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外伝
外伝-2
しおりを挟む八月、高校卒業資格を得た大澤は、九月、十月、十二月……と高い倍率の試験を次々突破し、翌年一月、合格通知を手にした。
「よくやった!!」
薬屋は大澤を抱きしめて背中をばんばん叩き、涙まで流して喜んでくれた。薬屋だけではなく、大澤を陰ながら応援してくれていた商店街の人たちも皆して、肉や魚、野菜や豆腐まで持って呑み屋に駆けつけ、店主が腕を振るって祝賀会まで催してくれた。
「頑張れよ! 頑張って飛べるようになるんだぞ!」
「地震とか台風とかあったら駆けつけてくれよー!」
「休みが取れたら遊びに来いよー!」
三月末、そんな声に送られた大澤は、東京から遠く離れた場所にある寮に入った。
訓練生としての生活は有意義だった。
大澤がぼんやりと思い描いていたものとはまったく違う、学業や訓練に明け暮れる生活だったけれど、確実に自分の技量が上がっていくことを実感できる充実した毎日。
訓練を終え、晴れて空を飛ぶ資格を得たあとは、空から国を守る仕事をすることになる。そのことになんの疑問も持っていなかった。ひたすら戦闘機の操縦席に座る自分を想像し、その日が必ず来ると信じていた。
だが、結果として大澤は、ファイターパイロットになることができなかった。
「君は戦闘機よりも輸送機か救難機に向いている」
およそ二年半の基礎教育と初級操縦訓練を終えたあと、告げられたその言葉に大澤は目の前が暗くなる思いだった。
「君は、あらゆる条件を検討し的確な判断をする思考力や、リーダーシップを備えている。それは、たくさんの人の命や物資を預かって、目的地まで確実に届けねばならない輸送機操縦でこそ活かされるだろう」
そう告げた教官の言葉は確かに正しいのかもしれない。教官に左旋回しろ、と言われて反射的に操縦桿を倒せない自分は、瞬時の対応が何よりも必要とされる戦闘機には向かないのかもしれない。
それよりも、人であろうと物であろうと、とにかく預かった物は間違いなく届ける、という確実さが求められる輸送機に向いているだろう。
だがそれは、ファイターパイロットだけを夢見て訓練を乗り切ってきた大澤にとっては、死刑宣告に等しかった。だが、今さらどうしようもない。輸送機だってパイロットはパイロットだ……そう自分に言い聞かせて、大澤はより実践的な飛行訓練を続けた。
それなのに、大澤の運命は過去から伸びてきた黒い手に狂わされた。
四年近い訓練を無事に終えた大澤は、休暇を利用して母親に会うために上京した。母親だけではなく、あの薬屋や商店街の人たちにも会いたかった。
東京駅から地下鉄を乗り継ぎ、両親が住むアパートに向かう。最寄り駅に降りて、薄暗い路地を通りかかったときのことだ。
若い男が、いかにもヤクザといった風貌の一団に取り囲まれ、袋だたきにされていた。
二度とヤクザと関わり合いになどなりたくない、見て見ぬふりをしよう。
ここで自分が助けなければならない理由などない。こんなところでヤクザと諍いを起こしては、死にものぐるいで軌道修正した自分の将来にも差し障る。
見過ごせばいい、見なかったことにして通り過ぎるんだ……
けれど、できなかった。
もともと持っていた正義感と、四年の間に叩き込まれた守るべきものを守るという意識が、大澤の足をそれ以上前に進めることを拒む。
気がついたときには、ヤクザ相手に大立ち回りを演じていた。体力には自信があったし、何よりも四年間で得た『戦い方に関する知識』は半端なヤクザを寄せ付けもしなかった。
だが、その立ち回りを遠巻きに見ていた中に、かつての悪友がいた。
「大澤、とうとう戻って来やがったか!」
ここで会ったが百年目、と暗く険しい目が言っていた。
かつて一緒に悪さをしていたその男は、大澤がバックパックから白い粉を抜いて姿を消したあと、お前なら大澤の行方を知っているはずだとヤクザたちに散々つるし上げられたらしい。
本当に知らないのだと、ヤクザ連中が納得するまでに肋骨を二本、脚を一本叩き折られた挙げ句、逃げたなら仕方がない、お前が代わりにやれ、と運び屋にされた。明らかに犯罪だとわかっていても、報復が怖くて逃げ出せなかった。そのまま、ずっと暗い道を歩き続けてきた――
全部お前のせいだと、かつての悪友は大澤に恨みを投げつけた。見つかってしまった以上、貴重な収入源を海に捨てて組織をこけにした大澤を、ヤクザたちが見逃すはずもない。
『裏切り者は許さない』、それは期限などない掟であった。
五年の間に倍では収まらぬほど怒りを増幅させたヤクザたちは、懐にナイフや拳銃を忍ばせた男たちに大澤を襲わせた。行く先々で何度も乱闘になり、多勢に無勢で命からがら逃げ出した。
休暇で制服を着ていなかったことだけが救いかもしれない。もしも大澤が属する組織がばれてしまったら――
それは組織を重んじる大澤が一番避けたい事態だった。
辞めるしかない……
彼らを振り切って無事に組織に戻れるとは思えなかった。所属がばれれば即不祥事騒ぎ。ヤクザ連中は大喜びでマスコミにあることないこと喋りまくる。国を守るべき組織のパイロットが、かつて『運び屋』だったなんて、いかにもマスコミが喜びそうなネタである。ヤクザは当然『不祥事ネタ』から生じる金を狙うだろう。
助けを求めて誰かに会えば、その相手すらも標的にされる。母にも商店街の人たちにも会うことはできなかった。
大澤は、上官に連絡を入れ、絶望とともに制服一式を返却した。
理由は言えなかった。ただ『一身上の理由』を繰り返す大澤に、上官は根負けした形で退職を認めてくれた。
退職を認められた大澤は成田空港に向かい、イタリア行きの飛行機に空席を見つけた。
その飛行機の中で隣り合わせたのがB・Bだった。
胡散臭い……
まず最初に感じたのがそれだった。
胡散臭いというよりも焦臭いとすら言えそうなレベル。それは校舎の窓から匍匐前進訓練が見えるという、ある意味特殊な環境で過ごしてきた大澤だからこそ気付けたことかもしれない。
見た目が険しいというのではない。視線の鋭さとか邪悪さを言うならば、このところ大澤を追い回していたヤクザたちの方がずっと度合いが上だ。そうした意味でB・Bはまったく目立たない。だが、大澤には、その目立たなさが明らかに狙ったものとしか思えなかった。
それを一目で見抜いたのは、お前がそれに近い世界で過ごしてきたからだ、とあとになってB・Bに言われたが、とにかく大澤はそのときのB・Bから常に三百六十度、どこから攻撃を受けてもかわせるぐらいの身構えを感じ取った。彼はただ飛行機の客席に座っているだけだったのに……
B・Bは、隣に座った日本人の若者に、至って気軽に『休暇か?』と訊いた。
彼は『終わりのない休暇だ』という大澤の答えに、わずかに目を見張ったあと、あれこれ質問を始めた。
日本人には見えないのに、流暢な日本語を使っていたことが、大澤の警戒心を薄れさせたのかもしれない。あるいは、ヤクザとの諍いから解放された安堵が招いた油断だったのか……
とにかく大澤は、B・Bに、自分の経歴を洗いざらい話してしまった。
適当な相づちと追加質問を繰り返しながら、巧みに大澤から事情を聞き出したB・Bは、しばらく無言で思いを巡らせていた。そして彼は言った。
『仕事がある。人手はいくらでもほしい。お前、あそこにいたなら体力はあるだろう。俺と一緒に来ないか。場合によっては飛べる可能性もある』
彼の言う仕事が決して安全ではないことはおおよそ見当がついた。それでも頷いたのは、もう諦めるしかないと思った夢に繋がる手段が、そこにありそうな気がしたから。そして、自分が鍛え上げてきたものに自信があったからだ。
滅多なことで死んだりしない。そう、戦争にでも巻き込まれない限り生き残れる。そのための方法は十分に学んだはずだ、と。
だがB・Bの言った『仕事』が、荒っぽいどころか本当の軍隊だと知ったときには、さすがに参った。戦争にでも巻き込まれない限り、という大前提が初っぱなから崩されてしまった。
『なんてとこに連れてきやがる!』
国連軍に与する某国外人部隊。大澤はいきなりその新兵訓練に突っ込まれた。
四ヶ月間死にものぐるいで耐えきったのは、意地以外の何物でもない。その後、大澤は一年ほどそこにいたが、B・Bの指示に従って除隊。幸い、実戦に駆り出されることは一度もなかった。
『実地訓練終了だ』
唖然とする大澤にB・Bはにやりと笑ってそう言った。それから、東南アジアに行った。
中東と東南アジア、どっちがいい? と選択肢を与えられ、イスラムは食い物が合わない、と答えた。
B・Bは、まともな食い物があるだけましだぞ、と不可解な笑いを漏らしながら大澤を東南アジアに送り込んだ。彼が民間軍事会社のエージェントだと知らされたのはそのときだった。B・Bは集めた人材に教育を施し、世界各地の紛争地域に送り込んだり、要人警護にあたらせたりといった、いうなれば新しい形態の傭兵組織の一員だったのだ。大澤のような経験を持つ人間は、彼の会社にとって格好の人材と判断されたのだろう。
少数民族解放戦線の陸兵として、支給された小銃を受け取りながら、決定的に間違ってしまった自分の人生を悔いた。
それまでいた外人部隊は、それでも正規軍で、若干のニュアンスの違いこそあれ公務員の一種だった。だが、この場所では自分は傭兵、つまり戦争屋だ。
金と引き替えに命を張り、戦場から戦場へと渡り歩く。そしてその命と引き替えに得るはずの金も、世間で思われているほど高給なんかじゃなかった。
『馬鹿か、お前は。傭兵に高い金払えるぐらいなら、ちゃんとした軍隊抱えるだろう』
B・Bのその言葉の意味は、ジャングルを這い回るうちにどんどん身に染みてくる。
食料、装備、そして人員……全てが足りない状況で『正義は我にあり』という思いから、あるいは何らかの高揚感だけを求めて戦っている兵士たち。決して金のためじゃない、と実感させられた。そして大澤には、そこまでの正義感なんて備わっていないし、戦場で高揚感を求める性癖もない。
自分が武器を取らねば、もっと拙い誰かがその役割を担うしかなくなる。そしてその拙い誰かは、ときに子どもだったりもする。いくらなんでもそれはひどい……と必死で自分に言い聞かせた。
それでも、自分の国ですらない民のために、泥にまみれ銃弾の下をかいくぐり続ける生活には限度があった。だが、大澤はこの状況でどうやったら自分の人生を軌道修正できるか見当もつかなかった。いくらこれまで生きてきた環境と遠く隔たっているとしても、日本に戻ることができない以上、B・Bに言われるままに戦地を回るしかなかった。
* * *
「大澤……?」
外人部隊を除隊し、傭兵としてあちこちの戦場を巡って三年の年月が過ぎた。
東南アジアのとある国で、戦闘がインターバルを迎えしばらく動きがないと思われたある日、大澤は数人の傭兵とともに川向こうの国に遊びに出かけた。その先のバーで呑んでいた大澤に、声をかけた男がいた。
肌も髪も日焼けして、風貌はおよそ日本人から遠くなっていたはずなのに、仲間が口にした「オーサワ」という言葉に反応したらしかった。
日本を出てからほとんど聞くことがなかった正しいアクセントの自分の呼び名。大澤はかなりの懐かしさと、それから一抹の面倒くささとともに振り返った。
「原島……」
小学校を卒業するまで近所に住み、親友だった男。
原島財閥の跡取り息子、というよりも、すでに跡は取ったであろう原島俊紀。その男が、まるで幽霊でも見るかのような顔で大澤を見ていた。
「お前、何やってるんだ、こんなところで!?」
それはこっちの台詞だ、と言いたかったが、原島俊紀はいかにもエリートビジネスマンといったブランドスーツを着て、磨き上げられた靴を履いてそこにいた。
一方大澤はすっかり面変わりして、荒っぽそうな、見るからにコンバットマーチが似合いそうな一団に、違和感なく紛れ込んでいる。日本人としてどちらが異様かは比べるまでもない。
「久しぶりだな……」
それ以外に言葉が見つからなかった。
そんな大澤を、原島俊紀は自分がいたテーブルに連れて行き、小学校を卒業してから今までに大澤の身の上に起こった出来事を無理矢理のように聞き出した。本心を言えば日本人、さらにかつての親友である原島俊紀に事情を知られるのはいやだった。だが原島俊紀は、口を閉ざす大澤の心情など知ったことかとばかりに問い詰めた。
「傭兵なんだな?」
話の最後に原島俊紀はそう確認した。諦め半分で頷くと、それなら大丈夫だ、と彼は言った。
「大丈夫だ、傭兵なら辞めることができる。一緒に日本に帰ろう」
「だが…」
帰ってどうする。
日本を出てから五年が過ぎていた。ヤクザから白い粉を奪って捨てた挙げ句、見つかって殺されそうになって日本を逃げ出し、その後外人部隊を経て傭兵になった。そんな男が、日本でどうやって生きていけるのだ。第一、日本に戻ったら自分はまたヤクザに命を狙われる。
当然の不安を口にした大澤に、原島俊紀はあっさり言った。
「うちに来い」
「原島財閥にか? 今さら普通のサラリーマンなんてできねえよ」
「サラリーマンにも色々ある。お前の命を狙ってる奴らも、まあなんとかするさ」
B・B以上に胡散臭い笑顔で、原島俊紀は有無を言わせず大澤を日本に連れ帰った。
大澤は支給されていた小銃や備品を隊に返し、仲間に別れを告げた。これまでもいきなり隊を離れる傭兵はいくらでもいたから、仲間たちも何も訊かなかった。
もしかしたら、臆病風に吹かれて逃げ出すのだと思われたのかもしれない。だが、それもどうでもいい。これを逃したら自分が日本に戻る機会は永遠に訪れないだろう。残してきた家族もいる。チキンと呼ばれようがなんと呼ばれようが気にしている場合ではなかった。
傭兵部隊との折衝は、全て原島俊紀が手を回してくれた。しかも、原島財閥との関わりを隠したまま。おそらく、居場所を探され傭兵組織に連れ戻されたりしないように、という配慮からだったのだろう。大澤は自分でも驚くほどスムーズに傭兵を辞めることができた。
五年ぶりに帰国した大澤は、さらに驚かされることになった。
原島俊紀がどういう手を使ったのかはわからないが、大澤を狙っていたヤクザたちは次々と逮捕され、組は体をなさなくなっていた。
金を払ってくれる雇い主がいなくなってまで、大澤を狙い続ける人間はいなかった。
大澤の日本での生活はかなり静かに再開され、今までの逡巡も、地を這い回るような生活も、すべてが過去のものとなった。
帰国後、大澤は原島財閥の緊急対策班に入った。
それは今まで培ってきたノウハウを活かせ、尚かつまっとうな経歴を必要とされない都合のいい仕事だった。自分に欠けていた最先端の情報機器についての知識やその操作法を徹底的に学び、三年の間に緊急対策班班長という地位に上り詰めた。原島財閥のあらゆる困り事を解決する万屋の頭となったのだ。
あのとき、あの場所で原島俊紀に再会しなかったら、今も自分はどこかのジャングルで地に伏したまま小銃を構えていたかもしれない。あるいは軽量型の対戦車砲を背負って茂みに潜んでいたか……。いや、それ以前に銃弾に撃ち抜かれ負傷、あるいは命を失っていた可能性の方が大きいだろう。
さらに原島俊紀は、気になっていた母親と連絡を取れるようにしてくれた。ヤクザに追われ、連絡すら取れないままに日本をあとにし、外国人部隊を経て各地の戦場へ。その間、母親との連絡は一切取れなかった。五年ぶりに帰国してすぐに以前の住所に行ってみたが、古いアパートは取り壊され、マンションが建てられていた。大家を探し出して訊ねてみたが、母親はそこには住んでおらず、転居先として記された住所にもいなかった。
手段はあるに違いなかったが、緊急対策班員として身につけなければならないあれこれに追われ、探すことができずにいた。そんな大澤の代わりに、俊紀が母親の転居の痕跡を辿ってくれた。
五年の間に父親は病に倒れ、生活はさらに困窮。もうこれまでか……と思ったところで父親が亡くなり、医療費から解放された。独り身となった彼女は神奈川にある寮完備の工場で働いていた。
大澤はすぐに母親を迎えに行き、原島邸近くにあるマンションに住まわせた。そのマンションは原島財閥が所有しているもので、俊紀は家賃など不要だと言った。だが大澤は俊紀に大いに感謝しつつも、ささやかながら家賃を支払っている。他に示しがつかないから、というのが理由だった。
近いだけあってちょくちょく顔も見に行けたし、非番のときは泊まりにいった。
それから数年後、彼女は病に臥したが、その際も俊紀は直ちにしかるべき病院を世話してくれた。命の終わるその瞬間まで母は原島家に感謝し、その恩恵にあずかったまま静かに逝った。
原島俊紀に対する感謝は言葉では言い尽くせない。たとえ日頃どんなにひどい言葉の応酬があったとしても、大澤は原島俊紀と彼の属する原島家を守るためなら命を捨てる覚悟がある。
自分の人生のやりように困り果てていた大澤を救ってくれた原島俊紀。彼のために自分は一生緊急対策班としてこの身を捧げる。それが大澤の感謝の表し方だった。
それなのに……何故今ごろあいつから連絡が来るんだ……
詰め所にあるもうひとつのソファでは、部下のひとりがうつらうつらと船を漕いでいる。明け方も近いような深夜、特に気を配らねばならない状況もないとなったら緊張が緩むのは仕方がない。それでも邸内の異常を知らせるアラームが鳴り響いた瞬間、反射的に臨戦態勢に入れるだけのものは身につけている。それならば休めるときは休んだほうがいい。
大澤は気持ちよさそうに眠る部下に目をやり薄い笑いを漏らしたあと、思いを過去から現在に切り替える。
このメールを無視したところで、あの男はそう簡単に諦めたりしない。同じようなメールは何度でも送られてくるだろうし、いずれ目の前に現れるだろう。
B・Bにとって大澤は非常に有能かつ使い勝手のいい駒だった。大澤を見つけだした以上、B・Bはあの手この手で自分の許に手繰りよせようとするに違いない。
いつまでもB・Bという存在に煩わされていては、原島邸の警備に支障がでかねない。それならば、あるという話をさっさと聞いた方がいい。
そう判断して、大澤はB・Bのメールに返信を打ち、五年ぶりに会う約束をした。
再会したB・Bの容貌が、流れた歳月の長さを物語っていた。髪に白いものが交じるだけではなく、全体的に色が抜けたように見える。目尻や口元に細かい皺も見受けられた。大澤にしても、自分が昔とまったく同じではないことぐらいわかっている。だが二十代だった自分と、既に壮年期に入っていたB・Bでは歳月から受ける影響の大きさが違ったようだ。それでも、挑発することで相手の感情を引き出そうとするやり方は、昔と全然変わっていなかった。
「原島の犬は面白いか?」
B・Bはいきなり大澤を怒らせるようなことを言った。
数年前の自分なら確実に殴りかかっていただろう。けれど、そんな短気は緊急対策班に入ってすぐに捨てさせられた。常に冷静沈着であること、その上で、原島にとって最善の選択をし、迅速に動くこと。それが緊急対策班として求められる最初の一項目だった。
だから大澤はB・Bからどんな煽りを受けても、受け流すことぐらい簡単にできた。
傭兵部隊から煙のように消え失せた大澤を、B・Bはずっと探していたらしい。
当然だろう。民間軍事会社という組織からすれば、大澤の素養と経験は手放しがたい。どんな戦地にでも自信を持って送り込める駒だ。その駒に自分が目を離している隙に逃げられたとあっては、沽券にも関わる。彼はヤクザたちに劣らぬ執念深さで大澤を捜したに決まっている。我ながらよくぞ五年もこの男から隠れきったものだと思う。
それはもちろん原島財閥の負うところが少なくなかった。大澤が傭兵となった経緯を聞いた俊紀は、大澤が再びB・Bの組織に絡め取られないように細心の注意を払って、脱退の手続きをしてくれていたに違いない。
それでもB・Bは諦めず、とうとう大澤を捜し出した。
「ああ、楽しい。何よりここは食い物が旨い」
大澤は、中東か東南アジアかと聞かれたときと同じようなニュアンスで答えた。
「またそれか。お前は本当に飯さえ旨ければいいのか?」
「ま、そう思ってくれていい」
「誰がそんなこと信じるか。お前の望みはそんなことじゃなかったはずだ」
「俺の望みはジャングルを這い回ることでもなかった」
「それはただの通過点だ」
「その通過点は本当に通過できるものだったのか?」
「大澤……」
「あの頃、俺はいつか飛べると信じてた。だが、それはあんたにそう思わされていただけで、実際はあんたの会社に都合よく利用されただけ。あのままあそこにいても、ずっと同じだった。軍から軍へ、戦場から戦場へ、ただ流されて走り回るだけ。俺が飛べる日なんて来なかった」
大澤は日本を出ると決めた時、まだ飛びたいという志を捨ててはいなかった。
民間機の操縦訓練は受けていない。受けたのは輸送機、しかも軍用機だ。飛行機に乗りたいならば戦場に行くしかないと言われ、そんなものかとB・Bについていった。
けれど、傭兵になってわかったのは、一機が目の玉が飛び出るほどの値段である飛行機を傭兵なんかに任せる軍隊はないということだった。
傭兵というのは主に使い捨ての陸兵だ。走り続けてこその世界、飛ぶことを求められることはない。本人がそれを求めても、許されることもない。
そうしている間にパイロットとしての腕は劣化し、飛行時間ノルマをこなせなくなり、事実上飛ぶこともできなくなる。傭兵でいる限り、自分が飛ぶことなど不可能だった。
「見事に騙されたよ。俺が馬鹿だった。甘ちゃんだったんだよ、あの頃の俺は。知識と体力はあったが社会経験皆無の大馬鹿野郎。だが、今の俺はもう違う」
冷静に話す大澤にB・Bはしつこく食い下がった。
「正規軍、しかも空軍に入る仕事がある。お前の腕ならしばらく訓練すれば……」
「もう騙されねえって言ってるだろ。軍用機で飛ばなくなってどれぐらい経ってるか、俺が一番知ってる。あの頃俺が飛ばしてた機種で、今も現役で飛んでる奴がどれだけあるかも疑問だ。もう俺は戦闘機乗りにはなれない。そんなものを餌に声をかけてくるのは胡散臭すぎる。B・B、あんたの本当の狙いはなんだ?」
わずかに細めた目で、大澤はB・Bをじっと見た。
B・Bはふーっと大きく息を吐いて、大澤の顔を見返した。なぜか、あの外人部隊で新兵訓練を終えたときのように、よくやった、と言わんばかりの表情が浮かんでいる。
「大人になったな、大澤」
「ふざけんな!」
「もうお前を戦地に送ることはしない。お前はそのレベルを越えた。俺は今から会社を興す。お前一緒にやらないか?」
「はあ?」
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