Arrive 0

黒文鳥

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1章

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 何かが、鳴っている。
 それは鳴り止む気配もなく、脳を揺さぶるように長く続く。
 いや、これは止まらないだろう。
 だってこれ警報だ、とアトリはぼんやり思った。
 防壁内に警報が鳴るのは、当然非常時に限られる。
 第五防壁を人魚が越える可能性がある時。
 現場で対応し切れない数の人魚が現れた時。
 そして、人間や防壁への攻撃を優先する大型の個体が出現した時。
 何にしたって愉快な事態ではないことは確かだ。
 危機感を煽る警報に続けて、オペレーターの声が響く。

『ーーーーに特殊個体を確認。組織員は、至急ーー』

 その少し早口な声で、完全に意識が浮上した。
 一瞬何が起きているのか、わからない。
 灯りの付いていない自室。
 ベッドまで辿り着けず、ぐしゃぐしゃになったローブに包まるように床に寝ていたようだった。
 アトリは重い身体を引きずるようにして、チェストの上にあるはずの時計を探る。
 
『繰り返します。第二区画において特殊個体を確認。組織員は至急対処に当たって下さい』

 丁度午前零時を回ったところだ。
 第二区画に、特殊個体。
 アトリは片手で頭を押さえて、霧がかかったような思考に歯噛みした。
 特殊個体という呼称は、大型の人魚に対してのみ使われる。
 通常人魚は、防壁を越えて人を襲い0地点に連れ去るという行動しかしない。
 けれどごく稀に現れる大型の個体はその基本行動から逸脱し、防壁の破壊と人間への攻撃を優先する。
 だからそれの出現はイコール非常事態で、早急に対処しなければ甚大な被害を受けることになる。
 悠長に寝惚けている暇はない。
 アトリは当然立ち上がったが、身体は全く付いていかなかった。
 ぐるりと視界が回るような酷い眩暈と吐き気に襲われて、すぐにその場にしゃがみ込む。
 あの感覚はもう過ぎた後だ。
 けれどそれを耐えて、身体も精神も疲弊していた。
 休息が必要なのは、重々承知している。
 意識してゆっくりと呼吸をした。
 警報は、まだ鳴り止まない。
 誰かが扉を叩く音がして、アトリは顔を上げた。

「アトリ、召集だ。行くぞ」

 何事もなかったかのような、涼やかな声。
 この状況下でアトリを呼びに来るのは、ユーグレイしかいない。
 行かなければ、と反射的に足に力を入れて。
 どう考えたってこの状態で出て行くのは無謀だろうと、血の気が引く。
 そもそも酷い顔をしているに違いない。
 部屋から顔を出した瞬間、ユーグレイには即体調不良がバレるだろう。
 では、どうするのが最善なのか。
 
「……悪い、今起きた。すぐ行くから先行ってろ!」
 
 アトリは平静を装って、そう扉の向こうに声をかけた。
 現場手足りてないだろうから、と付け加えるとユーグレイは僅かな逡巡の後「わかった」と応じてくれる。
 防壁内でも怪我人の手当てやら避難誘導やらやることは山ほどある。
 これで僅かに猶予が出来た。
 
「先走んなよ」

 ユーグレイに限ってそんな馬鹿なことはしないと思ったが、何故かそんな言葉が口をついて出た。
 
「そんなに待たせるつもりか? 冗談だろう」

 彼は常と変わらぬ調子でそう返すと、「急げ」と言い残してその場を立ち去った。
 つい数時間前のやり取りなどなかったかのように、ごく自然な会話を終えて安堵したのも束の間。
 アトリは文字通り床を張って洗面台に向かう。
 十分、いや五分で身体を叩き起こす。
 それ以上はユーグレイを待たせられない。
 洗面台と壁を支えに立ち上がった。
 冷たい水で顔を洗って、深呼吸をする。
 警報音はすでに止んでいて、防壁内には一定間隔で応援要請と避難指示が流れていた。
 特殊個体の対処に出るのは、初めてではない。
 ユーグレイの資質であれば討伐側に回されてもおかしくはないが、アトリとペアである時点で最前線で人魚を叩くメンバーからは当然外れる。
 何しろ、アトリは攻撃性能が低い。
 混乱する現場のフォロー、怪我人の搬出、防壁の守備。
 以前割り振られた任を振り返って、いけるだろうかと冷静に考えた。
 鏡の中のアトリは、やはりどうしたって白い顔をしている。
 意識して危険性の低い役回りをこなす分には問題ないと思えたが、想定外のことが起きる可能性もあるだろう。

「…………ま、バレてる、みたいだし」

 アトリは自身に言い聞かせるように呟いた。
 ユーグレイには、きちんと「今は無理が効かない」と伝えなければならないだろう。
 そうなると当然これが片付いた後、彼が納得するような説明が必要になる。
 明日にしようと言っておいて、実のところまだ彼に本当のことを何もかも話すつもりなどないのだけれど。
 ここでの無理は、ユーグレイを危険に晒すことに繋がる。
 それは決して許されることではない。
 アトリは両手で頬を叩いた。
 五分は経っただろう。
 行くぞ、と声に出して自身を叱咤すると、アトリは壁から手を離して歩き出す。
 眩暈はない。
 廊下に出ると、人気は全くなかった。
 すでに殆どの組織員が現場に向かったのだろう。
 オペレーターの声だけが、繰り返し響いている。
 応援要請が流れると言うことは、まだ人魚は討伐出来ていないはずだ。
 被害はどれくらいだろうか。
 怪我人が出ていないと良いが。
 意識が大きくそちらに傾くと、不思議と苦痛は軽くなる。
 アトリは慎重に階段を降りたが、その後は殆ど無意識に駆け出していた。

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