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しおりを挟む終わっちゃった、じゃねぇよ。
喉元まで出かかった罵詈雑言を、レンは全霊で押し留めた。
仮にも財団の名を負って対処に来ている人間が、依頼人のいる前で口論というのはいただけないだろうと深く息を吐く。
「えっ……、おわ、ったんですか!?」
ばっと顔を上げた青年は、椅子から僅かに腰を浮かせたまま室内を舐めるように見渡す。
当然、影も形もないはずだ。
アルエットの保有データは、触れたものを必ず殺す。
一たまりもなかったはずだ。
「……いない」
ぽつりとそう言って、彼はぐったりと椅子に崩れ落ちた。
ああとか、ううとか唸りながら、彼はまた頭を抱えてしまう。
アルエットは青年を不思議そうに見つめて、首を傾げた。
猛犬の名残はなく、すでに中身のない微笑みを浮かべたいつもの彼女である。
レンは青年が少し落ち着くのを待ってから、事後の説明をした。
一週間後に財団から聞き取り調査がある旨、そしてそれまでに何か異変があればすぐに連絡をするよう伝える。
いつもならばもう少し丁寧にする説明も、今夜ばかりは事務的に淡々と済ませてしまう。
いや、依頼人の青年が悪いわけではない。
一刻も早く、この猛犬に物申したくて仕方なかっただけである。
「では、ゆっくりと休んで下さい。何かあればすぐ財団まで」
レンはそう締めくくると、アルエットを促して青年の部屋を出た。
時間にして、一時間弱。
恐らくは、ミーティアが二人での初仕事だからと見繕った仕事だからだろう。
呆気なく感じるほどの軽い仕事だった。
常であればこの後もう一件調査に向かうくらいはするが、今回はその予定もない。
調査が入った翌日はもれなく半休だから、ありがたく浮いた時間を休息なり研究なりに当てればいいのだ。
だが当然、そんな気分にはならなかった。
無言のままレンはアパートの階段を下り、路肩に停めた車に乗り込んだ。
アルエットが数歩遅れて、助手席に座る。
暗い車内に、重い沈黙が満ちた。
「…………」
レンはことここに至るまでの過程を振り返って、小さく頷いた。
これは、怒って良い案件である。
「何で、存在証明もせずに、勝手に、突っ込んでったわけ?」
アルエットは問われて、心底わからないみたいな表情をした。
レンが怒っていることは理解しているようだが、その理由には全く思い至らないらしい。
「何でって、だってRデータの対処がお仕事でしょ? 私、ちゃんとやったよ?」
「ちゃんと、やったぁ!? 良い度胸だな、アルエット・セルバーク」
名を呼ばれて、彼女は眼を丸くした。
それは怯えより、単純な驚きによる反応に見えた。
「研究員の目の前で存在証明出来るはずだったRデータを跡形もなくぶっ壊しといて、ちゃんとやった、だぁ? 本当に、喧嘩売ってんのか?」
対策班でも初手の対処として存在証明が推奨されているのは、ひとえにそれがRデータ研究の貴重な資料となるからだ。
それは財団に所属する人間なら、誰もが必ず研修で叩き込まれる事実である。
現象として、どういうRデータだったのか。
それをどう定義し、言葉で暴き、時に名付け保有に至るか。
そして、証明時のコード利用による変化なども明確詳細に記録する。
それらを徹底的に収集、考察することによって、現在の研究は歩みを進めているのだ。
そもそも対策班がRデータの対処に当たる際も、存在証明を元にした類似のRデータや証明成功例は重要な参考資料として扱われる。
たかだか、一例ではないのだ。
その一例を積み重ねて、人々は今日Rデータと向き合っている。
「どうしようもないって時は、迷わずあれでいい。でもな、存在証明を蔑ろにすんな。いいか、仮にも俺がセットの間は、二度目はないからな!」
わかったら返事、と一気に捲し立てると、アルエットはきょとんとしたまま頷いた。
子どものようなあどけない表情で、彼女はぱちりと大きな瞳を瞬かせる。
「うん。わかった」
「…………」
レンはそれ以上何も言わずに、ようやく車のエンジンをかけて暖房を入れた。
微かなエンジン音と振動に重ねるように、アルエットが「ねぇ」と言った。
レンはハンドルに手をかけたまま、彼女を見る。
「ねぇそれで、存在証明ってさ、どうやるのかな?」
「……はい?」
小さく首を傾げた彼女に釣られるように、レンも頭を傾けた。
聞き違いだ。
新人とは言え、対策班に所属する人間が、存在証明を知らないはずが。
「私、そういう難しいこと苦手なんだ。わかりやすく教えてくれると嬉しいな」
「うえぇ、嘘だろ!? 存在証明のやり方を知らない? ドライバーがブレーキのかけ方知らないとの同じだぞ! もー、勘弁しろ!」
「多分、アクセルの踏み方はわかるよ?」
「正にそういうことだけど! 威張るな!」
レンは左手の人差し指を、真っ直ぐアルエットに向けた。
彼女はコードに覆われたその指先を見て、ぴたりと口を噤む。
「存在証明」
最早、やけくそだった。
何が悲しくて、対策班所属の人間に存在証明を教えなければならないのか。
こんなことは初歩中の初歩で、一般人ですら多少のことは知っているというのに。
「分類ヒト、データ憑き。保有データ、触れたものを必ず殺す『白い手』。常識欠如した猛犬。取り扱い注意。名は、アルエット・セルバーク」
Rデータ相手には決してやらない投げやりな証明だった。
だけどまあ、案外的確だろうとレンは思う。
あんまりな証明を聞いて、けれどアルエット本人は何故か楽しそうに薄く微笑んだ。
「証明完了」
レンはそう締めくくると、指先を下ろす。
もう心底疲れていた。
「後は教科書でも読め!」
アクセルを踏んで車を発進させると、アルエットは「はぁい」と素直に返事をした。
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