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しおりを挟むその背後に庇われて、アルエットは自身が息を止めていたことに気づいた。
レン、と呼びかける前に、あの声がふと途切れる。
酷く不快な音だった。
何故さっさとアンリエッタで触れなかったのか、今更疑問に思う。
いつものように、壊してしまえばそれで済んだのに。
残念なことに濃い気配はもうない。
覗き込まなくても、もう引き出しの中にあれがいないことがわかる。
する、とアルエットの左手を掴んでいた彼の手から力が抜けた。
「ーーーーレン?」
ぱちんとまるでスイッチを切ったかのように、唐突にレンは崩れ落ちる。
それは身体を守る一切の動きがない、完全な意識喪失だった。
さぁ、と指先から一気に血の気が引いた。
怖い。
「レン!」
夢中で伸ばした両手で、アルエットは辛うじてレンを支えた。
抱き抱えるようにして床に横たえると、かくんと彼の頭が傾いだ。
とても、怖い。
「もう嫌、嫌、嫌! こんなはずじゃなかったのに! そんなつもりじゃなかったのに!」
いらない、消えてなくなってよ、と錯乱したような女性の叫び声が聞こえた。
僅かに視線をやると、飛び出していく妻を夫が慌てて追いかけて行くのが見えた。
けれどそんなことは、どうでも良い。
「レン」
抱きしめたままの身体は、脱力しているが体温がなくなる気配はない。
頬にかかる黒髪をそっと払い、唇に触れた。
息はしている。
何の苦痛も見て取れない表情は、あどけなく無防備だ。
数秒、数十秒。
ただ食い入るように、その顔を眺めて。
アルエットは深く息を吐いた。
大丈夫、なのだろう。
痛いほどの鼓動とまだ冷たく震える指先を落ち着かせるように、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
こんな恐怖を感じたのは、多分生まれて初めてだ。
激流のような感情は、けれど同時に歓喜にも似ていた。
レンが死んでしまったかと思って、怖かった。
レンが無事で、とても嬉しいと思った。
でも腕の中のレンが早く目を覚まして、いつものように小言を言ってくれないと安心出来なかった。
でもこうしていつまでも気を失ったままのレンを抱きしめていても、良いと思った。
ただ取りとめもなく、溢れる。
こんなにも、心が震えたのは生まれて初めてだった。
アルエットは震えの止まった指先で、レンの瞼をそっと撫でた。
「ーーーーう」
「……レン? 大丈夫?」
ひくと震えた瞼からそっと指先を離して、アルエットはレンの顔を覗き込んだ。
誰もそうはしていないのに、彼は無理やり起こされたかのように眉を寄せて、酷く億劫そうに目を開けた。
ぼんやりとアルエットを見上げるが、予想していたような叱責は飛んで来なかった。
彼はこめかみを押さえて、ようやく身体を起こす。
「ね、大丈夫?」
支える必要はなさそうだったが、何となくレンのコートの端を掴んだままアルエットは繰り返し問いかける。
レンはぼんやりと首を傾げた。
「…………大丈夫、ってなんで?」
「なんでって、倒れたよ?」
ああ違う違う、と何故か彼は重く首を振った。
振って、今度は目頭を押さえる。
一体何が違うのだろう。
いっそ気を失っていた時の方が楽そうに見えるほど、動きは緩慢だ。
「だから、俺はこうなんだって」
「こう?」
「シオが、本気で俺を守ろうとすると、こうなるってこと」
レンは説明も面倒なのか「全くもって健康体だから、気にしなくていい」と言い切る。
理屈はわからないが、レンがそう言うのならそうなのだろう。
「でも辛そうだよ?」
「……辛いんじゃなくて、眠い」
「眠い?」
「凄く、眠い」
顔を顰めたままレンは強く言って、ゆるゆると頭を振った。
それから床に手をついて立ち上がる。
彼はふと室内を見渡して、
「依頼人いないじゃん。え、そんな寝てた? 俺」
と、呆気に取られたように呟く。
アルエットはついと玄関の方を指差して「なんか行っちゃった」と答えた。
レンはアルエットが指差した方を素直に見て、「何で?」と聞く。
何だか眠いレンは、子どものようで楽しい。
「わからない。レンが倒れて、それどころじゃなかったから」
「……そりゃ、悪かったけど。一応、依頼人のことくらい見とこうか。後々面倒だろ」
そうだね、とアルエットが答えると、レンは特にそれ以上何も言わなかった。
いつもならもう少し色々言う。
どちらが良いというわけではない。
どちらのレンでも、アルエットは構わない。
そしてそう感じることが、とても不思議で。
同時に何故か心地よいと、アルエットは思った。
レンは無言で色々今後の行動を考えていたようだが、結局動こうとはしなかった。
アルエットも、レンの傍を離れるつもりはない。
しんとした室内に、二人は沈黙したまま向き合っている。
「多々やらかしておいて、なんか楽しそうだな。先に言っとくと、これからお小言と嫌味のフルコースが待ってんですが」
「そうなんだ。やっぱり、怒ってるの?」
やらかしておいてとレンが言うのだから、多分アルエットはまた何かやってしまったのだろう。
さほど自覚はないが、レンが文句を言う時はきちんと理由がある。
それなら別にまた怒られても良い。
「俺が? いや、言いたいことはあるけどそれはまた今度だな」
けれどレンはあっさりと首を振った。
その上何故か「今回は一緒に言われる側です」と疲れたように付け加える。
意味がわからなくて、アルエットは視線だけで先を促した。
レンは開き直ったように苦笑する。
同時に、玄関のドアが開く音がした。
二人ではない。
複数の足音がリビングに向かってくる。
「対策班に連絡したって言っただろ」
流石に、アルエットも理解が出来た。
レンの文句なら良いけれど、相手が対策班の人間なら話は別である。
アルエットはひょいとレンの背後に回った。
「私、対策班の人好きじゃないな」
「そ? 俺も別に好きってわけじゃないんだけど」
「そっか。じゃあ、アンリエッタにお願いしてもいい?」
「良いわけないだろー。え、待て待て。何故その発言に至る?」
実は冗談だと言ったら、彼は何と返してくるのだろうか。
ふわふわと浮くような軽やかな気分は、険しい表情でリビングに踏み込んで来たローブの人間たちによってあっさりと踏み躙られた。
レンの背後にぴたりとくっ付いたまま、アルエットは口を閉ざした。
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