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黒文鳥

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1章

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 心臓が痛い。
 全力で走って走って、それでもまだ走っているかのような苦痛だった。
 悲鳴のような息を短く吐き出して、アトリは瞳を開く。
 常夜灯に薄く照らされた天井。
 本棚と備え付けのデスク。
 ベッドサイドの小さなチェスト。
 もう随分と長く使っている小さな時計は深夜二時過ぎを指している。
 何の異変もない、自室である。
 ユーグレイと自室前で別れ、軽くシャワーを浴びて、ベッドに潜り込んで。
 寝れるかと思う間もなく意識がなくなったところまでは、記憶にある。
 
「…………ぅ」

 苦しい。
 胸の辺りでシャツを握り込む。
 ちかちかと、視界が明滅した。
 誤魔化しようもなく、また。
 
「あ、ぅ、ッ……く」

 信じられないけれど確かに、性的な快感を得て絶頂している。
 それは忘れようもない病室で目覚めたあの時と同じ、暴力的なまでの興奮だった。
 喘ぎ混じりの呼吸を繰り返して、それでもずっとずっと苦しくて楽にならない。
 身体と精神が乖離し過ぎている。
 この思考まできちんと壊れてしまえば、いっそ悦んで快楽に沈めたはずなのに。
 アトリは夢中でシーツに爪を立てて、身体を起こした。
 逃げたい。
 それは殆ど反射のような忌避行為で、けれどベッドから降りようとしたアトリは毛布に足を取られて床に転がり落ちる。
 がん、と鈍い音がして。
 確かにそれは痛いはずだったのに、その痛みは全て快感に切り替わって脳を染めた。
 
「ーーーーーー」

 耐えられなかった。
 胎の奥が、痙攣する。
 身体を丸めて、つま先までぎゅうと縮こまる。
 絶叫する瞬間に毛布を噛んだ。
 ぶわ、と不確かな視界が滲む。
 達したはずなのに、やはり終わりはなかった。
 そこからずっと永遠に。 

 壊れるほどに、気持ち良いまま。
 
 床に額を擦り付けて、アトリは脚の間に手を伸ばした。
 泣き過ぎた子どものように喉が鳴る。
 終わらせたい終わらせないとこれがずっと終わらないなんて。
 そんなのは、あまりに。
 震える指先が触れたそれは、あの時と同じように何の反応もしていなかった。
 出せば終わると思うのは、恐らく雄の本能だった。
 けれど辿々しくそれを握り込んで、恐怖に背が震えた。
 今、死ぬほどの快感を得ていて。
 その上で出すところまでこれを慰めるなんて快楽の上乗せをしたら、果たしてどうなってしまうのか。
 
「ッ、んーーーー」

 怖い。
 意味をなさない音が、耐え切れず口の端から漏れる。
 こんなのは「普通」じゃない。
 アトリはぐらぐらする視線を自室の扉に向けた。
 助けて欲しいと思った。
 真っ先に銀髪の友人が思い浮かんで。
 けれどその清廉な横顔を瞼の裏に描いて、絶対に、こんな有様を知られる訳にはいかないとアトリは思った。
 ユーグ。
 あれ、それなのにどうして、あいつの名前を呼んでいるのか。
 
 だめだ、もう、きもちいい。
 
 大きな波が来て、思考は散り散りになった。
 身体が跳ねて、幾度も身悶える。
 嗚咽を上げながら、アトリは下腹部を押さえ込んだ。
 どくどくと脈打つような身体の奥底。
 力の加減も出来ないまま、胎内の震えを殺すように両手を押し込んでいく。
 
 ぷつん、と何かが弾けるような感覚。
 
 視界は白く染まって。
 意識は瞬間塗り潰された。




 アトリは重い瞼を持ち上げて、のろのろと身体を起こす。
 ベッドに手を置いて、チェストの上の時計を見た。
 午前四時少し前。
 二時間程度はあの荒れ狂うような快感の中にいたのかと、泣きたいような笑い出したいような気分になる。
 酷い怠さはあったが、何とか立ち上がって洗面台に向かう。
 手探りで照明を点け、小さな洗面台に凭れかかるようにして蛇口を捻った。
 陶器を叩く水流の音に、少しだけが意識がはっきりとして来る。
 アトリは両手で水を掬い、ばしゃりと顔を濡らした。
 水滴が首を伝うその感覚に、肌が泡立つ。
 瞬間、耐え切れずに嘔吐した。
 ひとしきり胃の中の物を出し、荒く呼吸をしてから口を濯ぐ。 
 これは、やはり普通じゃない。
 単純な欲求不満でも、生存本能に起因した何かでもないだろう。
 もっと致命的な。
 けれどそれ以上、考える余裕はなかった。
 ようやく顔を上げると、鏡に酷く顔色の悪い自分が映る。
 ペアを組んだばかりの頃、相棒から魔力を受け取り過ぎて倒れた時だってこんな有様にはならなかったのに。
 限界だと判断して、アトリはずるずるとその場に崩れ落ちた。
 ひやりとした床が、少しだけ心地良い。
 ベッドまで戻る気力はなかった。
 そのままぐったりと身体を横たえると、アトリは目を閉じた。
 暗く不確かな恐怖を抱えたまま、意識は重く沈んでいった。


 
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