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2巻
2-3
しおりを挟む第二章 専務室の人々
四月がやってきた。
茅乃は久しぶりにビジネススーツに身を包み、出勤用のトートバッグを肩にかける。
長い休暇はとうとう終わりを告げ、今日から茅乃はSIC本社専務室勤務となる。職務内容はあらかた把握しているし、日本にいるときに既に実践済み。瀬田とともに働くことにも慣れすぎるほど慣れている。それでも、SICという巨大企業、しかも本社への初出勤となれば緊張せずにはいられなかった。
瀬田と同じ車に乗って出かけたところまでは昨日と同じだが、向かう先は語学学校ではない。
マンハッタン一のビジネス街であるミッドタウン。そのど真ん中に本社ビルはある。威圧感たっぷりの高層ビルに車が横付けされると、茅乃は、やっぱりやめた、と言ってしまいたくなった。
もし隣に座っていた瀬田が、にやにやと笑いながら「怖じ気づいたのか?」なんて言わなければ、逃げ帰っていたかもしれない。
無理なら無理で仕方がない、なんて言いながらも、瀬田の見下したような表情は明らかに茅乃の負けん気を煽っていた。それがわかっていても、茅乃はいつだって、そんな瀬田の挑発をやりすごすことができないのだ。
「たとえ大和ぺんぺん草だとしても、私にだって意地があります。こんなところで逃げ帰るわけにはいきません!」
「その意気だ。では奥様お手をどうぞ」
瀬田は豪快に笑うと、芝居めいた仕草で茅乃の手を取り、彼女が車から降りるのを助けた。
正面玄関から入ってエレベーターに乗るまでの間、茅乃は周囲の視線を痛いほどに感じた。
「あれがジュニアのワイフか……なんか見かけは普通だな」
「でも、意外と気が強そうな顔してるわよ」
「あの創業記念パーティの立役者なんだろう? 結構やり手らしいじゃないか」
そんな囁きが耳に忍び込んでくる。日本語ならともかく、英語で交わされるものの意味も理解していることに気づいて、茅乃は喜ぶべきなのか嘆くべきなのかわからなくなる。
日常会話が聞き取れるレベルに辿り着けたことは嬉しい。でも、噂話の内容がおぼろげながらでもわかってしまうのは、ある意味悲劇だ。
ひそひそと囁かれる声に茅乃は、英語の勉強をもっとおざなりにしておけばよかったと思ってしまった。
日本であれば、四月一日は年度はじめ。新入社員の受け入れやら、年度はじめの社員集会やらあれこれ忙しい日であるが、ここはニューヨーク。会計年度は十月始まりの九月締めになっている。だから、四月一日の今日も、昨日と何ら変わりなく始まる。
噂好きな社員たちはそれぞれの部署で業務を開始し、茅乃も瀬田に連れられて専務室に向かった。
「おはようございます」
「おはよう」
瀬田と貝谷の間で交わされた挨拶を聞いて、茅乃はやっと緊張の糸を解いた。
瀬田はこれまですれ違った社員たちのほとんどと英語で話していたが、専務室の中のやりとりはどうやら日本語らしい。もしかしたらそれは単なる新入りへの配慮かもしれないが、この場所に馴染むまでの間だけでも、頭の中で英語と日本語の置き換えをやらずにすむのはありがたかった。
瀬田をはじめとする本社社員たちは、いちいち英語を日本語に訳す必要などなく、英語は英語のまま理解しているのだろうけれど、とてもじゃないけれど茅乃はそんなレベルに達していない。だから、当面日本語で仕事ができるのは大助かりだった。
専務室には机が三つあった。
一つは瀬田が使う両袖が付いた大きな机。摩天楼を見下ろせる大きな窓を背にして置かれ、椅子も重役用のハイバックタイプのものだ。あとの二つは壁際に並べられた片袖付きの事務机で、一つは貝谷の席らしく、パソコンは既に起動され、何枚かの書類が机上に置かれている。
朝の挨拶をすませたあと、メールをざっと確認した貝谷は、連絡事項があるからと総務課に出かけていった。
茅乃の席は貝谷の隣で、机の上にはパソコンだけが置かれている。茅乃は早速その席に座って引き出しを開けてみた。
正面の引き出しにはメモ用紙や封筒、便せんといった紙の類。右袖の一番上には電卓やボールペンなどの筆記用具。一番下の引き出しは、通勤用の鞄をしまえるように空っぽになっていた。
茅乃は机の引き出しを開けたり閉めたりして中を確認し、最後に一番下の引き出しに鞄をしまった。その様子をじっと見守っていた瀬田が訊ねる。
「それで支障ないか?」
「まったくありません。というか……よく覚えてましたね」
引き出しの中にある事務用品の配置は、株式会社安海で茅乃が働いていた頃の事務机とそっくり同じになっていた。ボールペンまで茅乃が使っていたのと同じ銘柄である。
そのことで茅乃は、この机が用意されたのは昨日今日のことではないと気づかされる。
株式会社安海時代にお気に入りだったボールペンは、茅乃が安海を辞めてしばらくした頃にモデルチェンジされた。それまでの物よりもわずかに軸が細くなり、デザインとしてはとてもおしゃれになったけれど、茅乃は今ひとつ馴染めなくてとても残念に思っていた。
だが、今、引き出しの中にあるボールペンはモデルチェンジ前のタイプである。SIC、しかもアメリカにある本社が日本製の古いボールペンを大量に抱えているはずがない。おそらく瀬田が入社する前に揃えさせたものだろう。
瀬田自身は、ボールペンにこだわりなど持っていなかったはずだから、茅乃のためにわざわざその銘柄を指定したに決まっている。
パソコンにしても、あの当時の最新機種、しかも茅乃が使い慣れたメーカーのものだった。試しに立ち上げてみると、設定までも茅乃が使っていたものと同じように整えられている。そして、空っぽのデータファイルは、今までこのパソコンを使った人間が誰もいないことを示していた。
その机にあるすべてのものが、誰に使われることもなく、ただじっと茅乃が来る日を待っていたのである。
SICなんてとんでもない、と逃亡し、将来この机を使うかどうか定かではなかった自分のために、瀬田はここまで気を遣って準備してくれていたのかと思うと、茅乃は申し訳なさに言葉を失う。
彼はこの部屋で、誰も座っていないこの机を見ながら、いったい何を思っていたのだろう。
もういい、好きにしろ、過去のことなど切り捨てだ、と思った瞬間はなかったのだろうか……
瀬田はタイムラグのことなどおくびにも出さず、一年半遅れでようやく机の主となった茅乃にちょっと自慢げに言う。
「お前の机の中ぐらい覚えているさ。何年も見てたんだから」
「そういえば、しょっちゅう人の机からボールペンやら電卓やら持っていきましたよね」
「お前はいつも『なんで自分のを使わないんですかー』って怒ってたな」
「そりゃそうでしょ。同じものが自分の机にもあるのになんでわざわざ……」
と、言いかけて茅乃は言葉を切った。瀬田の目が茶目っけたっぷりに輝いている。
「そう、わざわざだったんだ。俺って結構かわいいだろう?」
瀬田は、茅乃から借りる必要もないはずの文房具を、頻繁に持っていった。
席を外して戻ったときなど三回に一回は、何かが机から消えていた。ボールペンだったり、使い慣れた電卓だったり、なくなるものは日によって違ったけれど、それらはたいてい瀬田の机に移動していた。そのたびに茅乃は瀬田のところに行って「私もそれ使うんです。早く返してください!」と手を突き出さねばならなかった。
それがすべて、茅乃にちょっかいをかけるために瀬田が仕組んでいたのだとしたら、確かに「かわいい」と言っていいのかもしれない。しかもそれは、小学生男子に匹敵するかわいさで、頭を小脇に抱え込んでぐりぐり撫でてやりたくなるほどだ。
でも、それを自己申告する男というのはやっぱりかわいくなんかない。むしろ小癪だ。
そう思った茅乃は、言い返さずにいられなかった。
「自分で言わないでください!」
「誰も言ってくれないから自分で言うしかないじゃないか」
「誰も言わないのは、誰もそう思ってないからです。聡司さんが『かわいい』とかありえません」
「あいかわらず失礼な奴だな」
「お互い様です」
そして二人は顔を見合わせて同時に吹き出した。
瀬田は茅乃をからかい、茅乃は上司を上司とも思わない口調で反撃する。このやりとりこそが、瀬田と瀬田係の日常だ。二人は、ようやく取り戻した日常が嬉しくてならなかった。
「ああ、懐かしいな、この感じ。安海の営業部に戻ったみたいだ」
「確かに。でも本当に戻っちゃったら困りますけど」
「困るのか? あれはあれで楽しかったと思うぞ」
「楽しいですけど、それとこれとは別問題です。聡司さんのお父さんも困るし、うちの父だって困ります」
「お前のお父さんは別に困らないだろう。かわいい娘を海の向こうにやらずにすむし」
「あーそういう感覚はないですね、うちのお父さんには。困るというよりも、現状渡しの返品なしだって言ったじゃないか! 約束が違う! って怒ると思います」
「返さない。だからお父さんの心配は無用だ」
「太平洋越えて来ちゃったし、返品するのも大変ですものね」
「お前、まだそんな……」
何とも情けない表情になった瀬田に、茅乃は、そんな顔しないでください、と笑う。
「あの頃に戻っちゃったら一番困るのは私です。聡司さんが私にここにいてほしいってことも、私がここにいたいってことも、ちゃんとわかってます。だから、もしも今、安海の営業部に戻れるとしても戻ったりしません。第一、あそこにいた聡司さんは、香さんのお婿さん候補だったんですから、そんな状態に戻るなんてまっぴらごめんです」
「それを聞いて安心した」
「ということで、仕事しましょう。私、何からやればいいんですか?」
「ああ、じゃあ、そうだな……」
瀬田はすぐに分厚いファイルをよこし、中身を整理するように指示した。
ファイルにはSICの主だった部門の月次活動報告書が時系列に沿って綴じられていたが、瀬田はそれを部門ごとに整理してくれという。おそらく彼は、そんな整理などするまでもなく、頭の中に全てを入れているに違いない。きっと、茅乃が分類するためにその報告書を読み、昨年のSICの動きを把握することを期待しての指示だろう。
SIC本社での初仕事として実に適当かつ有意義。そんな仕事をさらりと振ってくれた瀬田に改めて感謝しながら、茅乃のSIC本社での一日目が始まった。
†
「茅乃、この間の件だが」
「ああ、あれ。本気だったんですね」
「俺はいつだって本気だ」
「どうだか。で?」
「売り方が難しい」
「ターゲットは街に慣れていない人、ですかね」
「どこに網を張る?」
「そういう人が必ず通る場所に広告出して、あと販売所?」
「駅とか空港か」
「出国側の旅行代理店も。ついでにそれぞれのサイトにバナー広告もいいと思います」
「レンタルタイプも考えるべきだな」
「むしろ主力はそっちかもしれません。期限付きのアプリでもいいでしょうし」
「あとは?」
「元から住んでいても、判断力や防衛力が低い人たち」
「子どもと老人?」
「私みたいにか弱そうな女性も入れてください」
「ほざけ」
「失礼な。このたおやかな大和撫子を捕まえて」
「ぺんぺん草なんだろう? お前は」
「なんて無駄な記憶力! そういういらない情報はさっさとデリートしてください」
「心配しなくても容量は余ってる」
「他のことに使ってください」
「他のことにも使うさ。じゃあ、あれはその方向で」
「根回しは着実に。強権発動でごり押ししないでくださいね」
「俺は紳士だ」
「聞いて呆れます」
瀬田と茅乃はそれぞれが別々の作業をしながら言葉を交わしている。
手も止めず、お互いの顔すら見ないままにぽんぽんと進んでいく会話に、貝谷は驚きを隠せなかった。
この二人が長年一緒に仕事をしてきたことは知っている。瀬田がSICに入社するにあたっての第一条件が、相馬茅乃を専務室付きの社員として受け入れることだったということも聞いていた。
はじめは自分の女を手元に置きたいだけではないのか、と期待すらしていなかった彼女の能力は、昨年夏の創業記念パーティで周知のものとなった。
仙台から名古屋への急な会場変更で、何の心構えもなかったにもかかわらず、一ヶ月足らずで貝谷が舌を巻くほどの企画書と実施要項が届いた。
小さな不備一つ出さずにパーティを終了させ、参加した社員たちからはこれまでのどのパーティよりも配慮が行き届いており、楽しかったと高い評価を得ている。
たかがパーティといっても、あれだけ参加者が多いものをつつがなく終わらせ、なおかつ満足感を与えるためには、かなりのマネジメント能力が必要とされる。
相馬茅乃はあのパーティを担当したことで、瀬田聡司の身びいきではなく、彼女自身の能力がSICで働くに値するものだと証明したのだ。
貝谷から見て、茅乃と瀬田の仕事の進め方はとてもよく似ていた。入社したばかりの彼女を、瀬田が一から仕込んだそうだから当然である。だから、瀬田と茅乃が抜群のチームワークを発揮するだろうということぐらいわかっていた。そもそもあの瀬田聡司がどうしてもと望み、一度はSICへの入社を拒否されながらも諦められなかった相手である。さぞや一緒に働きやすい関係なのだろうと予測はしていたのだ。
それでもなお、ここまでとは思わなかった。
二人は、固有名詞や、問題がどこにあると考えているか、などの基本的な情報交換をすっ飛ばして会話を展開している。
携帯ナビという言葉一つ使うことなく話題に入り、そのまま最小限の言葉数で当たり前みたいに打ち合わせができるのは、お互いの言葉の使い方や思考傾向を熟知しているからだろう。
二人のやりとりに、貝谷は、ツーカーというのは突き詰めればここまで行くのだと実感する。
そのうえ二人の会話には、一般社員が専務相手に、あるいは男が女に言ってはいけないことが満載だ。よほどの信頼関係がなければモラハラだ、セクハラだと大騒ぎになるような内容にもかかわらず、二人は会話を楽しんでいる。
しかもそんなやりとりをしながら、二人は恐るべき速度で仕事をこなしていく。
これが本来の瀬田聡司の姿だ。彼は、懐刀を奪回したことでようやくその能力の全てを発揮できるようになった。目の前の二人の姿に、貝谷はそう思い知らされた。
入社当時の瀬田聡司は、もしかしたら暖機運転をしていたのかもしれない。
社長の息子である瀬田が、七光りと言われることを恐れたのは当然だった。
瀬田聡司は入社とともに任せられた膨大な量の仕事をそつなくこなし、瀬田雄介の後継者としての資格を全社に示した。部下が失敗をしても表だって怒鳴りつけたりしないし、七光りを匂わせるような非難を聞いても聞き流す。会議の場で発言したことを、「君はまだSICのことがわかっていない」と否定されても、反論せず従うことが多かった。
端的に言うならば、入社当時の瀬田聡司は暖簾に腕押し状態。瀬田雄介の息子は有能かもしれないが覇気に欠ける、このままではSICの将来は不安だとさえ噂されていた。
ただ、日常的に彼を間近に見ている貝谷には、そんな瀬田聡司の姿がどこか虚像のように思えてならなかった。
残業が長引いた夜、瀬田は作業の合間に専務室の大きな窓からマンハッタンの夜景を見下ろしていた。きっと本人は貝谷に見られているとは気づいていなかったに違いない。けれど貝谷の席からは、ガラスに映った彼の表情がはっきりと見えていた。
ガラスの中の彼は、普段の穏やかそうな様子とは打って変わって厳しい表情をしていた。
鋭い目つきで街を睨み、貝谷が話しかける声も耳に入っていないようだ。そんな姿に、瀬田聡司という人は周りが思っているほど穏やかでも覇気がないわけでもないのかもしれない、と思わずにいられなかった。その推測の正しさが証明されたのは、彼が茅乃との関係を回復したあとのことだった。
瀬田聡司は、創業記念パーティを終えて日本から戻るなり、これまでのSICの体制を根本から見直し、改善すべき項目を怒涛のように並べ立てた。彼は懐刀を取り戻したことで得た高揚感をそのまま仕事にぶつけた、あるいは、暖機運転を終えてそろそろ自分本来のやり方を示す時期と考えたのかもしれない。
けれど、根回しをせずに事実だけを突きつけるような彼のやり方は、SICを困惑させた。
優秀なのは認めるが、人の上に立つ人間としてはもう少し協調性が必要なのではないか。自分のみならず周囲にまであの暴走に近いスピードを求めて、SICを空中分解させてしまうのではないか。
貝谷の目から見ても明らかにエネルギー過剰。五の力で十分にこなせる仕事に十の力を注いで、それでもなお、消費しきれないエネルギーが彼の周りで放電され火花を散らし、周囲を不安にさせていた。
そんな中、相馬茅乃が渡米した。
彼女との初顔合わせは印象的だった。
待ちに待った懐刀がニューヨークに到着したとたん、瀬田は彼女を会社に連れてきた。
彼女の仕事は四月一日からにすると決めたのは瀬田自身だったのに、専務室にいる彼女を見て我慢できなくなったのか、「やっぱりもう少し繰り上げてもいいか?」と貝谷に訊いてきた。
貝谷は冗談まじりに、受け入れ準備など昨年から整っていますよ、と答えようとしたのだが、それより先に茅乃本人が異議を申し立てた。
「自分の発言を二転三転させないでください。まだありもない信用がそれだけで大暴落です」
貝谷は目を見張った。陰口ならともかく、専務であり社長の息子でもある瀬田に面と向かってこんな口をきく人間を見たことがなかった。しかも、怒りを爆発させるかと思った瀬田が、
「まだありもしない信用は落ちない。というより、ありもしないとか言うな。鋭意努力中だ」
と、あっさり返したことにさらに仰天し、思わず茅乃の顔をまじまじと見つめてしまった。
茅乃は顔を凝視されていることなど気にもせず、貝谷に訊いた。
「この人、本当に努力してます? なんとなく空回りしてません?」
思わず貝谷は苦笑した。
空回り、というのは、それまでの瀬田の状態を表す絶妙な表現だった。周囲を気遣わず走り続ける暴走列車。これが瀬田聡司のやり方なのだと思いながらも、貝谷は彼と周囲との間に摩擦が生まれることを心配し続けていた。
「あたらずといえども遠からず、って感じですね」
貝谷の言葉を聞いて、茅乃は我が意を得たりという顔になり、再び瀬田聡司を攻撃し始めた。
「やっぱり。何でそんなにへたっぴーなんですか? お客さんとならあんなに上手くやれるくせに、どうして自分の会社の人相手だと傍若無人になるのかなあ。まさか、頭下げるのはお金をもらうためだけだ、とか変な思い込みをしてるんじゃないでしょうね?」
暖機運転の間、ずっと堪え忍んでいた瀬田の姿を見てきた貝谷は、それはちょっと言いすぎだ、と思った。だが瀬田は平然と言葉を返した。
「何が悪い、実際そのとおりだろう」
「聡司さん、その考え方はあまりにも貧しいです。貧しすぎて情けなくなります。『実るほど頭を垂れる稲穂かな』って諺があるじゃないですか。ちょっと田んぼにでも行って稲穂を見てきたほうがいいです、って、田んぼはないか、アメリカには」
「アメリカにだって田んぼぐらいある。カリフォルニア米は極上だ。だが、そんな観察は必要ない」
「いやいや、頭の下げ方は稲穂が一番。古来、そう言われております。ぜひとも見習うべきです」
「本当に口が減らない奴だな」
「そりゃあもう、しっかり仕込まれましたから。頭下げるのは自分の徳を積むためだとでも思えばいいじゃないですか。下げるべきときは下げて、周りともちゃんと仲良くしてください。さもないと、あっというまにクーデターが起きますよ」
「わかった、わかった」
瀬田は、降参とばかりに、顔の横に両手を上げる。茅乃は瀬田の芝居めいた仕草に一瞬顔をしかめ、そのあと貝谷に問いかけた。
「この人って、基本的にものすごくこの国向きかもしれないけど、日本人としてちょっとどうかと思いません?」
はいとは言えず、かといって、いいえと言うのも嘘になる。曖昧に笑ってごまかそうとする貝谷に、彼女はさもわかっているといった顔で微笑んだ。
その微笑みは『瀬田聡司取り扱い熟練者』の余裕を感じさせる。貝谷にとっては頼もしい限りだった。
†
茅乃の渡米が確実となったことで、瀬田聡司の肩から力が抜け、暴走列車にSICを破壊されるのではないかと恐れていた社員たちは安堵した。瀬田聡司は大丈夫だ。父親ほどの器ではないにしても、SICの後継者として遜色はない、と……
だが、茅乃がSIC専務室で仕事を始めて二週間も過ぎると、瀬田聡司の能力を見極めたつもりになっていた社員たちは、懐刀を手元に置いた彼の底力を見せつけられることになった。
茅乃の巧みな舵取りで、瀬田聡司は時に立ち止まり、時に振り返り、周囲の様子を確認しながら会社全体のことを考えるようになった。社員たちも徐々に彼への信頼を高め、一部の重役たちは、ゆくゆくは父親を超えるかもしれないと噂するほどだ。
二人が丁々発止とやり合う姿が社内のあちこちで見られ、周囲の話題を呼んでいる。瀬田係にやり込められる専務が見たいと、ウォッチングに精を出すものまで現れる始末である。瀬田のそんな姿は、暴走列車化していた彼の印象を和らげ、社員との距離を狭めるのに大いに役立っている。
茅乃がそこまで計算してやっているとしたら大したものだが、本当のところはわからない。本能的に瀬田に一番有利な状況を作り出している可能性もある。いずれにしても、恐るべし瀬田係、の一語に尽きた。
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