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1章
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しおりを挟む名前を呼ばれて、アトリは自然と立ち上がっていた。
ゆっくりと瞬きをすると、霧がかかったような視界が安定する。
何故座り込んでいたのか、一瞬わからなくなった。
「ユーグ」
真っ直ぐにこちらに向かって来るのは、間違いようもなく銀髪の相棒である。
その声を聞いた瞬間に諸々の不調が後回しになるとか、我ながら業が深いと言うべきか。
ユーグレイは滅多にお目にかかれないほど焦った様子だったが、心配していたような怪我はなさそうだった。
水を割るようにして駆けて来た彼は、アトリを前に鋭く息を吸う。
ユーグ、ともう一度名前を呼ぼうとしたアトリより先に、彼は「君は」と叫ぶように言った。
「君は、こんなところで何をしている!?」
何をしているって。
ユーグレイが救助班としてさっさと区画に出てしまったから、追いかけて来ただけで。
別段、彼が激昂するほどの無茶をした訳では。
困惑したまま返答に詰まったアトリに、ユーグレイは畳み掛けるように続ける。
「一人で現場に出たのか? 何故? 君は、そういう判断ミスをするほど愚かじゃないと思っていたが」
こんなに怒ったユーグレイを見るのは、初めてかもしれない。
大体いつも冷静な彼が、声を荒げてこうして詰め寄ってくるところなど想像もしなかった。
ただその碧眼は、痛々しいほどに必死な色をしている。
反論は、何もなかった。
アトリは手を伸ばして、彼の腕を軽く叩く。
「ごめん。悪かった。ちゃんと、門で待ってれば良かった」
「アトリ」
でも、色々話したら今まで通りのペアではいられないだろうし。
少し無理をしても、ちゃんとユーグレイの隣に立っていたかった。
まあ、本人には言えたものではないけれど、アトリとて夢中だったのだ。
「ユーグが先行ったって聞いて、心配で、つい。もうしない。でも、無事で良かったよ、ユーグ」
「ーーーーーー」
笑ってそう言うと、ユーグレイは何故か苦痛に耐えるように顔を顰めた。
腕に添えた手を、逆に取られる。
「何を、した?」
「何をって、え?」
問いかけに、疑問で返してアトリはそのまま首を傾げる。
舌打ちでもしそうな勢いのユーグレイは、すっと背後を振り返って流れるような所作で腰の銀剣を抜いた。
退避を呼びかける声が、彼の視線の先から響く。
さっきから聞こえていた多数の声は、これか。
討伐要員が追い詰めた特殊個体は、海に潜って逃げたようだ。
どこを襲撃するかわからないから早急に退け、と繰り返し警告がある。
「話は後だ。行くぞ」
ユーグレイは当たり前のように、アトリの手を引いた。
アトリは一歩踏み出した足を、止める。
暗い海は、不気味なほどに凪いでいた。
海中に潜ったら、次どこに出てくるかわからない。
感知したと思ったら。
防壁に逃げ込んで来た男の声が、脳裏を過ぎる。
すぐ、目の前だ。
無意識だった。
繋いだユーグレイの手から、無理やり魔力を引き出す。
彼は驚愕した表情で、アトリを見た。
やめろ、と手を振り払おうとするのを、両手で押さえ込んで留める。
「アトリ! 君はとっくに活動限界だろう!? もう魔術を行使するなッ!」
懇願するような、ユーグレイの声。
ただ編み上げた魔術は止めようもなく、また止める気もなかった。
痛みはない。
自我が焼き切れるような、嫌な感覚も一瞬だった。
刹那の感知。
捉えた黒い影は、「人魚」と呼称するのか馬鹿馬鹿しいほどに形がなかった。
完全に海水と同化した巨大なそれは、縋るように幾つもの腕を伸ばしている。
ほんの数歩の距離だ。
一つ呼吸をしたら、アトリもユーグレイもこれの餌食だとわかる。
ああ、でも、まだその手はこちらに届いていない。
鮮明な興奮と快感が、脳を揺さぶった。
それが防衛反応の暴走なのかはわからない。
ただ訳のわからない気持ちよさがあった。
右手の指先を、真っ直ぐに影に向ける。
アトリは思わず笑った。
これくらい、簡単に、壊せる。
ぱきん、と氷が割れるような音がした。
大きく盛り上がった海面から、巨大な人魚が伸び上がるように姿を現す。
高く夜空へと、それは咆哮するように口を開く。
獲物を捕らえようとしていた腕が、だらりと海面を撫でた。
ぱき、と呆気ない音を立てて、腕の先端が折れる。
ひび割れていく。
結晶化して散っていく巨体は、月の光を反射して淡く煌めいた。
その儚さだけは、人魚の名に相応しい。
霧散するそれに見惚れていたアトリの肩を、ユーグレイがぐいと掴んだ。
流石に言い訳も思いつかない。
向かい合った彼は、アトリの首筋に手をやって口を開く。
「 」
きっと名前を呼んだのだろうが、その声は全く聞こえなかった。
活動限界か。
今夜は無理をしないと決めていたはずだが、自分で思うよりずっと無茶をやらかしたらしい。
上手く反応出来なかったアトリに対して、相棒の行動は早かった。
ユーグレイはあっさりとアトリを抱え上げる。
ペアとしてはどっちかと言えば背負って欲しかったが、相棒は根っから王子様だったようだ。
そんな大事に抱かなくても、荷物みたいに運んでくれて構わないのに。
流石に恥ずかしいですが、と文句を言う気力もなかった。
身体の感覚もなければ、意識も朦朧としていた。
自業自得だ。
でもほら、冷静じゃなかったんだって。
アトリの意識を繋ぎ止めようと、ユーグレイが何度も何度も声をかけてくれる。
ただ、その音を聞き取れなくて申し訳なく思った。
大丈夫、と言ったつもりだったが、それは果たしてユーグレイに届いただろうか。
新人でもやらかさないような軽率な振る舞いをして、でも、結果がこれなら上々だ。
ユーグレイが無事なら、何でも良い。
ぱちんと部屋の灯りを消すように、意識が落ちた。
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