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しおりを挟む『いや、思ったより上手くやっていけそうで良かったよ』
初仕事の顛末を訊き終えた主任は、端末の通信越しに呑気にそう言った。
一応心配していたんだ、と言いつつ、笑いを堪えるつもりがない辺りこの上司は本当にどうしようもない。
レンは研究室のデスクで頬杖をついて、思い切り溜息を吐いた。
大した調査ではなかったのに疲労感は翌日まで尾を引き、今朝は盛大に寝過ごした口である。
何故か、と改めて考えるまでもない。
「上手くやっていけそう? 主任、俺の話きちんと聴いてました?」
『聴いていたとも。や、なかなか刺激的な調査になったみたいだね。でもほら、これでセットのことはきちんと理解出来ただろう?』
「大っ変問題ありだと、嫌ってほどわかりましたけどね!」
レンは昨夜の一件を思い返して、眉を寄せた。
対策班というRデータ対処のプロ集団が、事実上「扱い切れない」と判断したデータ憑きの少女アルエット・セルバーク。
保有データは極めて攻性の高い希少データ、触れたものを必ず殺す『白い手』。
そのスペックだけなら、超一級の人材である。
それなのに。
「どうしてあんな基礎知識がないんですか? 彼女、アンリエッタ……、『白い手』も人間相手に不用意に扱ってる。あれじゃ当然、セットなんて見つかるはずがないですよ。対策班で運用なんて夢のまた夢でしょうが」
仕事に対する意識も低ければ、知っていて当然のことも全く理解していない。
それでいて、Rデータとみれば『白い手』で食らい付く。
猛犬だ。
誰だって、自分に牙を剥くかもしれない獣を傍に置いておきたいとは思わないだろう。
けれど、とレンは思う。
彼女だって、生まれながらに猛犬だったわけではないだろう。
「講師連中は、彼女に何教えてたんですか」
昨夜の少しのやり取りで、アルエットが心底勉強嫌いなことはすぐにわかった。
ただ興味がないわけではない。
もっと、ちっちゃい子にもわかるように説明して。
彼女は、レンにそう求めた。
端から知識など必要ないと思っているわけでないのだ。
難しいことは苦手、だがそれ以上に彼女は知識の得方を知らないのだろう。
「彼女に必要なのはセットじゃなくて、正しく知識を与えてくれる講師ですよ」
『全く、その通りなんだがね。そこもまあ多少は事情があるんだよ。まあ、幸い君は第二研究区の優秀な研究員。彼女はNICSの後輩でもあるだろ? 可愛い生徒が出来たと思って、色々教えてあげれば良いじゃないか』
「……主任それ、手当とかつきます?」
そうなるだろうという予感はあれ、実際そう言われると皮肉が口をついて出る。
レンはデスクの上に積まれた資料の山を、何となく捲った。
『結果次第だろうねー。少なくとも、私から盛大な拍手は送ろうじゃないか!』
ミーティアはレンの皮肉をさらりと流して、笑う。
『まあ、なんだ。気長にやりたまえ、レン君。どうしようもなくなったら、私だってちゃんと君の上司らしいことをするつもりではある』
「…………」
『それはそれとして、今夜の調査の話をしていいかい?』
ころっと明るく言い放った主任に、レンは釈然としないまま呻いた。
空腹を覚えたのは、昼食にしては遅く夕食には早すぎる時間帯だった。
変な時間に腹が減るものだとレンは思ったが、それもそのはず。
今朝はコーヒー一杯で慌てて部屋を飛び出している。
研究員という人種は飯も食わずに研究に没頭する人間も多いが、レンはそれには当てはまらなかった。
大体、食べないと倒れる。
多少面倒に思いながら、レンは手をつけたばかりのデータ整理もそこそこに研究室を出た。
四つある研究棟の向かいには、図書館と併設されたカフェがある。
ちゃんとした食堂もあるが、そちらは寮の近くにあり研究棟からは遠い。
手頃な軽食を出すコーヒーの美味しいカフェで、レンとしては十分事足りる。
愛想の良い店員に勧められるまま焼き立てのパンとコーヒーを買って、レンはふらりとオープンデッキに足を向けた。
図書館とカフェに挟まれたオープンデッキは資料片手に食事が出来る最高の立地でありながら、時節によっては日陰になりやすく風が吹くと意外と冷え込む。
だが少し休憩するくらいなら、その人気のなさはありがたいくらいだった。
秋季の午後三時、レンの予想通り影に入ったオープンデッキに人の姿はほとんどない。
比較的陽の残るテーブルにパンの入った紙袋を置いて、レンはぴたりと動きを止めた。
オープンデッキの隅、もう宵闇に踏み込んだような薄暗闇の席に黒いロングコートの少女がぽつんと座っている。
コートの下はライトグレーのワンピースのようで、肌の白さがやけに眼を引く。
印象としては快活に見える切り揃えられた前髪の下、瞳は静かに伏せられている。
それは一瞬、Rデータとうっかり遭遇したのかと勘違いするほどの存在感のなさだった。
アルエット・セルバーク。
残念ながら見違えるはずもなく、彼女である。
幸い彼女はレンに気付いた様子はなかった。ただ手に持った本をぺらぺらと捲っている。
それは全く「読んでいる」とは言い難い速さだ。
「…………」
声をかけなければ、恐らくアルエットはレンに気が付かないままだろう。
主任に容赦なく押し付けられた次の調査の件も、彼女にはメールで既に伝えてある。
敢えて話しかける必要性はないし、そうしたいという感情も特別レンにはなかった。
そうだ。
自覚がある。
レンはそういう人間である。
嫌なことはやりたくないし、相手に嫌われようが自分が言いたいことは大抵言ってしまう。
挙句皮肉屋で、可愛げだとか愛嬌だとかはまとめてどこかに置いて来た口だ。
一度テーブルに置いた紙袋をそっと持とうとした瞬間、訴えるように左手が微かに痺れた。
けれどまあ。
それは、やっぱり駄目なんだろう。
例えば対策班のセット同士であったなら、相棒が一人でいる時に声もかけずに立ち去るなんてことはしないに違いない。
当然、仕事となればセットは背中を預ける仲なのだ。
アルエットはきっとそれを知らないし、レンが自分を無視して立ち去っても「セットなのに」と責めたりはしないだろう。
そして結局、彼女はまた「知らないまま」だ。
「……面っ倒だな、すっごく」
レンはぽつりと呟いた。
けれどレン自身、何故誰も教えなかったんだと彼女の無知を嘆いた身である。
教えても覚えないのなら、それはアルエットに非がある。
けれど教えるべきことを教えず見ない振りをするならば、それは明らかにレンに非があるだろう。
レンは諦めて紙袋を手に、日陰に踏み込んだ。
白い手が適当に捲る本の内容が窺えるほど近付くと、ようやくアルエットは顔を上げる。
大きな瞳を数度瞬かせた彼女は、少し驚いているように見えた。
「レン」
彼女は微かに、笑った。
好かれるような交流はここまで一切ないと言うのに、少なくともこうして構われることは不快ではないらしい。
さて何を話せばいいのかと悩んだのは、一瞬だった。
アルエットが見ていた本に視線をやって、レンは「一応やる気はあるのか」と言った。
低年齢向けの、Rデータに関する基礎講読本だ。
カラフルな図解に、デフォルメされた動物のキャラクターたちがQ&A方式で根本的な内容を優しい言葉で語っている。
そのチョイスはともかく教科書でも読めと言われたことをとりあえず実行しているらしい。
アルエットは頷きながらも、さっさと本を閉じた。
「簡単そうなのを借りてみたんだけど、やっぱり私にはちょっと難しかったかも」
「難し……、あ、そう」
彼女に基礎知識を教え込むのは、どうやら途方もない苦行になりそうである。
遠い目をしたレンに、アルエットは気付かない。
「本、嫌いなの。小さい時、一日に一冊は読みなさいって講師のおばさんに難しい本ばっかり押し付けられて、それからずっと嫌い」
とんとんと指先で本の表紙を軽く叩いて、彼女は淡々と言った。
なるほど、レンとは対極を行く性質である。
「それに、眠くなるよね?」
「同意を求めないで欲しいんだけど。というか、せめて明るいとこで読んだら?」
そりゃあ眠くもなるだろうと、レンは図書館の白い壁を見上げた。
そもそも読書の場として、この薄暗さは適さない。
アルエットはそう言われて、首を傾げた。
「でもほら、私が目立つところで本を読んでたら、みんな困るかなって」
「はぁ?」
「だってみんな、私のこと怖いみたいだし」
平然と、彼女はそう口にした。
そんなのは当然だと、レンは思う。
そもそもデータ憑きは異端である。
ステルラ博士によって現象が明かされデータ保有者が社会的地位を確立した現代においても、そればかりはどうにもならないのだ。
絶対数が少ないという事情だけではない。
データ憑きは、自身の保有データに異常な執着や依存を見せる。
それがただの情報であるにも関わらず、時に保有データと意思の疎通さえする。
挙句データ保有者を遥かに上回る現象を操れば、それは当然畏怖の対象になるだろう。
ただ、そんなことは当たり前なのだから。
そこで立ち止まって聞き分けの良い振りをするのは、酷く馬鹿馬鹿しいとレンは思う。
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