら続ける。

「心配させんな、ホント、心臓止まるかと思っただろーが!」

 こんな風に感情的になった彼を見るのは、初めてだった。
 ぜぇぜぇと呼吸の音が聞こえる。
 向き合った彼の顔は、月明かりでもそうとわかるほどに白い。
 
「アトリ」

「何だよっ! 今回は、俺、真摯な謝罪の言葉しか受け入れねぇかんな!!」

「いや、大丈夫か」

 はたと我に返ったアトリは、僅かに沈黙して苦い顔をする。
 今更息が整わないことに気付いたらしく、彼は苦しそうに深呼吸をした。
 これまでのことを考えれば、彼の防衛反応が過度に痛みを伝えているであろうことは容易に想像出来る。
 黙り込んだまま、アトリは急にしゃがみ込んだ。
 咄嗟にユーグレイも傍に膝をつく。
 じわりと服に染み込む海水が冷たい。

「防壁に戻るぞ」

 ユーグレイが腕を取って立ち上がらせようとすると、アトリは力なく首を振った。

「うえ、頭、がんがんする。吐きそう」

「無茶をするからだろう」

「誰のせいだとっ……!」

 歩行は困難と見て、ユーグレイは半ば強制的にアトリを背負った。
 彼もそうでもされなければ防壁に戻れないとわかっているのだろう。
 抵抗も反論もしなかった。
 背負い上げた彼は、思っていたより軽い。
 
「これは、ここで吐いても許されるんだよな?」

 軽口を言う程度の余裕はあるらしい。
 揶揄うような声に、安堵する。
 心地の良い体温を感じながら、ユーグレイは「耐えられないなら吐いても構わない」と返す。
 構わないのかよ、と耳元でアトリが笑った。
 何故か堪らないような気分になって、彼の名を呼ぶ。
 返答はない。
 代わりに、背負った身体から力が抜けるのがわかった。
 限界だったのだろう。
 緩やかな呼吸を確かめてから、ユーグレイは足早に門を目指した。


 
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