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2巻
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しおりを挟む第一章 何気ない日々
深夜の厨房、谷本佳乃は積み上げられた発泡スチロールの保冷箱を横目でちらりと見て、途方に暮れていた。中には魚介類が満載。
カツオ、アジ、イワシ、スズキ、マグロにアワビ……
どれも新鮮で、うっとりするほど澄んだきれいな目をしている。いや、アワビに目はないし、マグロもとっくに頭部とおさらばしているのだが。実際、見るからに美味しそうな魚介類である。買ったときの値段を考えればコストパフォーマンスも花丸だ。
だからって雁首揃えて、しかもこんなに団体様でお越しいただいても困っちゃうよねえ……と佳乃はため息をつく。
なにせ、屋敷自体は大きいものの、実際にここに住んでいる人間は、主である原島財閥総裁、原島俊紀と使用人頭の宮野基、そして夜食係改め原島俊紀私設秘書の谷本佳乃……もとい原島佳乃の三人だけ。そこにきて、この即日にでも寿司屋を開店できそうな量の魚介類。まったく多いにもほどがある。
佳乃は、厨房の隅に積まれた発泡スチロールの箱にまたも目をやった。
彼女は先般、雇用契約解除届の下に婚姻届を貼り付けてサインさせるという複写詐欺に遭い、『両性の合意』なく俊紀と結婚させられたばかり。
とはいっても、その後、佳乃の誘拐未遂事件を経て、遅ればせながらも『両性の合意』に辿り着いたのだから、それはまあよしとしよう。問題はそのあとである。
誘拐未遂事件のあと、つかの間の自由を求めて一人遊園地で楽しんでいた佳乃は、スタイリスト門前望のタレコミと原島家の諜報担当である緊急対策班の人海戦術であっけなく俊紀に捕獲された。翌日二人は、佳乃の希望により房総半島へとドライブに出かけた。お土産として魚を買って帰りましょう、と佳乃が提案したところまでは良かったが、その買い方がどうにもいただけない。
鮮度と価格を真剣に吟味するあまり、自分を放って魚屋と熱心にやりとりする佳乃を許せなくなった俊紀は、佳乃が目移りしていたすべての魚を購入してしまったのだ。確かにそれによって買い物は即座に終了し、佳乃の意識はちゃんと俺様俊紀に戻ったけれど……この大量の魚をどうする気だ、と佳乃は原島邸に着く前から悩みっぱなしだった。
おまけに俊紀は、二人きりで過ごした二日間の余韻のままに、佳乃を甘ったるくかまい続けている。佳乃とてそれが嬉しくないわけではないが、宮野の「はいはい、もうご存分に……」といわんばかりの弓形の目はさすがに直視できず、ちょっと夜食係に復帰してきます、と厨房に逃げ込んできたのだった。
臆面というものが全くないのだな、あの男は……と思いながら、佳乃は鰹の刺身を温かいご飯の上に並べた。本来なら、軽く醤油に浸して「づけ」にするべきなのだろうが、面倒くさいので上から醤油をかけ回す。やかんがしゅんしゅんいうほど沸かしたお湯で焙じ茶を入れ、刺身の上からたっぷり注いだ。熱い焙じ茶を浴びて鰹は瞬時に色を変えるが、中はしっかりレアのままだ。その鰹の食感がいい。ご飯と一緒に掻き込めば、予想以上に強い魚の出汁に、確かに鰹というのは鰹節になる身なのだと認識させられる。
熱いうちに食べてもらわねば……とお盆に載せたところで、宮野が厨房に入ってきた。
「佳乃様、俊紀様がお待ちかねですよ」
「えーっと……」
佳乃が口籠もったのも無理はない。その待ちかねた主が宮野のあとから付いてきていたからだ。そしてさらにその後ろから、やれやれ……といった顔の山本巧。原島邸厨房付料理長である。
佳乃の誘拐騒ぎで心配をかけたお詫びも兼ねて宮野と山本を加えた四人で食事をし、さっきまで居間でお茶を飲んでいた。せっかく逃げ出してきたのに、何のことはない、場所こそ厨房に移ったもののほんの十分ほどで、結局また同じ状態に戻ってしまった。
「今、持っていこうと思ってたんですが……」
と言った佳乃を、俊紀は、
「ここでいい。出来たての方が美味いんだろう?」
と押しとどめ、厨房の小テーブルでお茶漬けを食べ始めた。
宮野と山本は、さっきあれほど食べたばかりなのに佳乃が作る物は別腹なのか、とでも言いたそうな顔で笑いを堪えている。
大ぶりの茶碗に軽く盛られた茶漬けを瞬く間に食べ終わり、俊紀は満足げに息を漏らした。
「美味かった。なんて料理だ?」
「まご茶っていうんですよ。まあ、もともとは漁師の賄い食ですけど」
「そうか。生の鰹の茶漬けなんて……と思ったが、呑んだあとにはぴったりだ」
俊紀は大いに気に入ったらしいが、佳乃にしてみれば、原島財閥総裁という超セレブ男が、お上品な鯛茶ならともかく鰹のお茶漬けでこんなに喜んでいいのだろうか、と心配になる。これならまだ、なんちゃってリゾットの方が幾分ましなのではないか。
リゾットとは名ばかりのケチャップ味の野菜雑炊は、佳乃が初めて俊紀のために作った夜食だ。そのなんちゃってリゾットをいたく気に入った俊紀が、佳乃を夜食係として雇い入れたことからすべてが始まったわけだが……あれと残り物の刺身のお茶漬けではどっちが上なのだろう。
うーん、やっぱりイタリアのマンマがこんなのリゾットじゃない! と暴れてもあっちの方が……いや、でも残り物とはいってもこの鰹は今朝獲れたばっかり……まあ、どっちにしてもセレブとはほど遠いな……と佳乃はまたため息をついた。
* * *
「で、どうするんだ、これ?」
そう問いかける俊紀に、茶漬け茶碗を最後に厨房の片付けを終えた山本は、少し責めるような調子で答えた。
「ちょっと……買いすぎじゃありませんか?」
佳乃は佳乃で俊紀を恨めしげに見る。
「だからもうちょっと考えて買えばよかったんですよ。何でもいいから全部買ってしまえ、なんて言うから……」
二人が買って帰った魚介類を、四人で食べられるだけ食べた。それでも発泡スチロールの箱に詰められた魚介類はまだ大量に残っている。
「まあ、冷凍できるものはするにしても、鰹はなあ……」
せっかく活きのいいのを買ってきたのにもったいない、と山本は眉を寄せる。
「宮野さん、このままいったら私たち一週間ぐらい鰹の煮付けばっかりですよ」
なんて悩ましげな顔をした佳乃は、
「あーもう、誰かがーっと食べちゃってくれないかなあ……」
と、呟いてから気がついた。
いるじゃないか、ものすごく食べそうな体育会系、というよりも過激派武闘集団が……
「緊急対策班の人たちに食べてもらいましょう!」
ある意味、今回の騒動で一番被害を受けたのは彼らである。
行方のわからない佳乃を捜すために奔走させられ、徹夜で待機し、挙げ句の果てに何でもありませんでした、佳乃はネズミ王国でご満悦です、ときたもんだ。
俊紀が到着するまでの間、緊急対策班のメンバーも少しは遊園地の雰囲気を味わったものの、それだってはしゃぎ回る佳乃を目の端に捉えながらのことだから、心から楽しめるわけがない。
しかも俊紀の到着と同時に全員が強制的に撤退させられたと聞いた。彼らは、いや面白かった、などと口々に言いながら戻ってきたらしいけれど、そんなもの当社比で、日頃遊びっ気が全くない生活をしている彼らが、ほんの一時見たスライドショーのようなものだろう。
「もうちょっと遊びたかった! いっそ誰かにボスの車に細工させて、エンジンが掛からないようにしとくんだった!」
なんてとんでもない愚痴を漏らした人間までいたらしい。
もちろん、彼らが俊紀の不利益になるようなことをするはずがないのだが、その心中を思えばぼやきたくなるのも無理はない。
誘拐自体は佳乃の意志ではなかったが、翌朝以降の待機は明らかに佳乃のせいである。佳乃が真っ直ぐ原島邸に戻れば、あんなことにはならなかったのだ。
そもそも彼らは日頃表に出ることもなく、ただひたすら俊紀と原島財閥のために暗い部分を引き受けてくれている。そんな彼らをたまには労うべきだろう、と佳乃は主張した。それで魚介類も片付くなら一石二鳥だと……
「いや……でも……あいつらは……」
佳乃の話を聞いて山本が口籠もる。山本のためらいを見て取った宮野が、苦笑しながら言った。
「佳乃様、緊急対策班の面々は、おおよそ山本の料理と相容れません」
万能グルメシェフ山本の料理が口に合わない人間がいるなんて思えない。佳乃のなんちゃって料理をこよなく気に入っている俊紀にしたって、山本の腕はちゃんと認めている。佳乃は怪訝な顔で宮野に聞き返した。
「何でですか? 美味しいし、レパートリーだってすごく豊富じゃないですか」
佳乃の問いに宮野はやれやれ、と言わんばかりに答える。
「彼らの基準は、そういうところにないのです」
そういうところというのは、どういうところだ? 料理に求めるものに味以外があるなんて思えない。コストパフォーマンスが問題になることもあるが、原島邸で提供される料理に支払いが要求されることなどないのだから、美味上等ではないか……と佳乃は思う。
その佳乃の考えを読んだように山本が言った。
「あいつら、とにかく食うんだよ。半端なく!」
佳乃に対する敬語が、思わず入籍以前のタメ口に戻るぐらい嫌そうだった。
山本が作り上げる優美な料理の数々を、鑑賞はおろか味わうことすらなく呑み下すフードファイター軍団。彼らは原島邸厨房の巨大冷蔵庫を空にする勢いで食べまくった挙げ句、
「こじゃれてなくていいから、もっと腹に溜まるものを食わせろ!!」
なんて、騒ぎ出すらしい。
「奴らには、これまで積み上げてきた上流スキルが全然通用しないんだよ。もうな……B級グルメどころかCとかDラインまでいっちまってる」
女の胸ならともかく、食の嗜好でCとかDとか勘弁してくれ、と山本はぼやく。
それを聞いて、むしろ佳乃は嬉しくなった。
「うってつけだ……」
その表情を見た宮野と山本は、佳乃のなんちゃって料理を思い出す。
佳乃の料理は、確かにあの連中の嗜好に合いそうだ。内容もそうだが、その提供スピードはきっと彼らを満足させることだろう。山本と宮野はお互いの顔を見て小さく頷き合った。
「それでは、佳乃様がお作りになられるのがよろしいでしょう」
佳乃が献立を作り、山本がフォローすればまず間違いないだろう。そう思って宮野が助言するが、その頃には佳乃は全然違う方向に思考を飛ばしていた。
「というよりも、庭でばーんと火を熾こして、なんでもかんでも焼いちゃったらどうでしょう?」
「ここでバーベキューをする気か!」
大量に買い込ませたのは自分だという自責の念から、それまで辛うじて黙って三人のやり取りを聞いていた俊紀も思わずぎょっとして口を挟む。
優美なバラが生い茂る香り高きあのガーデンで、火を熾こしてバーベキュー……
そこに群がる緊急対策班の猛者ども。当然素面で満足できるはずもなく、アルコールがふんだんに入っての乱痴気騒ぎ……地獄絵図が思い浮かび、俊紀は目眩がしそうだった。
「いいじゃないですか。これだけ広ければ、ご近所からも文句は出ないでしょ?」
庭先バーベキューは庶民の憧れではあるが、いかんせん日本の狭い敷地では少々難しい。ちょっと火を熾こせば煙が流れ、会話を楽しめば声が漏れ、周辺からたちまち文句が飛んでくる。
その点、原島邸なら問題ない。庭の真ん中で火を熾こしても、匂いも煙も敷地の外に出る前に拡散して消えるだろうし、声だって外に届きはしない。
「ねーいい考えだと思いません? 網に載っけてばーっと焼いちゃって、鰹だってあぶって叩きにして! お肉とかも……うわー楽しそう!!」
困惑する三人の男を尻目に、佳乃は一人で盛り上がっている。そればかりか、窓まで走っていって夜の闇に目を凝らし、どのあたりがいいかなんて場所の検討まで始めた。
「……俊紀様……」
宮野が気の毒そうに俊紀を見た。
「あれは多分……」
止められないですよ、と山本も言外に言う。そもそもどう考えても、俊紀があんなに楽しそうにしている佳乃を止められるはずがないのだ。他の人間が言い出したら問答無用で切り捨てられる案でも、相手が目に入れても痛くない佳乃とあっては抵抗力ゼロだ。
「庭師に連絡してくれ……」
案の定、俊紀は呻きながらも宮野に指示を出す。
「せめて、あの連中が暴れても一番被害の少なそうな場所を選ばせろ」
かくして原島財閥緊急対策班慰労バーベキュー大会の開催が決定した。
* * *
「材料、どれぐらいいると思います?」
翌朝、佳乃は厨房の小さなテーブルにノートを広げていた。向かいには依然として浮かない顔の山本。そして脇には、人数を考えて急遽呼び出された原島邸のもう一人の料理人松木が立っている。
松木はまだ若いし、山本と違って上流家庭の食事ばかりを作ってきたわけではないので、少し楽しげである。
「とんでもないこと思いつきますね、佳乃様」
日頃厳しく自分に指示する山本が弱り切っている姿を見るのが楽しいと言わんばかりの松木。
当然山本は面白くない。
「ほんとに、前代未聞だよ。原島邸でバーベキューなんて」
「でも、欧米じゃ普通じゃないですか。どうかすると朝から一日かけて子牛の丸焼きとか」
松木はどこかの旅行クイズ番組で見た映像を思い浮かべる。巨大な串を通されてぐるぐる回される哀れな子牛……。佳乃の目がきらりと光る。
「それ……美味しそう!」
余計なこと言うな、と山本は慌てて松木をたしなめ、佳乃を止めに入った。
「勘弁してくれ!! バーベキューってだけでも相当なのに、この上牛の丸焼きとか言い出したら、いくら俊紀様でもリミッター振り切れるぞ」
「ああ、やっぱりそうですか……でも、子豚ぐらいなら?」
「だめだって!!」
山本はもうすっかり敬語を諦めている。佳乃が原島邸に夜食係として入ってきた頃と同じ口調で交わされる会話。そのやりとりがさらに佳乃を嬉しくさせる。
宮野は元からだから仕方ないにしても、俊紀と入籍してからは山本にまで佳乃様なんてかしこまって呼ばれるようになってしまい、不本意だったのだ。
「うーんしょうがない、肉系は諦めましょう……じゃマグロの頭は?」
あの巨大な魚の頭に群がる緊急対策班の猛者たち……最後は誰かにかぶらせようと追いかけっこが始まって……だめだ! 似合いすぎる!
自分の想像に爆笑しながらも、山本は佳乃をたしなめる。
「しゃれにならない!」
「つまんないの」
口をとがらせて膨れる佳乃は、子どものようにあどけない。
ああこんな顔、俊紀様が見たらまた大変だ……なんて山本は苦笑いをする。もういい、牛でも馬でも丸ごと食え、とばかりに目尻を下げることだろう。
俊紀は、幼い頃から過剰な期待をかけられ、そしてその期待に応え続けてきた。
あまりにも有能であることは、かえって不幸なのかもしれないと山本が思うほどに、俊紀はあらゆることをそつなくこなした。きっと、疲れたことも投げやりになったこともあっただろうに、それを表に出すことすらせずに走り続けた。
主の性格と能力を考えれば、おそらくそのまま走り続けることは不可能ではなかっただろう。
けれど主は成長とともに、人としての幸福とはどんどん離れたところに行ってしまった。行動にも、言葉にも、そして笑顔にすらシニカルなものをふんだんに含み、やがて彼本来の姿はほとんど見えなくなってしまった。
そんな俊紀の日常を根底からひっくり返した佳乃。本人にしてみれば、そんな気など毛頭なかっただろう。それどころか、できれば関わりたくないという佳乃の思いは雇用一日目からあまりにも明白で――
彼女は主との接触を避けるためにあの手この手を使っていた。主に近付くために手管を使う女は腐るほど見てきたが、その逆など見たことがなかった山本は興味を引かれた。ついついどうなることかと見守っていたら、そのまま五年も観察し続ける羽目になったわけだ。
その間も、時間はかかっているが、当然主の望むところに堕ちるはずだと思っていた。けれど、性格を丸ごと裏返されたような今の俊紀を見ると、もしかしたら負けたのは主の方だったのかもしれないと思う。
いや……ちがうな、とさらに山本は考える。
主はそうやって裏返されてしまいたかったのかもしれない。原島財閥総裁としての責務に人間らしさを奪われそうになっていた俊紀に、佳乃は孤軍奮闘以外の戦い方を教えた。佳乃自身も主の求めるままに自らを磨き上げ、見事なパートナーとなった。
その愛すべきパートナーが少々常道を逸していても、主は気にもとめないはずだ。庭先バーベキューの一つや二つなんだというのだろう。緊急対策班が大暴れをしたところで、それで佳乃が喜ぶのならば、主もまた満足に違いなかった。
「牛一頭は無理にしても、ちょっと大きめのローストビーフでも焼いてみようか?」
とにかく大きなものを焼きたくてしかたない、といった顔をしている佳乃に、山本は温い笑顔を向けた。
松木は、このイベントの目的は緊急対策班の慰労をかねた魚介類の始末だったのでは? と突っ込みそうになる。
第一、ローストビーフでは野性味に欠けるだろう。パーティーで食べ飽きている佳乃が、それで満足するわけがない。それにしても、二人して本来の目的を忘れすぎである。
しかも、山本が原島邸の料理長として最大限の譲歩をしているというのに、佳乃はさらにとんでもないことを言った。
「それならケバブがいい」
それはまたずいぶんと庶民的なものを……と山本が返す間もなく、後ろに来た人物が口を開いた。
「ケバブが食べたいのか?」
いきなり声をかけられた佳乃が飛び上がる。
「うわ……いつの間に!」
ついさっきまで、庭師と話してたはず……なんてもう誰も言わない。佳乃がいるところを敏感にかぎつけてやってくる主にも、もう慣れた。
「庭の方は大丈夫そうだ。でかい炉も手配済み。連中にも招集をかけた」
「皆さん、来られそうですか?」
「あいつらの都合なんて知るか。呼んだんだから来るだろう」
と、至って無頓着かつ本来の目的を見失った発言をする主。佳乃の「ケバブ食べたい」という欲求だけに対応している。
「美味しいんですよ、ケバブ。昔よく食べました」
恐らく学生時代か、あるいはもっと前に海外にいたときに食べたのだろう。俊紀は、懐かしむような表情をする佳乃を面白くなさそうに見たあと、おもむろに言った。
「山本」
「なんでしょう?」
「作れ」
「なにをですか?」
「ケバブだ」
無理です! とその場にいた全員が思った。佳乃本人すらそう思った。
どう考えてもあの巨大なスズメ蜂の巣のような肉のかたまりを、一般個人宅の厨房で焼き上げるのは不可能だ。たとえ原島邸といえど、同様である。専用のヒーターだって必要なのだ。
「俊紀様、それはちょっと無理な注文ではないかと……。設備もありませんし」
後ろから付いてきていた宮野がいつもながらに冷静な指摘をする。佳乃はほっとすると同時に、ケバブというものを知っている宮野に驚く。宮野の年代でケバブを知っている者が何人いるだろう。
「一般の台所でできるのは、せいぜいフライパンで炒めてそれらしい味つけにしたものぐらいです。でも佳乃様が召し上がりたいのはそういうものではないでしょう?」
ヒーターの前でぐるぐる回りながら焼かれていく巨大な肉の固まり。その焦げた表面を削り取って野菜とともに袋状のパンに詰め込み、特製ソースとともにかぶりつく。甘みと辛みは白と茶色のソースの配分で加減する。佳乃が好きなのは茶色たっぷりで白少なめ、舌に浸みるぐらいスパイシーなら言うことなし。
それが佳乃の食べたがっているドナーケバブである。そんなものを家で作れるはずがない。
「じゃあ店ごと買い上げろ!」
「……病気だ」
そんな佳乃の一言に、山本はぷっと吹き出す。
確かに病気かもしれない。そこまでして佳乃の欲求を満たそうとするなんて……
まあ主にしてみれば、現在が佳乃の過去の思い出に劣るなんて、それがどんなに些細なことでも許せないのだろう。
気持ちはわからないでもないが、いささか度が過ぎる。
「買う必要はないでしょう。移動販売車を一日借り切りましょう」
宮野が苦笑いしながらそう言うと、
「まあ、ケバブなら彼らも好きそうだし、一台借りれば相当腹も満たされるでしょう」
と松木も賛同した。かくして、原島財閥資産にケバブ屋が算入されることは未然に防がれた。
「じゃあ、後は頼む」
俊紀は満足げに頷き、佳乃を連れて書斎に戻っていった。恐らく、急に決まったガーデンパーティーの時間を空けるために、仕事を繰り上げて済ませるつもりなのだろう。
主夫婦の背中を見送った山本は、振り返って松木に訊いた。
「ケバブ屋の知り合い、いるか?」
「いるわけないじゃないですか」
「だよな……どこから連れてくるんだよ、ケバブ屋なんて」
「ケバブ・ドット・コム?」
「あるか!」
「調べてみなきゃわかんないじゃないですか」
そして山本と松木は顔を寄せ合って、パソコンで検索を始めた。
* * *
緊急対策班慰労パーティーはその日の夕方から開催された。
一式揃えてレンタルさせてくれ、と言われたケバブ屋はさすがに今日の今日では無理だと難色を示したが、そこは原島財閥の威光でもって無理矢理手配を急がせ、何とか午後までに資材と食材一式を届けてもらった。
庭師が丹精している芝生の上に、あの街で見かける移動販売車が乗り入れることになるのかと山本は心配したが、聞けばちゃんとイベント用のレンタル機器があるらしい。
「助かった……とりあえず庭師に恨まれずに済む……」
と大きく息を吐いた山本に、松木が笑いながら言葉を返す。
「そういえば、最近は縁日の屋台とかでも見かけますね」
「なら、もっと早く佳乃様に教えておいてほしかったよ。そうすればこんな騒ぎにならなかったのに。ケバブでもトルコアイスでも、さっさと行って食べてくれば……」
話していた山本は、宮野のいかにも何か言いたそうな視線に出会って言葉を切った。
「無理だよな……」
「ですね……」
どこにケバブ屋があろうとも、佳乃が一人で行けるはずがない。
原島邸に来てからの五年間で、佳乃が仕事以外で一人で外出したことなど数えるほどしかないし、その数少ない外出も本当に短時間のことだった。とにかく俊紀は佳乃を一人で出かけさせたくないのだ。
佳乃がケバブ屋に行くと言えば、必ず自分が一緒に行くと言うだろう。だが、佳乃のことだから、そんなことに忙しい俊紀の時間を割くぐらいなら……と、我慢してしまうに違いない。
結局、その我慢が限界に達して、突発的に脱走し、先般の誘拐騒ぎへと発展したわけだ。最終的に二人は納まるべきところに納まったから、それはそれでよかった。だが、山本から見れば、今なお、佳乃は俊紀に遠慮しているように見える。
今回のパーティーにしても、「俊紀が買いすぎた海産物」の処理でなければ、また緊急対策班の慰労という名目がなければ、佳乃がこんなふうに自分の欲求を紛れ込ませることはなかったのではないか。それがたとえケバブという原島財閥からすれば非常にささやかな欲求にしても……
「もうちょっとわがままでもいいんだと思いますがねえ……佳乃様は」
松木はそんな言葉とともにため息をついた。
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