アンリレインの存在証明

黒文鳥

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 陽が落ちると、気温はかなり下がる。
 共和国自体一年を通じて比較的冷涼な気候だが、更に海側に位置するオーバーシティの港湾区となると言うまでもない。
 車の助手席に座ったアルエットが、コートの上から軽く腕を擦った。
 レンはアクセルをゆっくりと踏んで、それから何も言わずに暖房を入れた。
 沈黙。
 財団の駐車場を出た車は、港湾区の幹線道路を北に向けて走る。
 時刻は午後九時を少し回ったところだ。
 街灯に照らされた広い石畳の歩道を、歩行者がちらほらと歩いている。
 商業施設の多い区画だ。
 買い物と夕食を楽しんで、これから家に帰るのだろう。
 車窓から見えるのは、白い高架歩道とそれに隣接したモノレールの駅。
 いつになく重い気分だった。
 レンは根っから、研究員である。
 Rデータの調査となれば、別に何時だろうと駆けつけるくらいの熱意はある。
 いや寧ろ割と喜々として行くことの方が多い。
 けれど、今日は別だ。
 いや、「今日からは」だろうか。

「…………」

 行儀良く、ちょこんとシートに腰かけているアルエットは、じっと流れて行く夜景を眺めている。
 そっと窺った横顔には、別段特別な感情は見て取れなかった。
 ミーティアが早々に押し付けてくれた調査。
 それは普段レンが任されているような、ごく普通のRデータの調査だった。
 財団には多い時は一日何十件と、Rデータの情報が寄せられる。
 それを対策班が優先度の高い順に対処に当たるわけだが、当然日常的に手が足りない。
 そこで、『調査』である。
 名目はともかく、実態は準対策班と言っても過言ではない。
 ちょっと様子を見て来て、いけそうだったらRデータを始末しといてね。
 そういう仕事だ。
 特にレンはデータ憑きで、保有データのシオは防衛能力に優れている。
 シオでRデータを破壊することは出来ないが、言葉による情報解体「存在証明」は可能だ。
 よって、比較的危険度が低いと考えられるRデータの対処が回って来るというわけだ。
 それはレンにとってはいつものことで同時にRデータの情報収集にも役立つため、いっそありがたい仕事ではあったが、果たしてアルエットにとってはどうだろうか。
 言うなれば、対策班のおこぼれを任されるような話である。
 対策班に所属する、しかも『白い手』なんてデータを保有するアルエットにとっては不名誉な話であってもおかしくはない。
 加えて、散々自身との活動を渋った相手との仕事だ。
 一応彼女は約束の時間にはちゃんと姿を見せて文句一つなく車に乗り込んでいるわけだが、如何せん感情が読み取りにくい。
 感情がないとまでは思わないが、何を考えているのかわからないのだ。
 彼女の在り方はデータ憑きに対する偏見を持つ人から見ればいっそ不気味に見えるかもしれないと、レンは思った。

「――――ね」

「え?」

 唐突に話しかけられて、レンは咄嗟に内容を理解出来なかった。
 信号でブレーキを踏んで助手席を見ると、アルエットはあの微笑みのままレンを見ていた。
 薄い、中身の見えない微笑み。

「いいね、こうやって車で行くの」

 気不味さの末、苦し紛れに話題を振ったという雰囲気ではなかった。
 純粋にただそう思ったから、思った瞬間に口にしたのだろう。
 そういう気安さが、言葉の端にあった。

「ーーああ、Rデータの調査なんて下手すりゃ明け方までかかることもあるし、モノレールが動いてなくて帰れないってのは困るだろ。あれ? 対策班だって車使ってんじゃなかったっけ」

「うん、研修でも支援班が送り迎えしてくれたよ。だから行きも帰りも後ろの席でブリーフィング。カーテンしちゃうから景色も見れないし、全然楽しくない」

「……いや、それ普通だから。楽しむための時間じゃないから」

 レンは身体を捻るようにして、後部座席の足元から鞄を拾い上げた。
 中から取り出した愛用の端末を開いて、アルエットに手渡す。

「今日の日付のファイルを開けば、調査用の資料が見られる。ブリーフィングはともかく、予習くらいはしといて罰は当たらないと思うけど」

「私、ドライブ中は景色を見てるのが好きなんだけどな」

「だから、ドライブ中じゃなくて仕事中だっての!」

 アルエットは受け取った端末を、静かに操作する。
 同時に信号が変わって、レンはアクセルを踏んだ。

「見たよ」

「あ、見た? え、早っ! 嘘つけ!」

「そんなことよりね、聞きたいことがあるんだけど」

 しかも、そんなことよりと来た。

「どうして、シオは、レンのことを絶対守るの?」

 一瞬、その一言が重く聞こえて、レンは用意していた台詞を呑み込んだ。
 けれどどうやら深い問いかけではないらしい。
 アルエットは少しだけ考え込むように、ゆっくりと言葉を続ける。

「シオの基礎情報は、金縛り現象なんだよね。それがどうしてアンリエッタを弾いたの? 後付けの情報補強って何? アンリエッタも補強出来る?」

 おっとりとした口調はそのままに、アルエットは一気に畳みかけた。
 昼間の「挨拶」の件が、気になっていたのだろう。
 けれど質問の内容は、財団関係者としては首を捻るような基本的な話だった。

「は? そんなの、NICSで教わっただろ?」

「多分。でも、よくわからない」

「えぇ……?」

 だがRデータに関することを問われて無視するという選択は、研究員としてあり得なかった。
 レンは、仕方ないと小さく溜息を吐いた。

「元々、Rデータは変異性の強いものだ。どっかのトンネルに白い影として立ってるだけのRデータが、人の噂とか想像とかを介して、白い服の髪の長い女に変わったりなんて珍しくない現象だろ?」

 基礎として、Rデータに核はある。
 それは噂だったりヒトが死んだ後の残留情報だったりするわけだが、その核に後から情報が付随しやすい。

「シオも核が何だったのかはもうわからないけど、元々の現象としては睡眠障害とは違う金縛りだった。それに、俺が言葉とか想像で情報を足した。それが後付けの情報補強」

 アルエットは何も言わないが、レンは構わず続けた。

「ついでにデータは保有の時点で、情報としては大部分が固定されている。アンリエッタのことを今更『黒い手』だとは思えないだろ? まあ、ずーっと何十年も思ってたら変化あるかもしれないけど。補強って補強は、出来ないって思ってくれた方がいい」

「…………」

 アルエットの沈黙は、予想以上に長かった。
 ちらと視線だけ向けると、彼女はじっとレンを見ている。

「もっと、ちっちゃい子にもわかるように説明して」

「……お馬鹿さんなんかな?」

 いや、もう良い。
 深く考えると、運転に差支えがある。

「じゃ、逆にアンリエッタを保有した時のことは憶えてるだろ?」

「憶えてるよ!」

 その時ばかりは、涼やかな声に興奮が感じられた。

「とても、とても綺麗な手だったの。触ったら危ないってわかってたけど、でもその手だけは全然怖くなかった。気付いたらずっとそばにいて、それで、他の怖いものを全部消してくれた」
 
 だから声をかけてみたんだ、とアルエットは言った。
 まるで恋人との馴れ初めを語るような、ふわふわとした声で。

「綺麗な白い手さん。あなたが触れたから、怖いものはみーんな消えちゃった」

 アルエットは端末を右手で抱えて、すっと左手を伸ばした。
 黒い手袋に覆われた彼女の手は、きっと白くて綺麗なんだろう。

「それで友だちになって、名前を付けた。それがつまり存在証明をして、名付けを行って保有に至るって行為だな」

「うん、そう。レンは?」

「俺も似たようなもんだよ」

 データ憑きは、そもそもRデータに対する感応力が極めて高い。
 だから幼少期から、Rデータに囲まれて育つようなものだ。
 そこには害意のあるデータも当然含まれる。

「その影が覆い被さって来た時だけは、他に何も見ずに済んだ。何も考えず、何も怖がることなく眠れた。元々『覆い被さるもの』として、遮断の基礎情報はあったんだろ」

 ハンドルを握る左手が、じわりと優しく痺れた。

「……ここにいれば、絶対に安心だって場所。子どもの頃なかった?」

 レンの問いかけに、アルエットはゆっくりと瞬きをして小さく首を傾げる。

「アンリエッタがいれば、怖いことなんて何もなかったよ」

 それまでのことはあまり覚えていない、と彼女はなんてことないように言う。
 その唇が、人との触れ合いを語ることは到底なさそうに思えた。
 レンは、けれどそれを否定しない。

「そう、それ。そういう感覚」

 レンの返答に、アルエットは何故か一瞬戸惑うように微笑みを消した。
 自身の言葉を肯定されるとは、端から期待していなかったようである。
 そうか、一応そういう表情も出来るらしいと、レンは思わず苦笑した。

「俺の場合は、シオがそうだった。何かあったらあの影の中で目を閉じれば『絶対に大丈夫だ』って確信してた。だから保有の時に、その確信が情報として追加された」

「……ん、そっか。それが後付けの情報補強ってことだね?」

「理解してもらえたようで何より。ついでに言うなら、俺は自分のことは絶対に守れるけど、他人を同じように守る自信は全くない。更に言うと、防衛特化のおかげでRデータに対して攻撃も出来ない」

 一瞬の足止めくらいは出来るかもしれないが、程度としてはやるもやらないも同じレベルの話である。
 アルエットは「うん」とあっさり返事をした。

「大丈夫。アンリエッタは強いもの」

 それもまた、無条件で圧倒的な信頼だった。
 レンにとっても馴染み深い、容易く理解が出来る思考である。

「だろうなー」

 改めて言うまでもなかったか。
 レンは「さて」と短く気合を入れると、ハンドルを切った。
 
 今夜の目的地まで、もうすぐだ。


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