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しおりを挟むざり、と重く何かが擦れるような音がした。
壁に背を預け、ノート型の情報端末に視線を落としていた黒髪の青年は一瞬だけ顔を上げて、その黒い瞳を細めると微かに笑った。
当たりだ。
どうやら、無駄足にならずに済んだらしい。
安堵と、目当てのものを引き当てた喜びで緩む彼の頬を、端末の光が照らしている。
暗闇に沈むオフィス。
整然と並んだデスクは二十程度だろう。
非常灯を除けば、まともな光源は青年の手にした端末のみ。
辛うじて窓から薄っすらと光が差し込んではいるが、生憎オフィスがあるのは幹線道路から離れたビル密集地区。
申し訳程度に差し込んでいるのは、月明かりではなく頼りない街灯の光だ。
時刻は午前一時四六分。
このご時世に草木も眠るとは言えない時刻ではあるが、それでも多くの人は今頃ベッドの中だろう。
青年にとってはこの時間の活動も慣れたものではあるが、それでも眠くないわけではないし、挙句この時間まで粘って空振りというのも堪えないわけでもない。
また、短く、異音が響く。
ざり。
ひとつ、ではない。音は重なって聴こえた。
重い靴音。
先程より、やや大きい音だ。
「……増えたかな?」
要は、本日は大変好調な滑り出しだった。
『ハ、ロ、ゥ! レン君』
小さな電子音に続いて、端末から唐突に容赦のない呼びかけがある。
青年は流石に短く息を呑んだが、画面に視線を落として深く息を吐き出した。
画面には強制通話のポップアップ。
ああ、彼女かと、彼は額を軽く押さえた。
いつものことではあるが、その第一声にはどうにも悪意を感じる。
こちらの業務を十分に知った上での所業なのだから、庇いようもないだろう。
ただそれを明確に感じさせない声は、どことなく優しさを含んで柔らかい。
『ご機嫌かな? レン君。お仕事は順調かい? 装備は完璧? 敵は何時の方向かな?』
「主任」
『ははは、いやだなぁ。こんな時間に主任だなんて。私は、とーっくに終業後だ! 君ならプライベートな時間に名前で呼んでくれても、全く構わないって言ったと思うんだけど!』
「ミーティア・ニルフェリア第二研究区主任」
要望通り、彼はその名を呼んだ。
信じがたいことに、通信相手の彼女は直属の上司である。
『うん、何だい? レン・フリューベル君』
しれっと返されて、レンはささやかな当てつけに思い切り溜息を吐いた。
「主任が会議で大変にお疲れで、そのストレスでいつものように狂ったようにゲームをプレイ中なんだろうことはお悔やみ申し上げますが、俺は、現在進行形で勤務中です。毎度毎度、主任権限で強制通話とかやめてもらえません? 高度な嫌がらせですか」
『レベル上げの暇を縫って、可愛い部下が危ない目にあってないか確認しているだけじゃないか。それで、どうなんだい? お仕事は。空振りかい? いや、君のその感じからすると当たりだったのかな』
そこはまた憎らしいほどの勘の良さで、彼女が言い当てた。
レンは壁から僅かに背を離して、姿勢を正す。
その動きに合わせて、薄手の黒いロングコートが揺れる。
「当たりですね」
異音はいつの間にか、断続的にオフィスに響いていた。
それは形容するならば、やはり行軍だった。
規則正しく幾千と重なる音は。
荒野を征く、重い軍靴。
眼を閉じさえすれば、歩兵たちの姿さえはっきりと思い浮かべることが出来る。
だが実際は、音だけだ。
オフィスにはレン以外誰もいない。
『夜中の二時頃、四階のオフィスから行軍のような足音が聞こえる、か。ありがちなお話だけど、警備員からしたら堪らないね。行軍とか、共和国はここ二百年以上ガチの戦争には参加してないし、そもそもその辺りは戦地になってないんだけどねぇ』
回線越しの主任には、異変は何一つ伝わっていないようだ。
緊張感のない声に、レンは「そうですね」と言葉を返す。
「建築調査で環境的な異常ではないと判明してます。人死も関連しそうなものはないし、信仰が関わっているわけでもなさそうです。典型的な『噂から生まれちゃった』ヤツでしょう」
レンは端末を操作して、集めた資料を軽く見直した。
「持ち帰るまでもない。俺で十分に対処出来る。ありがたい。貴重なデータです」
そう言って、レンは笑う。
主任は『そうかそうかー』と楽しそうに続けた。
『いやはや毎度心配するだけ無駄だね! 低レベル使用スキル縛りなんてデメリットがあったって、君はデータ憑きだ。それじゃあ、おしゃべりはこのくらいにしておこうかな。楽しい解体の時間を邪魔するのは野暮ってものだからね』
あっさりと、彼女はそう言って通話を終える。
かけてきた時と同じ気ままさは、全くもってどうにかならないものかとレンはまた溜息を吐いた。
静かに端末を閉じて、右手で抱える。
楽しい解体の時間というは語弊があるが、通話の片手間にこなせる作業ではないことは確かだ。
その辺りは案外あの主任も気を回せるらしい。
レンは左手を宙に伸ばした。
素手の右手に対して、左手は黒い手袋に覆われている。
そのまま、闇に溶けそうな人差し指で、まっすぐ『それ』を差した。
オフィスの中心。
軍靴の響き渡る、現象点。
「存在証明」
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