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1章
9
しおりを挟む片手を振って、痛くはないんですねというリンの問いにアトリは全然と軽く答える。
自身の失態で相手に痛い思いをさせた、だから距離を取られたと思っていたのだろう。
リンは、やっとほっとしたように笑顔を見せた。
気取られないよう長く息を吸って、静かに吐く。
フラッシュバックした感覚は、もう遠い。
アトリはリンと並ぶように、ホールの壁に背中を預けた。
「魔力の合う合わないってのは結局良くある話だから、あんま気にすんなよ。それを理由に普通に話も出来ないってんなら、それまでのご縁だろ。そこそこ人いるから、カンディード。気づいたらずっとつるんでるみたいなやつ、すぐ見つかるって」
「本当、ですか?」
「本当。見つかんなかったら文句言いに来て良いぞー」
ホールの中央から、賑やかな笑い声が響いてくる。
浮き足だったような、けれどどこか緊張を孕んだ幾つもの声。
盛り上がる交流会は、まだもう少し続きそうだ。
「わかりました。見つからなかったら、ちゃんとアトリさんに言いに行きます」
責任取ってもらわないとですからね、と何故かリンは一つ頷いた。
これは場合によってはお友だち探しに奔走するやつだろうか。
悪戯っぽくそう言った彼女は、楽しそうに笑う。
心配しなくても多分ペアになりたいと申し出るやつは掃いて捨てるほどいるだろう。
「……アトリさんは、ペアの方と長いんですか?」
ふとそう聞かれて、アトリは自然とホール内を見渡した。
ユーグレイはまだ少女たちに囲まれている。
疲れたような表情で彼はちらとこちらを見た。
羨ましいという感情は最早湧かない。
矢継ぎ早にプライベートに踏み込んだ質問を繰り返されては、相手が可愛い女の子でも疲れるというものだろう。
けれど流石に可哀想だからと間に入ると、ユーグレイのペアを譲って欲しいと冗談半分に詰め寄られるのが目に見えている。
相棒には悪いが毎年放置だ。
苦笑して肩を竦めると、対してユーグレイは眉を顰めた。
「五年はペアやってんなー。途中でペア変える人もいるから、それなりに長いか」
長く一緒にいると、まあ、色々あるものだ。
アトリとユーグレイだって、殴り合わないまでも喧嘩はしょっちゅうした。
よくアイツと続くもんだと同期連中には言われたものだが、不思議なことに確かにペアを辞めてやろうと思った記憶は一度もない。
「いいな、仲良しなんですね」
憧憬を込めた溜息。
アトリはリンの顔を覗き込んで、「リンだってペア組んだらきっとその人と仲良くなる」と請け負った。
彼女はちょっとだけ不本意そうな表情をして、そうじゃないです、と呟く。
そうじゃなくて、何だと言うのか。
「ーーいえ。アトリさんとお仕事するの、絶対楽しそうだなって思って」
「それは、また。光栄だな」
実際のところアトリの能力ではリンに失望させてしまいそうだが、敢えてそれを伝えることはないだろう。
気さくな良い先輩として記憶してもらえるのであれば、それに越したことはない。
「だから、ペアの方と仲良しじゃなかったら、と思ったんです」
「うん。………うん?」
それは何か。
ペアの引き抜きってやつか。
優秀なやつは時々こういう話を持ちかけられることがあるらしいが、とんと縁がなかったアトリは反応が遅れる。
とはいえまだ研修途中の新人だ。
色々不安に思っての言葉で、本気ではないだろう。
「あの、でも一応覚えておいて欲しいです。私」
アトリ、とリンの言葉を遮るようにして名前を呼ばれた。
弾かれたように、声の主を振り返る。
傍にはいつの間にかユーグレイが立っていた。
どうやってあの包囲を潜り抜けてきたのか。
ともあれ放置が気に食わなかったのか、心底機嫌が悪そうだ。
「うぉ、怖い顔で立ってんなよー……」
「…………………」
端正な顔のやつが不機嫌だと圧が凄い。
ユーグレイは静かに目を眇めると、アトリを見てそれから隣のリンに視線をやった。
彼女は何も言わずに、ぺこりと頭を下げる。
「だーかーらー、無言やめろってば」
下手をすれば睨んでいるように見えなくもない。
アトリはユーグレイの腕を軽く叩く。
新人の女の子とトラブってましたとか、ただでさえあることないこと噂されるのだから少しは気をつけて欲しい。
けれど視線を向けられたリンは、「大丈夫です」と案外平然としている。
一瞬の沈黙。
ユーグレイは「もう行くぞ」とアトリを促した。
「へ? いや、良いの? お前」
「夜間哨戒前だ。多少早く抜けても文句は言われないだろう。それに交流と言うのなら、もう十分だと思うが」
「まあ、毎度あれやってたらたまんねぇとは思うけど」
相棒は否定も肯定もしなかった。
講習会の担当者にも怒られない程度には、確かに交流もしただろう。
アトリとて別段長居をしたい事情もない。
じゃあ、とリンに向き直ると、彼女は少しだけ笑った。
「ありがとうございました、アトリさん。その、頑張って下さい」
素直な新人は、やはり可愛い。
ひらひらと手を振って「また」と再会を願って、別れる。
良いペアに巡り会えると良いのだけれど。
まだ名残惜しげな視線を向ける子たちの間を、相棒を追って進む。
ホールの扉は開かれていて、その先は長い廊下だ。
そこまで来て、ユーグレイは振り返った。
どこか責めるような色をした瞳に、思わずたじろぐ。
「…………体調が悪いのか?」
凄いな、ユーグ。
動揺より、純粋な驚きがあった。
悟られないよう普段通りに振る舞っていたし、実際そこそこ持ち直してもいる。
一体何故気づいたのか。
けれどユーグレイ自身、完全に確信を得ているわけではないのだろう。
確信があれば、「体調が悪いのに何故申告しない?」と問答無用でアトリを連れ出していたはずだ。
だから問いには「何で?」と返す。
「別に、普通だけど」
「………………」
見透かすような碧眼を、アトリは真っ直ぐに見返した。
絶対にあれを知られたくはない。
だから申し訳ないけれど、どうか騙されて欲しい。
少なくともこういった嘘や誤魔化しは、彼より得意である。
平然とアトリは笑った。
「何、なんか心配性だな。ユーグ」
「……勘違いなら、それで良い」
アトリはくるりと踵を返すユーグレイに並んで、彼の背を叩いた。
相棒思いだなー、なんて軽口に相棒は恥ずかしがる様子もなく。
「愛想を尽かされてペアを解消されては堪らないからな」
と、しれっと言った。
リンの言葉を聞いていたのか、とアトリは気まずくなって肩を竦める。
ユーグレイはようやく一矢報いたような顔をして、笑った。
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