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2巻
2-1
しおりを挟む第一章 マンハッタンの迷子
「Where am I !?」(ここはどこ?)
うっかりそんな声を上げた茅乃は、ただちに大後悔する羽目に陥った。
その直後、周りを人に囲まれてしまったからだ。
茅乃よりも頭一つ分背の高い大学生風の二人組、二歳ぐらいの男の子を抱いた金髪碧眼の若い女性、そしてアメリカンフード大好きです! と言わんばかりの体形の中年女性。その四人、いや子どもを含めて五人が、茅乃を中心に円陣を組んでいる。
しまった。考えるより先にしゃべれって言われすぎたせいで、本当に考えなしになっちゃったよ……
日本でお世話になっていた女性英語教師は、茅乃に繰り返し言い聞かせた。
「考えちゃだめ! とにかくしゃべりなさい。間違えるのが恥ずかしいからって黙り込むのは厳禁よ!」
その言葉を聞くたびに、確かにそのとおり、語学はある意味条件反射だと納得し、文法やら何やら小難しいことは一切考えず、知っている単語を羅列することに専念した。
渡米を決めて以降、四六時中なんでもかんでも片っ端から英語にする訓練をしていたせいで、先ほども頭に浮かんだ困惑をそのまま声にしてしまったのだ。あまりにも馬鹿すぎるぞ茅乃、である。
『なんだ、迷子か?』
『どこに行きたいの? 言ってごらんなさい』
『駅か? 美術館か? それともブロードウェイか?』
『心配するな、リトルレディ。俺たちに任せとけ!』
茅乃はちょっとむっとして、最後の台詞を言った学生風の二人を見る。
リトルレディって、私は君らよりかなり年上だぞ……たぶん。
でも身長だけを比べれば、彼らより遥かにリトル……いや、待てよ、リトルとスモールってどう違うんだっけ? あーもうわけわかんない。いいからほっといて~。
とはいえ、彼らが善意から茅乃を助けようとしてくれていることはよくわかったし、茅乃が手にしていた地図を広げて、リトルレディの行きたい場所はここか? と指さしてくれるのも大変ありがたい。
だが、毎度のことながら、茅乃には彼らの言う「任せとけ!」の具体的な内容がちっとも理解できない。
ああしろ、こうしろ、とアドバイスしてくれているようだが、とにかく早口でほとんど聞き取れないのだ。おたおたと、もっとゆっくり話して……と繰り返し頼んで、やっと半分理解できるかどうか。
道に迷ったときの英会話については、ガイドブックの巻末にも書いてあるけれど、それはあくまでも道に迷っています、助けてください、と頼む方法だけ。
答えを、マシンガンみたいなスピードで、しかもネイティブ表現で返されても、頭の周りを疑問符が飛び交うばかりだ。
これまでの多くの迷子経験によれば、彼らは最終的になんとか茅乃が行きたい場所を探り出し、身振り手振りに加えて「This street」「go」「straight」というような説明をしてくれる。もちろん、彼らはこんな間抜けな単語の羅列はしないけれど、茅乃にはそれぐらいしか聞き取れないのである。
それでもことが民間レベルですめば御の字。
最悪なのは、彼らが茅乃のことをあまりにも危なっかしいと思い、保護が必要と判断された場合だ。
彼らは周囲をぐるりと見回し、通りかかった警察官に茅乃を引き渡そうとする。
善良なる市民を助けるのは警察官の職務の一つだが、なぜか茅乃がお世話になるのは同じ警察官ばかり。
もしかしたらニューヨーク市警は、似たような姿形の警察官を五十人ぐらいこの地区に配置しており、茅乃がそれを識別できていないだけかもしれない。そう思い込もうとしてみたが、残念ながらどう考えてもその可能性は低い。
第一、遭遇するたびに「This is insane ! It's you again !」(信じられない! またお前か!)と空を仰ぐのだから、きっと同じ人なのだろう。
日本では見慣れた黒い髪も、緑の目とセットになると印象がだいぶ違うなあ、などと考えながら、呆れた顔で首を振る警察官に最寄りの駅まで誘導されること、すでに三回。
我ながら、何でこんなことになってしまうのか理解しがたい。東京の鉄道路線図を全て頭に入れ、日本で一、二を争う複雑さと言われている名古屋の地下街ですら我が庭のように闊歩していた自分が、ニューヨークで迷子になりまくるなんて思いもしなかった。
同じ地球上、しかも同じ北半球。太陽が見える方向だって同じなのに、ここまで方向感覚が狂うなんてあり得ない! と叫んでも事実は事実。本日も茅乃は、親切なニューヨーカーに助けられての帰宅とあいなった。
黒髪翠眼の警察官に会わずにすんだだけでもラッキーだったと思うほかなかった。
長年『瀬田係』という名の補佐役として自分をこき使ってきた上司、瀬田聡司と想いを通じ合わせた茅乃。すったもんだの末、ついにニューヨークで暮らす瀬田のもとに行き、彼が跡を継ぐ予定になっている巨大企業SICに入ることを決めたのだが――
日本にいる間に語学学校に通い詰め、ビジネス英語についてもできる限りの習得に努めたものの所詮付け焼き刃。ニューヨークに向かう飛行機の中で、隣り合わせたアメリカ人カップルの会話はほとんど理解できなかった。あんなに勉強したんだから少しはわかるだろうと耳をそばだてていた茅乃は、落ち込むのを通り越して冷や汗が出てしまった。
日本にいたとき、瀬田がSICのスタッフと英語で話しているのを聞いたことがある。そのときは機関銃のような会話のスピードに、なんてせっかちな男だ、もうちょっとゆっくりしゃべれよ、と思ったものだが、アメリカ人カップルの会話を聞いてみれば、あのときの瀬田の会話速度はごく標準。商談がエキサイトすればさらに加速することは十分予測できる。
しかも、カップルの会話には、英語の教科書に出てくる表現なんてほとんどなかった。本場の英会話は茅乃が学んだ教科書英語では太刀打ちできないものだった。
茅乃は、ニューヨークに着くなり、空港に迎えに来ていた瀬田に詰め寄った。
「聡司さん! ちょっと英語でしゃべってみてください!」
「なんだよ、久しぶりに会ったっていうのにいきなりそれかよ!」
「いいから! 日本からやってきたお客さんを空港で迎えるってシチュエーションでお願いします! 普通のアメリカ人が話す感じで!」
「How was the flight ?」
「なんで Welcome to NY. I am glad to see you. じゃないんですか!?」
「そう言う奴がいないわけじゃないが……。それじゃあ、中学校の教科書そのまんまだろう」
「ううう……スピード以前の問題だった」
「というかな、普通のアメリカ人ならまずこうだ」
と言うなり、熱いハグとキスが降ってきたのには参った。確かに瀬田の言うとおり、普通のアメリカ人ならまずそれだろうが、あいにく二人とも日本人。
「だから日本人ですって、聡司さんも私も!!」
何度も言わせないでくれ、である。
真っ赤になった茅乃を笑いながら、瀬田は彼女のスーツケースを手にし、さっさと駐車場に向かった。
瀬田家御用達らしいハイヤーの運転手は、日本から来た女性客、しかも瀬田のフィアンセとあっては大歓迎するしかない、とばかりにあれこれ話しかけてくる。それがまたハイスピードかつスラングが含まれていてわからない言葉ばかり。これでは仕事以前に日常生活もままならない。
というわけで、茅乃は自ら望んで語学学校に入学することにしたのだった。
学生時代から英語は得意ではなかった。高校三年のときに受けた英検二級は、一次試験がマークシートで、勘で選んだ答えがことごとく当たって何とか合格。二次の面接に至っては、教師に泣きついて特訓をしてもらったおかげで辛うじて合格できたようなものだ。TOEICなんて受けようと考えたことすらない。アメリカに住むと決めたものの、自分の英語能力では話にならないことは明白だったので、茅乃は不安でたまらなかった。瀬田にも「やっぱり本社で仕事をするなんて無理かも……」と何度も泣き言を言ったのだが、彼はまともに取り合ってくれなかった。
瀬田曰く、自分もそばにいるし、SIC専務室所属の貝谷は非常に英語に長けていて、茅乃の能力を超えた英語が必要となったら、彼がサポートしてくれるから大丈夫、ということらしい。
それでも茅乃は、一刻も早く瀬田や貝谷の手を煩わせずにすむようになりたかった。特に自分の英語が使い物にならないことを実感させられたあとでは、その気持ちはもはや焦燥に近かった。
茅乃がニューヨークに到着したのは二月三日。それから一週間後に結婚式を挙げ、新婚旅行から戻ってただちに語学学校に入学。本社での勤務が始まる四月一日までの一ヶ月半が茅乃に与えられた猶予だった。
朝の八時から昼までの四時間コースを週に五日。とにかく英語漬けになるしかないと覚悟して選んだコースだったけれど、ハイスピードで進んでいく授業は受けるだけで茅乃を消耗させる。
しかも予習や復習にかかる時間は膨大だし、クラスには日本人が一人もいなかったので、わからないところを訊ねることすらできない。それどころか、息抜きとなるはずのクラスメイトとの雑談ですら英語。彼らは至ってフレンドリーかつ頻繁に話しかけてきたため、休憩時間といえども頭を休めることなどできなかった。
おかげで授業が終わったあとの茅乃は疲労困憊。それでも長期休暇中の妻としては、夫に手料理の一つも食べてもらいたいし、家の管理だってそれなりにやりたい。となると、食材や日用品の買い物が必要になり、授業を終えたばかりの疲れた頭であちこち歩き回って、あっという間に迷子の出来上がり、というわけである。
「まさかこんなところに障害があろうとは……」
会社から戻った瀬田は、今日も迷子になった、としょんぼりする茅乃に戸惑いを隠せなかった。
一刻も早く英語を習得したいという茅乃の気持ちはわかっていたし、自分の留守中の時間を潰すためにも語学学校に入ることは大いに賛成だった。
家から学校までの道もそんなに複雑ではないはずだし、朝は自分が出社するついでに送っていくのだから、茅乃が一人で歩くのは帰り道だけ。そのぐらいなら大丈夫だと思っていたのだ。
なのにこんなに迷子になるなんて、まったくの想定外。いくら慣れない街といっても、さすがにこう連日では多すぎだった。
瀬田は、頻繁に迷子になっては落ち込んでいる茅乃が痛ましくなり、とうとう個人レッスンへの変更を提案した。それなら講師が家に来てくれるのだから迷子になりようがない。
だが茅乃は力なく首を振った。
「大丈夫です。やっと慣れてきたところだし、今までだってちゃんと戻ってこられました。ニューヨーカーってすごく親切なんですね。それに、ジョージともすっかり顔なじみになっちゃったし」
「ジョージ?」
聞き慣れない名前に、瀬田はちょっと眉をひそめる。茅乃はこれまた疲れた声で言った。
「いつもお世話になる巡査さんです。学校があるあたりが管轄みたいで、迷子になるたびにその人と出くわしちゃうんです。ネームプレートにジョージ・マケインって書いてありました」
「警官と顔なじみになるって状況がおかしいだろう。学校を替わりたくないなら、しばらく運転手を迎えにやる」
「でも聡司さん、そんなことしていたらいつまで経っても街に慣れません。大丈夫ですよ、あと半月もしたらきっと迷わなくなります」
瀬田は、それまでにあと何回ジョージとやらに出くわす気だ、と詰め寄りたくなる。
黒髪で緑色の目、ファミリーネームがマケイン、ときたらおそらく彼はアイルランド系だ。頑固だけれど親切で面倒見がいいのが特徴の警察官は、茅乃にはさぞかし頼もしく見えることだろう。
だが、困っている茅乃を颯爽と助ける男が自分じゃないなんて納得しがたい。
とはいえ、茅乃の言うことは至極もっとも。街に慣れるためには迷子にならなくなるまで街を歩き回るのが一番簡単である。
そもそも茅乃が自分のためだけに、運転手付きの車を回すなんてことを受け入れるわけがないのだ。彼女が毎朝、車に乗っていくのは、たまたま語学学校が瀬田の通勤途中にあるからにすぎない。そうでなければ彼女は、登校からして自力で行くと言い出すだろう。
結局、茅乃が大丈夫だと言う以上、それを信じて見守るしかなかった。
瀬田はそう自分に言い聞かせる一方で、別の不安に囚われる。
みんな親切だと茅乃は言うけれど、彼女が自分に声をかけてきた相手の善悪を判断できるとは思えない。
平和な日本で生まれ育った茅乃は、警戒心がひどく希薄だ。酒やドラッグの影響を受けていたりして、見るからに危なそうな相手であれば警戒もするだろうが、質の悪い相手が親切を装って近づいてきたらわからないだろう。道を教えるふりをして油断させ、バッグを奪って逃走、あるいはナイフで刺す、なんてニューヨークではよく聞く話だった。
彼女の独立独歩の精神を尊重すべきだという気持ちと、彼女が危険な目に遭わないようにつきっきりで守ってやりたいという気持ちがせめぎ合う。
けれど、瀬田は社長教育のまっただ中である。社長である父、瀬田雄介は早期の退任を望んでおり、瀬田はできるだけ早く引き継ぎを完了することを期待されていた。
茅乃の到着以後、結婚式やら新婚旅行やらで、半月近くまともに仕事をしていなかった瀬田だが、そろそろ日常業務に戻らないと、茅乃に溜まりに溜まった自分の後始末から始めさせることになってしまう。
二十四時間そばにいて、茅乃の新生活をサポートしてやりたい。だがそれは今の瀬田には不可能だった。
茅乃には瀬田の心の動きが手に取るようにわかっていた。
瀬田は、自分が半ば強引に連れてきてしまったこの国で、茅乃が英語にも街にもなかなか慣れず苦戦していることが心苦しいのだろう。そばにいられないことを申し訳ないとすら思っているはずだ。
けれど茅乃にしてみれば、それも含めて自分で決めたことだ。どんな苦労をしてでも瀬田と共に生きる、その道を選んだのは自分なのだ。だから、不安な気持ちを無理矢理蹴飛ばして、瀬田を安心させるように言った。
「そんな顔しないでください。本当に大丈夫ですから。英語も少しずつだけど上達してきたし、ジョージに面倒をかけることもだんだん減るはずです。なんといってもこの街は、だいぶ派手な札幌みたいなものですから馴染めないわけがありません」
『だいぶ派手な札幌』というのは我ながら言い得て妙だと思う。
三月とはいえ、まだ寒さが思いっきり残っているこの気候からして、学生時代を札幌で過ごした茅乃には懐かしい。
家族や友人たちは、こぞって「ニューヨークは寒いよ!」と脅したけれど、凍てつくハドソン川にしても、ひどく滑って歩きづらい道路にしても、あーそうそう、こんな感じだった……と小さな笑みが浮かぶほどだった。
冬のニューヨークにいきなりやってきて、気候にたじろがずにすむだけでも上等だ。他のことだって、だんだん大丈夫になっていくに決まっている。
あとちょっとの辛抱だ……茅乃は、自分にそう言い聞かせた。
「わかった。じゃあなるべく迷子になる回数を減らす方向で頑張ってくれ。それと、くれぐれも身の回りに気をつけろ。外出は昼間だけにしてくれよ。間違っても夜まで外にいるんじゃないぞ」
「了解です。気をつけます」
おどけて敬礼する茅乃を見つめる瀬田の眼差しは、依然として不安の色を湛えていた。
それ以降、茅乃は語学学校の帰りに寄り道することをやめた。その代わり一旦帰宅し、休憩したあとに買い物に出ることにした。
瀬田の心配はよくわかるし、迷子になったと告げたときの彼の表情は見ていて痛ましすぎた。
授業を終えたばかりの疲れ果てた頭で学校周辺をうろうろして、わざわざ迷子になる必要はない。とりあえず、家の周りを完全に把握し、それから少しずつ行動範囲を広げていこうと考えたのだ。
二人が新居を構えたのは、アッパー・ウエスト・サイドにあるコンドミニアムだった。
日本で言うところの高級分譲マンションで、地下にはジムやプールもある。エントランスには常時ドアマンが立っているからセキュリティもかなり期待できた。
同じ通りにはサンドイッチや総菜を売るデリカテッセンが何軒もあるし、居心地の良さそうなカフェもある。目の前にはセントラル・パークが広がり、散歩や日光浴も楽しめた。
結婚後の住まいについてまったく聞かされていなかった茅乃は、東京で瀬田の両親と顔を合わせたときの話から、彼の両親が住む家に同居するのだとばかり思っていた。
ところが、いざニューヨークに着いてみると、案内されたのは高層マンションの中ほどにある4LDK。日本のマンションとは比べものにならないほど天井も高く、一部屋一部屋も広かったけれど、明らかに東京の彼の両親の家よりも狭かった。
不思議に思って瀬田に訊ねてみると、彼の母親が「ここよりずっと広い」と説明したのは、郊外にある一軒家のことだそうだ。ただし、瀬田の両親がその家で過ごすのは週末だけで、平日はアッパー・ウエスト・サイドにあるコンドミニアムで暮らしているという。
マンハッタンで働く人のうち、一部の裕福な人々は、そうやってウイークデーは都会で過ごし、週末や長期休暇になると郊外の家に戻って寛ぐのだと瀬田が教えてくれた。
瀬田の説明に頷きながらも、茅乃は疑問を隠せなかった。じゃあ、ここはいったい誰の家? もしかして賃貸? と思っていると当たり前みたいな顔で瀬田が言った。
「ここは俺が買った部屋だ」
茅乃は、住居費が高額なニューヨークで、瀬田親子が家を三軒も持っているという事実に唖然とした。
そのうえ、弟も持っているから都合四軒だな、と涼しい顔で言われるに至っては、返す言葉もなかった。
ともあれ、アッパー・ウエスト・サイドは超高級住宅街であるアッパー・イースト・サイドよりは庶民的だ、と説明されて茅乃はほっとした。確かに、来るときに見かけたレストランもブティックも、茅乃のような庶民でも受け入れてくれそうな雰囲気だった。
そのあと瀬田は、コンドミニアムとその周辺を案内してくれた。気に入ったか? と訊かれ、茅乃はにっこり笑って頷いた。
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海外生活のガイドブックには、住宅難が著しいマンハッタンで住まいを探すのは大変だと書いてあった。何冊も読んでみたが、どのガイドにもそう書いてあったのだから本当だろう。
いくらお金持ちでも、物件そのものがなければ借りることも買うこともできないはずなのに、と疑問を口にした茅乃に、瀬田は何でもないことのように答えた。
「かなり時間をかけて探した。で、二年ほど前に、親父たちの近所とここが同時に売りに出されたんだ。親父たちは、近所に買えと言ったんだが、お前は居心地が悪いだろうと思ってこっちにした」
「ちょっと待ってください。二年前って!」
そのときはまだ、結婚はおろか、瀬田と付き合いたいと思ったこともなかった。自分の中に、瀬田を慕う気持ちがあることにすら気づいていなかったのだ。そんな頃に、彼はいずれ茅乃と住むことを前提にこのコンドミニアムを買ったというのか。
「先走りすぎです」
「結果オーライだろう。俺はお前を逃がすつもりなんかなかったんだから」
と瀬田はさも得意そうに言った。
あまりにも余裕たっぷりの俺様ぶりが癪に障り、心にもなく、全然オーライじゃないです、と反論してしまった茅乃は、あっという間に寝室に連れ込まれ『オーライ』であることを認めるまで、あれこれされまくってしまった。油断も隙もないとはこの男のことだと思う。
それでも、住み心地の良さそうなコンドミニアムで、二人きりの新婚生活を始められることが、茅乃はとても嬉しかった。
ともあれ、地元優先作戦に切り替えたおかげで、とりあえずコンドミニアム周辺では迷子にならなくなった。
よしよし、これで近場は大丈夫、と思った茅乃は、少し足を伸ばしてみることにした。
二人のコンドミニアムは、ベッドルームを三つも備えている大きなものだったが、家具や備品は最低限しか入っていなかった。
瀬田は茅乃がニューヨークに来るまでは、仕事の引き継ぎの関係で両親と一緒に暮らしていたというから、こちらに足りないものが多いのも当然だろう。
必要なものは何でも買っていいし、模様替えしたければ好きにしろ、と瀬田から言われていた茅乃は、仕事が始まるまでにそちらも片付けておかなければ、と思っていた。
家具類はネットやカタログで注文することもできたが、日本とは規格が異なり、見当がつかない。
株式会社安海で机やベッドを売っていた茅乃にすれば、なんとも不甲斐ない話だったが事実は事実。アメリカのインテリアショップにも興味津々だったし、これはやはり一度は実物を見なければ、と茅乃はミッドタウンのインテリアショップに出かけることにした。
本当は瀬田と一緒に行きたかったが、仕事で疲れている彼を休みの日に家具探しに連れ回すのは申し訳ない。それよりは自分が先に下見を済ませておいて、目星をつけた物について彼の意見を聞いたほうが手っ取り早いと考えたのである。
「今日こそ迷子にならずに戻ってくるぞ!」
茅乃は玄関脇にある鏡の前で自分に向かって気勢を上げると、颯爽と部屋をあとにした。
ニューヨークに来てから落ち込みがちだった茅乃が、珍しく意気揚々と出かけたのには理由があった。
教師が機関銃のように話す内容が、おぼろげながら理解できるようになってきたのだ。さらに今日は休み時間にクラスメイトと普通に会話ができた。韓国から来たという男子学生のなんちゃってアメリカンジョークに引きつりながら笑うことができたのも、ジョークだと理解できたからこそだ。相手が何を言っているかさえわかれば、営業笑いなんてお手の物だった。
英語という巨大な壁をなんとか越えられそうな気がして、茅乃は浮き足立っていた。
今週の私はかなり頑張った。明日は土曜日で語学学校も休みなので、予習復習も明日やればいい。だから午後は遠出しても大丈夫。ずっと見たいと思っていたインテリアショップに今日こそ行ってみよう。
ということで、茅乃は本日の目的地をマンハッタン有数の繁華街であるミッドタウンに定めた。
ミッドタウンはコンドミニアムのあるアッパー・ウエスト・サイドからセントラル・パークに沿って南下した先にある。散歩がてら少し公園内を歩いてから地下鉄に乗りたいところだったが、あの広い公園内で迷子になる可能性もなきにしもあらず。念のために素直に地下鉄の駅を目指すことにした。
ミッドタウンにはSICの本社もあり、何度か瀬田に連れていってもらったことがあるので、最寄り駅の名前もはっきり記憶にある。その駅はミッドタウン・ノースの真ん中に位置し、コンドミニアムの最寄り駅からなら乗り換えなしで行くことができる。そのうえ、目指すインテリアショップも駅から目と鼻の先。駅の階段を上がった途端、目に入ってくるのだから迷いようもない。
彼に連れていってもらったときはSICの中しか見ることができなかったから、今度は会社の周りをちょっと散策して、インテリアと雑貨のお店を覗いてみることにしよう……
こうして茅乃は、地下鉄の駅を目指して鼻歌まじりで歩き出した。
ところが、やっぱりその日も思ったようにはいかなかった。
まずはじめに、入るべき改札口を間違えた。
アッパー・ウエスト・サイドからSICのあるミッドタウンに向かうには南に向かう地下鉄に乗らねばならない。この駅では向かう方向によって入る改札口が異なるというのに、茅乃はうっかり北に向かうための改札口をくぐってしまったのだ。
語学学校からの帰りはいつもその改札口から出てくるから、無意識のうちにそちらに向かったのかもしれない。しかも茅乃がそれに気づいたのは、タイミングよく滑り込んできた電車に乗り込んでからである。
改札口をくぐって電車が来たらすかさずそれに乗る、というのはアメリカの地下鉄の場合おおむね正しい。昼間とはいえ、薄暗いホームに長時間立っているのは危ない土地柄なのである。
ただ、運の悪いことに茅乃が乗り込んだのは快速電車だった。ガイドブックを読みふけっていた茅乃が、あれ? おかしい、いつまで経っても会社の最寄りの駅名が表示されない、と思ったときには既に手遅れ。会社とは反対方向、マンハッタンの北部に運ばれてしまっていた。
次の間違いは、そのまま折り返さなかったことだ。
茅乃は、来てしまったのなら仕方がない、もしかしたらこのあたりにも素敵なお店があるかも……と軽く考えて、地上へと続く階段を上がった。
少し歩いた先に小さなアンティークショップを見つけたのが、さらに事態の悪化を招いた。他にも面白そうな店がありそうだ、とふらふら歩き回っているうちに、お馴染みの「ここはいったいどこ?」状態に陥っていた。
こういうときは何か目立つ建物を捜せばいい、そうすれば現在位置がわかるはず、と頑張って歩いてみたが、周りはどんどん住宅街に変わっていき、目印になるような建物は一つも見当たらなくなってしまった。
通りは複雑にカーブして入り組み、番地の付け方もばらばら、いざとなったらスマホで検索すればいいと思っていたのに、そのスマホ自体が電波微弱で使い物にならない。ごちゃごちゃと建てられている古いビルに電波が遮られているのかもしれない。
「碁盤の目を作るなら、街全部すみずみまできっちり作ってよ! 中途半端なことするんじゃない!」
なんて叫んでみても、事態は何一つ改善されなかった。しかも、今日に限って周りの人間は誰一人立ち止まってくれず、足早に通り過ぎていくばかりである。
地下鉄に乗りさえすれば少なくとも家には戻れるのだから、とにかく駅を探そう、とうろうろしても、その駅自体が一つも見つからなかった。
ガイドブックによれば、およそ六百メートルに一つはあるはずなのに、いったいどうなっているのだろう。もしかしたら本格的にメインストリートから外れてしまったのだろうか……
一瞬、瀬田に電話をかけようかと考える。けれど、茅乃が迷子になったと知ったら、彼はまたあの申し訳なさそうな目になるだろう。それを思うと、何とか彼に知られる前に自力で帰宅したかった。
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