アンリレインの存在証明

黒文鳥

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 煌々と廊下を照らしていた照明が、一瞬点滅した。
 全身を打つような寒気に、シオが再度警告する。
 時刻が時刻だからか、同じ階に人気は全くない。
 静まり返った廊下から右に曲がるとすぐエレベーターホールだ。
 そこだけ唐突に照明が落ちた。 
 世界から切り離されたかのように、纏わりつく空気が一変する。
 息絶えるように、また一つ照明が消えた。
 近付いて来る。
 
「…………ほら、やばいことになってんじゃん」

 熟れた果実を切り開いたように、Rデータの匂いが充満している。
 異常なまでの情報強度だ。
 すでにこの時点で、眠ってしまうようにとシオが訴えるのがわかる。
 暗がりがまた増えた。
 廊下の照明が、一つまた一つと消えていく。
 待ち受けるようにそちらを見るアルエットの手を引いて、研究室に入る。
 エレベーターホールとは逆、廊下の奥には非常階段があるが、逃げ出してしまいたい衝動を押さえ込んだ。
 ウロ様を呼んだのは、アルエットだ。
 現象点は彼女。
 どこに逃げたところで、逃れようはない。
 それどころか周囲を巻き込む危険性だってある。

「レン」

 呼びかけを無視して、思い切り扉を閉めた。
 ひやりとしたドアノブに左手で触れると、シオが反応する。
 閉じるという行為はシオの遮断という情報と相性が良い。
 多少なりとも効果があれば良いのだが。

「レン、大丈夫だよ。アンリエッタもいるもん」

 危機感のないアルエットの言葉に「そーですね!」と返して、レンはコートのポケットから携帯端末を取り出した。
 せめてと対策班に電話をかけるが、一向に繋がらない。
 電波はある。
 端末の故障ではない。

「本当に使えなくなるんだな」

 Rデータの情報強度が高すぎると電子機器類は影響を受けることがあると、話だけは聞いたことがあった。
 だが実際にその状況に陥ると、最早笑うしかない。
 もう何もかもシオに任せて目を瞑ってしまいたくなる。
 扉の下方、僅かな隙間から差し込んでいた灯りがふっと消えた。
 耳鳴りが鼓膜を圧迫する。
 アルエットがレンの袖口を引いた。
 いる。
 ウロ様だ。
 けれど扉は叩かれることも、開かれることもなかった。
 ただ、そこにいるとわかる。

「………………」

 現状対策班の助けは期待出来ない。
 ウロ様が他の人間に呼ばれて去るか、或いはここで片を付けるかのどちらかだ。
 それならばと、レンは左手の人差し指で扉の向こうを真っ直ぐに指した。
 ここまで来たら、腹を括るしかないだろう。
 やるだけやって駄目ならそれまでだ。
 
「存在証明」

 現象を確認する必要はない。
 ウロ様というRデータの本質は「呼び出した人間の守護霊に相当する現象に変化する」ことにある。
 視覚で捉えた現象を証明したところで、それはRデータの本体には届かない。
 名はわかっている。
 その本質も確かに暴くことが出来るはずだった。
 けれど手応えがない。
 
「…………っ!」

 存在証明では到底解体出来る気がしない。
 反応がないどころか、一瞬こちらの視界が明滅する。
 飲まれそうになった意識を必死に繋ぎ止めて、レンは手を下ろした。
 こんなのは猛獣に素手で掴みかかるようなものだ。
 息を整えてすぐ向こうからの反発を待つ。
 言うなればレンの方から攻撃を仕掛けたことになるが、何故か扉の向こうの気配は動こうとしなかった。
 そういう現象なのか。
 圧倒的なまでの情報強度を示しながら、現状そこにいるだけだ。
 軽い足取りで、隣にいたはずのアルエットがするりと前に出た。
 ようやく血の止まりかけた左手に、手袋を嵌める。
 その挙動の一切に躊躇いはない。
 当然だ。
 アンリエッタは触れれば必ず死に至るもの。
 ウロ様がどういうものとして現れていたとしても、彼女が触れればそれでお終いだ。
 どういうものとして、現れていたとしても。
 
「あ、れ?」

 思考がきちんと結論を弾き出す前に、レンは少しだけ先を行くアルエットを追う。
 扉に手をかける少女は、それには気付かない。
 押し開けられる扉。
 待ち構えていたように、暗がりが広がる。
 
 見えたのは、白い手だった。

 何かを掴もうと柔らかく開いた左手。 
 それは空間に寄る辺なく、ぽつんと浮いて。
 勢いのまま伸ばされたアルエットの手を握ろうと、動く。

「アンリエッタ?」

 呆気に取られたようなアルエットの声を、耳元で聞いた。
 その細い身体を夢中で抱き抱えて後方に転がる。
 ソファの肘掛けが思い切り背中に当たって、レンは堪え切れず呻く。
 そう広くはない研究室だ。
 色々物が落ちる音がしたが振り返って確認する余裕もなく、抱き抱えたアルエットを見た。
 くたりと肩に寄せられた頭。
 血の気の失せた頬にシナモン色の髪がかかる。
 苦しげに伏せられたまつ毛が震え、華奢な四肢が耐え切れず脱力していく。
 
「アルエット!」

 呼びかけに彼女は僅かに左手を持ち上げて、レンの腕に触れた。
 あれに触れたのだと、理解している。
 白い手。
 ウロ様は呼んだ人間の守護霊となるべく姿を変えて現れる。
 そしてアルエットにとっての守護霊とは、アンリエッタに他ならない。
 何故それを想定しなかったのか。
 それがどこまで同等のものかはわからないが、決して触れて良いものではなかったはずだ。
 寒い、と呟いてアルエットは背を丸めた。
 腕の中に収まった彼女の身体は、まるで雨に打たれでもしたかのように冷え切っている。
 レンは素早くコートを脱いでアルエットに掛け、その首筋に手を当てて脈を測った。
 触れれば必ず死に至る。
 いや、けれどアルエットにはアンリエッタがいる。
 シオほどの防衛は出来ないにしても、正面からぶつかったのだから多少の相殺はあっただろう。
 祈るような気持ちで、レンはアルエットの様子を見守る。
 
「………………」

 恐ろしく長く感じた数十秒の後、アルエットは重そうに瞬きをしてレンを見上げた。
 脈もほとんど正常である。
 思わずレンは深く息を吐く。
 何か言ってやらなければいけないような気がしたが、それももうどうでも良かった。
 レンはようやく研究室の中を見渡した。
 半分開いた扉。
 床に落ちた数冊の本。
 散乱する資料。
 ソファはぶつかった衝撃で斜めにずれている。
 どこにも、白い手はいない。
 窓にかかる雨の音が微かに聞こえる。
 何事もなかったかのように、いつの間にか廊下の照明も復旧していた。
 手が触れたあの瞬間、やはりアンリエッタがウロ様を破壊したのだろうか。
 まだRデータの匂いは残っているが、それもいずれ霧散するだろうと思われた。
 
「…………ごめんね、レン」

「もう、良いって。寧ろウロ様のことは、俺がちゃんと気付かないといけなかった。ごめん」

 シオがいるのだから、ちゃんとアルエットを守らなければいけなかった。
 悔恨と共に確かにそう思って、けれどレンはそれを口にはしなかった。
 アルエットが身体を起こすのを待って、立ち上がる。
 ぺたりと床に座り込んだまま彼女はレンを見上げた。
 その肩から滑り落ちたコートを拾い上げて袖を通す。
 
「ほら、やること山積みだけどとりあえず今日はもう帰ろう」

 片付けて、報告して。
 ああ、対策班と主任にはまた滅茶苦茶に叱られるだろう。
 ウロ様を破壊出来たからと言って、セットの話だって結局どうなるかわからない。
 けれどそんなことはひとまず放っておいて、アルエットを休ませた方が良いだろう。
 
「ごめんね。でも、うん、そうだね。レンなら、きっと、大丈夫だね」
 
 一つ一つの単語を区切るようにして、アルエットはそう言った。
 対話が出来ているようで、少し違和感のある言葉。
 かくんと項垂れるように下を向いた彼女に、レンはゆっくりと屈んで様子を窺う。

「アルエット? まだ体調が悪いんなら」

 瞬間。
 彼女の左手がレンの肩を掴んだ。
 突き飛ばすほどの勢いに、そのまま床に倒れ込んで後頭部を強かに打つ。
 驚き過ぎて、咄嗟に声も出なかった。
 馬乗りになったアルエットは、レンの肩を強く掴んだまま表情なくこちらを見下ろす。
 感情のない赤い瞳。

「な、にして」

「ーーーーーー」

 唇は答えるように動いたが、声は聞こえなかった。
 行動を予測出来ない少女ではあるが、これは全く意味がわからなかった。
 彼女の左手が掴んでいた肩からゆっくりと動く。
 決して弱くない力を込めたまま、その手はレンの鎖骨を辿り胸元をぐっと押さえる。
 見開かれたままの瞳に、溢れるように涙の膜が張った。
 ぽたりと落ちた雫が頬を打つ。
 けれどその表情に、悲しみはない。
 アルエット、と名前を呼ぼうとして。
 全身を酷く馴染みのある痺れが覆った。

「ーーーーーッ!!」

 シオが反応した。
 胸元を押さえていたアルエットの左手を、レンは加減も出来ないままに振り払った。
 ひゅ、と喉が音を立てる。
 えずくような呼吸を繰り返しながら、それでも辛うじて上半身を起こす。
 間違いようもなく、アルエットがレンに対して保有データを発動した。
 瞬時に意識が落ちなかったのはある程度手加減をされていたからだろうが、左手ではなく胸元に触れられたまま発動されては堪らない。
 酷い苦痛だった。
 
「…………つ、ぅ」

 何故、どんな理由があって。
 ナイフを突き立てられたような錯覚を、襟ぐりを握り込んで殺す。
 アルエットは力なく床にへたり込んでいる。
 瞳には少しだけ涙が残っていた。
 す、とアルエットの左手が持ち上がる。
 それは彼女の意志とは別の動きに見えた。
 何かを掴もうと、柔らかく開く手。

「アル、エット」

 違う。

 重い足で床を蹴るようにして、ほんの少しだけそれと距離を作る。
 黒い手袋に覆われたアルエットの左手。
 その中指には、儀式で切り開いた傷があるはずだ。
 本来は受け入れられないものを受け入れるためにつけた傷。
 繰り返した「入れ」という言葉。
 そしてその手で、触れたもの。

「……ウロ様」

 アルエットは表情を失ったまま。
 その左手だけが、ぴくりと震える。
 それで、正しく状況を理解することが出来た。

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