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しおりを挟む「そういえば、アンリレインの存在証明って何?」
はむ、と買ってきたばかりのクレープを一口頬張ってから、アルエットはそう聞いた。
本当に些細な疑問なのだろう。
どちらかと言えば思考はクレープに集中している気がする。
溢れるほど包まれた真っ白なホイップクリームとトッピングのフルーツを眺めながら、幸せそうにもう一口。
レンはカフェラテを飲みながら溜息を吐いた。
暖房の効いた車内。
路肩に停めた車の窓からは、中央区の大通りを眺めることが出来る。
賑やかな飲食店の灯り。
学生だろうか、四人ほどのグループが楽しそうにおしゃべりをしながら店に吸い込まれて行く。
まもなく夜の七時を回ろうかという時刻。
助手席にちょこんと座ったアルエットは、やっと自分が質問をしたことを思い出したらしい。
唇の端についたクリームをぺろと舐めて、答えを催促するようにレンを見た。
「アンリレインの存在証明ってのは、Rデータってのはこういうものだって明らかにして対処法を編み出したステルラ・二ルフェリア博士の論文名だけど。突然、何で?」
恐らく基礎教育で早々に習っているはずなのだが、最早何も言うまい。
ふぅん、といまいち納得していない表情でアルエットは首を傾げる。
レンは温かいカフェラテをもう一口飲んだ。
「対策班の偉い人にね、ウロ様を呼んできちんと存在証明で対処したって報告したら、アンリレインの存在証明だって言われたから。どういう意味かわからなかったけど、とりあえずにっこり笑ってはいって言っておいたよ」
「…………それは、あれ。ステルラ博士の功績ってのは『本来は成し得ないはずの偉業』だから、その論文名は奇跡とか、出来るはずのないこととかそういう意味に使われることがあって」
「うん。つまり褒められたんだ」
「えぇ……、吃驚するほどプラス思考」
いやだから、そんなことお前に出来るはずがないと思ってたんだけどなーって遠回しに貶められたのだが。
満足そうなアルエットの顔を見て、レンはまあ良いかと口を噤んだ。
あの夜。
意識を失ったレンに代わってウロ様の存在証明をしたのは、アルエットだった。
聞けばウロ様に触れてその影響下に置かれていても、意識自体は僅かにあったらしい。
だからレンの存在証明の言葉は聞こえていたんだ、と彼女はあの夜を振り返ってそう言う。
レンと手を繋いだら、夢から覚めるみたいに身体の感覚が戻って来て。
目の前でレンが目を閉じたから、慌ててウロ様をどうにかしなきゃいけないと思ったそうだ。
けれど繋いだ手だけはどうしても自由が効かなかった。
だからアンリエッタに頼るわけにいかず、夢中で存在証明と口にしていたと言う。
アンリエッタとの接触によってウロ様自体も情報強度が低くなっていたから、運が良かったのだろう。
さて、シオの発動で寝落ちたら雨風凌げるところに放置しておいてくれれば良い、とレンが言ったのを果たしてアルエットは覚えていなかったのだろうか。
止せば良いのにすぐに方々に連絡して、レンは念の為と病院送り。
アルエットは問われるままに事の次第を話して一週間の謹慎を食らい、ウロ様を巡る一件はそうして終結した。
「それで、今夜はどこまで行くの?」
名残惜しそうにクレープを口に収めて、アルエットはドライブにでも出かけるかのように気軽に、楽しそうに言った。
謹慎明けの今夜、調査依頼を一件任されている。
諦め半分「メールしたような気がするんだけど」とレンはぼやいた。
「私も、見たような気がするんだけど」
アルエットは笑いながら、そう答える。
全く反省していない。
謹慎処分を受けたものの、ウロ様の対処をしたという功績は財団上層部でも認められている。
そもそもレンとセットを継続したいならその対処が不可避であると言ったのは、対策班側だ。
アルエットがウロ様を呼んで更には存在証明までしたという結末は、イグナートにしてみれば予想外の出来事だっただろう。
加えて当然とばかりに約束の履行を求められては、言い返す気力も湧かなかったに違いない。
正式に決定していなかったセットの話はこの一件で有耶無耶となり、レンとアルエットの調査班はまだしばらく継続することになった。
なお今回は、レンも同意の上である。
対策班とミーティアからは内々にアルエットの要求を蹴っても良いと、そう言われて。
けれどそれより前。
どこも悪くはないのに数日拘束された病院に見舞いに来たアルエットが、見事に先手を打っていた。
私にもちゃんと存在証明が出来たから、ご褒美が欲しい。
何故か酷く緊張した面持ちで、彼女は小さな声でそう訴えた。
そんな話をどこかで確かにした記憶がある。
考えとく、とその場は答えて、すぐにアルエットの真意を知ることになった。
セットの継続はレンの一存に委ねると言われて。
それなら彼女の希望通りに、とレンは即日回答する。
ここまでやらかしてくれたのだ。
これでアルエットが望んだことが叶わないのでは、あまりに報われない。
主任は「君を彼女の抑止力にしたかったのであって、増幅器にするつもりはなかったんだけどね」と呆れた表情で溜息を吐いたが、それ以上は何も言わなかった。
終わってみれば、突然押しつけられた仮セットという関係に立ち戻っただけだ。
正直一ヶ月も経たずにこの大騒動なのだから、果たして今後が怖くもある。
ただまあ、もう根負けしたと言うべきか。
「でも、依頼の内容は覚えてるよ? ベッドに横になると下から猫みたいな鳴き声が聞こえるって話だよね」
子どものように自慢げにそう言ったアルエットは、褒めてとばかりに身を乗り出す。
レンは少なからず驚きながらも、平静を装って車のハンドルを握った。
なるほど、本当に少しずつ成長はしているらしい。
「偉い偉い。ほら、そろそろ出発するから、ちゃんと座っとけってば」
「……もっと褒めてくれても良いのに」
「依頼内容の確認は基本って話、しといた方が良い?」
アルエットはシートに背中を預けて大人しくなる。
目が合うと、彼女は笑って肩を竦めた。
レンはゆっくりとアクセルを踏む。
いつもと変わりないオーバーシティの夜が、窓の外を流れていく。
心地良さそうに息を吐いたアルエットが、「あのね」と独り言のようにぽつりと言った。
「ウロ様に触った時、凄く寂しい気持ちになったの。私こんなだから、今まで一人ぼっちなの当たり前で全然気にしたことなかったのに。何だか世界中に否定された気がして、怖かった」
「…………それは」
拒絶され続けたウロ様。
白い手の保有者であるアルエット。
或いは、何かの共通性から感情が呼び起こされるようなこともあるのかもしれない。
アルエットの横顔は、酷く穏やかだった。
「でも、だからね、レンなら大丈夫って思ったんだよ」
「大丈夫って、だから何で?」
その理解の及ばない確信に、レンは素直に聞き返す。
存在証明が出来るだろう、とか。
ひとまず自分の身は守れるだろう、とか。
そういうものに対する信頼ではなかったのか。
アルエットは黒い手袋に覆われた自身の左手を、右手でそっと撫でた。
「レンは優しいから。絶対何だかんだ言って、でも傍にいてくれると思ったの。絶対に手を。手を、繋いでくれると思ったの」
「………………」
「レンと手を繋いだら、私の寂しい気持ちもウロ様の寂しい気持ちも、どっちもどっかに行っちゃうってわかってたから、だから大丈夫だって」
指を絡めた左手を思い出す。
何か答えたい気がして、けれどその感情は言葉にはならなかった。
レンは真っ直ぐ、走るべき路を見つめた。
アルエットは、構わず続ける。
「私、やっぱりレンがいればそれで良い。それで毎日楽しいし、他には何もいらないよ」
歌うように、白い手の少女はそう言った。
受け取れ切れないほどの信頼と依存と、後は何だろう。
ただそれを不思議に感じることはあっても、不快には思わなかった。
「そりゃ、また。俺がいれば良いって、随分安上がりなやつだなー。ま、楽しいんなら別に良いけどさ」
そうだ。
白い手に掴まれたのだから、そう簡単に逃してもらえないのは当然か。
さて、今夜は一体何があるのやら。
全く面倒で厄介ごとばかりで、心底退屈しなさそうである。
レンは諦めて、ただ笑った。
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