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黒文鳥

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1章

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 見上げた夜空は重い雲に覆われ、星も月も見えなかった。
 第二区画の海は第三よりやや深く、膝辺りまで水がある。
 専用のブーツであっても人魚を追いかけ回して、という立ち回りには向かないのがこの区画だ。
 そのため第二区画では主に哨戒や偵察が行われ、基本的には人魚を発見しても第三区画まで送って対処という流れになる。
 今夜は当初の予定通り、第二区画の夜間哨戒の任に就いていた。
 とはいえ、とアトリは暗い海を見渡す。
 日中であっても染めたかのような濃紺の海水が満ちるため、この区画において月のない夜間哨戒はコンディション的には最悪である。

「いやー、え、これ結構しんどいパターンだと思うんだけど?」

「早々にめげるな」

 第三防壁の扉を出て、すぐ。
 ゆっくりと重い海水を押し除けるように歩を進めながら、アトリは傍のユーグレイを見た。
 この海水は、人口の灯りを通さない。
 そもそも人魚が灯りを目掛けて襲ってくることもあり、何らかの照明を当ててという手が使えないのだ。
 そうなると、当然ここからは魔術の出番となる。
 海中にいるかもしれない人魚を見つけ出すためには、視力強化と探査の同時行使となるがそれはなかなかの負担だ。
 やりますけどね、とアトリは手を差し出す。
 相棒はアトリの手を握って、「帰ったらホットワインでも飲むか」と彼なりの慰めを口にした。
 ユーグレイは、アトリの能力限界を良く把握している。
 今夜の条件的には数時間で目が痛い頭が痛いとアトリが不調を訴えるであろうことは、当然承知済みだろう。
 冷え込む第二区画の夜。
 ちょうど欲しいものを言い当てられたような的確な言葉に、アトリは笑って同意した。
 
「じゃ、少し頑張りますか」

 魔力が身体を巡る。
 通常見通せない海中を見る。
 そして可能な限り知覚範囲を広げる。
 分類的に視力強化と感覚強化は得意な部類だ。
 すぅっと周囲の音が遠のく。 
 きぃん、とガラスが擦れるような音が響いた。

 意識の一欠片が、海面に落ちる。
 
 何だ、これ。
 これは単純な視力強化じゃない。
 けれど展開したそれはもう止まることなく、アトリの意思を置いて弾ける。
 海面に落ちたその欠片が、波紋を広げた。
 それは凄まじい勢いで全方位の情報を拾い上げて、容赦なくアトリの脳に送り付けて来る。
 
「……ッと、待った!」

 混乱と恐怖で咄嗟に声を上げた。
 ぷつりと切り離されたように、魔術は跡形もなく霧散する。
 ユーグレイが怪訝な顔で、どうしたと聞いて来る。
 それに、どう答えたら良いのかわからない。
 魔術の出力が狂っている。
 先日の視力強化も、そうだ。
 本来であればアトリには到底行使出来ないレベルの魔術が発動している。
 うっかり才能が開花しちゃったか、とか能天気に喜ぶ気にはなれない。
 少しの成長ならいっそ素直に受け入れただろうが、これはあまりに急激な変化過ぎた。
 疑問から僅かに心配に転じた表情の相棒に、アトリは無理に笑って首を振る。
 
「ちょっと……、失敗したわ。悪い、魔力無駄にした」

「構わない。時間はある。急ぐ必要はないだろう」

 ユーグレイは気にした様子もなくそう言って、手を差し出した。
 その手に触れて良いのか、アトリは刹那逡巡した。
 これは二度目の異常だ。
 それがもし偶然ではないのならーー。

「はァ? まだこんなとこうろうろしてんのかよ」

 唐突に甲高い声が響く。
 第三防壁の扉を振り返ると、二人組がこちらに向かって来るのが見えた。
 暗闇でも近づけばそうとわかる、茶色の癖っ毛に猫目。
 馬鹿にしたような笑いを浮かべているのは、カグだ。
 少し遅れてその後ろを彼のペアであるニールが追って来る。

「評価上位様は余裕だな。それとも適度に手を抜いても大丈夫ってワケ?」

「……今夜は担当ではないと記憶しているが?」

 煽るようなカグの発言には反応もせず、ユーグレイが静かに聞いた。
 主に哨戒は二つのペアが区画を二分割して行うことが殆どだ。
 今夜は別のペアが第二区画の半分を担当している。
 カグはユーグレイの言葉に肩を竦めた。

「担当じゃないと哨戒しちゃいけないって決まりはないぜ? 大事な大事な任務だろー? おたくらこの間三日も休んでるワケだし、オレらがフォローしないとヤバいかなって思ってさー」

「そうか」

 嫌味の言い甲斐がない奴というのは、腹が立つものだ。
 カグの目元が鋭くなる。
 一方のユーグレイは、言い分を聞いたらもう特に言うことはないと判断したのだろう。
 実際担当日でなくとも新人が見学に来ることもある。
 きちんと申請をして、当日の担当者に迷惑が掛からなければ何の問題もない。
 隠しもせずに舌打ちをしたカグに、ニールが後ろから「カグくん」と控えめに声を掛ける。

「平然としやがって、クッソうぜぇ。オレらなんて眼中にないってか」

「何を苛立っているのか知らないが、哨戒したいならすればいい。そのために来たのだろう」

 いや違うんすよ、ユーグさん。
 アトリが休養した三日間を鑑みれば、今回の二十日評価は場合によってはカグたちの方が上位になる可能性がある。
 カグは恐らくそれを目的にしているのだろうし、同時に抜かされるかもしれないと意識していて欲しかったのだろう。
 けれどユーグレイは人魚狩りに対しての熱意はあれど、評価にはさして興味がない。
 一応カグに目の敵にされていることは理解しているが、気に入らない相手なら関わらなければいいと思っている口だ。
 カグにしてみれば、これほど神経を逆撫でする奴もいないだろう。
 僅かにあった距離を、カグが詰めた。
 
「喧嘩売りに来んなら、時と場所を選んでくれよ。後ろからぱくっていかれても文句は言えねぇけど?」

 ユーグレイに掴み掛かりそうだったカグは、口を挟んだアトリを睨む。
 さて、どうするか。
 区画に出る組織員は、一人一つ小型の通信機を持たされている。
 防壁内のオペレーターに繋がるため人魚発見時や緊急時のみならず、こういったトラブル時にも連絡が推奨されるのだが。
 かと言ってここで連絡して上が出張って来ても、カグたちは厳重注意か謹慎程度で寧ろ今後更に関係が拗れそうだ。

「正々堂々と殴り合いがしたいんなら訓練場を貸し切ってやろうか。一、二発殴って終わりって言うくらいなら自信はあんだろ?」

 カグの背後でおろおろとしていたニールが、一瞬不思議そうな表情をする。
 軽率だった。
 一、二発殴れば終わりなんて発言は、アトリがバグった魔術行使の際に偶然耳にしたものである。
 けれど幸いカグは気づいた様子もなく、ニールもそれどころではなさそうだ。
 カグは「あ?」と挑発的に鼻で笑う。

「大人ぶって何様のつもりだよ」

「大人ぶってって、おたくらよか年上だっつの。お前さ、こんなとこで騒いで俺らが任務妨害されてるって連絡したら、評価どころじゃないだろ。頭冷やせよ。別に上がどう評価しようと、ちゃんと仕事してんなら誰に恥じることもないだろーが」

 ぐ、とカグは言葉を飲む。
 正論だとは彼自身理解しているのだろう。
 けれどその通りだと素直に引き下がれないのは、若さ故か。
 
「偉そうに! たまたまコイツのペアになったからって図に乗ってんなよ。テメーは雑魚だろ!」
 
 わかったわかった、それで良いから。
 とにかく引っ込んでくれないか。
 当然言い返さずに苦笑したアトリにカグは荒々しく息を吐いて、だが幸い引き際だとは思ったのだろう。
 行くぞ、と背後のニールに声を掛ける。

「ーーーー待て」

 それを、何故かユーグレイが引き留めた。
 
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