きよのお江戸料理日記

秋川滝美

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67 / 80
5巻

5-3

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 ついっと立ち上がったきよは、通りすがりに弟のおでこをぴしゃりとやる。

「痛っ!」
「くだらない焼き餅を焼くんじゃありません。おとっつぁんはどの子も等しくかわいがってくれてる。万が一、分け隔てをしてるとしたら、末っ子のあんたが一番かわいがられてるぐらいよ」

 さもなければ、わざわざ江戸に逃がしたりしない、と断言され、清五郎はちょっと嬉しそうに笑った。

「そうか、そうだよな……やっぱり俺が一番か。へへ……」

 そういうところが末っ子だっていうのよ、ともう一発ぴしゃりとやって、きよは休憩に使っている板場の奥の小部屋に入る。文を書くのは得意だから、源太郎よりも早く書き上げられる。夕方の書き入れ時にも十分間に合うだろう。
 源太郎は、詳しい事情まで知らせないに違いない。どうかしたら、下り酒を売りたいから送ってくれないか、と書くのが関の山だ。
 窮状を訴えるなんてこれまでしたことがないけれど、『千川』の評判がかかっているとなれば話は別だ。酒合戦を開くに至った事情に加えて、酒が揃わなかったらどんなことになるかをこと細かに知らせる。その役割を負えるのは自分しかいない。
 おとっつぁんならきっとなんとかしてくれる――そう信じてふみをしたためる。文を送ってから返事が来るまで最短で八日かかる。だが、安請け合いはしない父のたちを考えたら、下り酒の手配ができるかどうか調べてからでないと返事は書かないに決まっている。その手配にどれだけかかるのか読めない。
 どうか間に合って! と祈るような気持ちで、きよは父への文を書き終える。ずいぶん長い文になってしまったけれど、それでも源太郎よりは早く書き終え、板場に戻ることができた。


 待ちに待った返事が来たのは文を送ってからおよそ半月が過ぎた日の、日が暮れてからだった。
 飛脚によると、この文が逢坂を出たのは四日前、どうやら父も早飛脚を立ててくれたらしい。きよの文でことの重大さを悟った証だった。
 宛名はもちろん源太郎で、清五郎が、帳簿をつけるために裏の家に戻っていたあるじを呼びに走った。大慌てで店に戻った源太郎は、文を読むなり大きな息を漏らす。明らかにほっとした顔つきで、いい返事だったことは誰の目にも明らかだった。

「ありがてえ……」

 源太郎は文を弥一郎に渡し、くずおれるように上がりかまちに腰を下ろす。続いて文を読んだ弥一郎が、きよと清五郎に言った。

「おまえたちのおとっつぁんは、真に頼れるお方だ。四方八方手を尽くして酒を集めてくれたばかりか、次に出る樽廻船たるかいせんに乗せるよう手配してくれたそうだ」
「次に出る……それで間に合うんですか?」

 心配そうに清五郎が訊ねた。樽廻船がどれほどの頻度で行き来しているかなんて知らないのだから、もっともな問いだろう。
 弥一郎は、読み終えた文をきよに渡しながら言う。

「今年最後の船が師走しわす十八日に出るそうだ。京や逢坂の蔵元から船着き場に酒を運ぶのに時がかかるからちょうどいいし、樽廻船たるかいせんは十二、三日で江戸まで来るから酒合戦には間に合うだろう」
「海が荒れなければ、の話ですよね?」

 十二、三日で江戸まで来るというのは、何事もなければの話だ。いくら沖乗りでも時化しけには太刀打ちできない。
 それでも弥一郎は、平気な顔で言った。

「悪いことばかり考えても仕方がない。海が静かで風の具合がよければ、三日、四日で江戸まで来ちまうことだってあるそうだ。冬の海がそこまで穏やかとは思えねえが、おお時化しけが続いたとしてもせいぜい七日。間に合うか間に合わないかで言えば、間に合う見込みのほうが高いだろう。とにかく酒と船を押さえてくれた『菱屋』さんには足を向けて寝られねえ」

 万が一、間に合わなかったとしても、言い訳が立つ。仕切り直して下り酒の到着を待てばいい、と弥一郎は言う。確かに父が集めたからには上等の酒に違いないし、旨い下り酒が船でやってくるとなれば、酒呑みたちは納得するに違いない。

「逢坂からの樽廻船は、俺たちにしてみりゃ宝船みたいなものだ。船着き場に通い詰めて、船が来るのを待ちてえぐらいだよ」

 逢坂にふみを送ってから気の休まらない日々が続いていたが、これでようやく一息つける。源太郎と弥一郎は喜色満面、きよも肩の荷が下りた気分だ。
 ところが、そのとき、隣の伊蔵がぼそりと呟いた。

「それにしても、急な話だったのによく船に積めたもんだ。樽廻船ってそんなにがらがらなのかな……」

 そんなはずはない。もっぱら酒を運ぶ樽廻船も、米や油、そのほかのものを運ぶ菱垣廻船ひがきかいせんにしても、毎日のように行き来しているわけではない。廻船問屋が船を出せるのは年に数回だと聞いたことがあるし、荷が軽すぎても重すぎても遭難の恐れがあるそうだ。
 限られた回数ならよけいに、かなり先まで積み荷の中身は決まっているはずだ。予定にない酒を手に入れるときはもちろん、船に荷を積むためにも、父はいろいろなところに『鼻薬』を嗅がせなければならなかったのではないか。酒そのもののお金や船賃は源太郎が払うにしても、『鼻薬』あるいは『袖の下』まで父が源太郎に求めるはずがない。父はこの件で、どれほど金を使ったのだろう――きよの中に、そんな心配が湧き起こった。
 そっと清五郎の顔をうかがうと、弟も極めて難しい顔をしている。おそらく、父に強いた負担に思い至ったのだろう。清五郎は、きよにだけ聞こえるぐらいの小声で言う。

「きっと大丈夫だ。俺たちが世話になってる『千川』を助けなきゃって躍起やっきになってくれたに違いねえが、おとっつぁんは手堅い人だし、大兄ちゃんだっている。今の『菱屋』にできる以上のことはしなかったはずだ。間違っても『菱屋』が傾くなんてことにはならねえよ」

 自分自身に言い聞かせるような声音に、弟の不安を知る。きよが説明しなくても、『菱屋』の負担や隠居の父の立場を思いやれるようになったのか、と感心する。それとともに、父の思いの深さを改めて思う。で家の奥深くに隠され、父にいとわれていると思っていたころが嘘のようだった。
 清五郎の言うとおりだと信じ、きよはへっついの前に座り直す。明日は富岡八幡宮とみおかはちまんぐうの縁日だから、客が詰めかけてくる。夜の書き入れ時の前に、少しでも仕込みを進めておかなければならない。
 へっついの上の大鍋には、ほどよく湯が沸いている。鍋の横には大笊おおざるいっぱいのねぎと剣に似た形のいかいか――茹でた烏賊と葱のぬたえは『千川』でも人気の料理だ。
 冬の烏賊は夏の歯応えのある烏賊と異なり、足や耳まで柔らかくほのかな甘みを持つ。烏賊の持ち味を台無しにしないように甘みを控えて味を付けるので、酒にもぴったりだ。
 このぬた和えを酒合戦に出してみたらどうだろう。酒合戦に出るものは呑気にぬた和えを食べる暇はないだろうが、見物客は喜んでくれるかもしれない。
 それとは別に、酒をぐいぐい呑みながらつまめる料理を考える必要がある。源太郎はいつも以上に水で薄めるつもりだったようだが、あれは酒が足りない恐れがあったからだ。十分な量、しかも上等の下り酒が揃うとなったら、料理茶屋のあるじとして酒の味を損ねるようなことはしたくないに決まっている。
 いつもどおりの酒をぐいぐい呑めば、酔っ払うのも早い。開始、即酔っ払って終了、ではつまらない。少しでも酒合戦を盛り上げるためにも、質のいいつまみがいるのだ。
 ――さっと口に入れられて、すんなり呑み込めて、美味しい……あ、焼き大根なんてどうかしら? あらかじめ茹でてから焼くから柔らかいし、焦がした醤油の香りがすごくいい。輪切りじゃなくて一口の大きさにすれば、お酒の合間に口に放り込める。冷めても美味しいから作り置きができる……
 大根は旬で値打ちだから源太郎も喜んでくれるかもしれない。あとで弥一郎に相談してみよう……と思いながら、大鍋に葱を沈める。
 湯に沈んだとたん、根深葱の青が一気に深くなった。旨いだけではなく目にも美しいぬた和えを作るためには、しっかり火が通り、かつ、この青に茶色がまじらないうちに引き上げなければならない。ほかの料理はまたあとで考えることにして、きよは大鍋の中で躍る葱に目をらした。


 酒合戦を開くにあたって見物券を売るという話は、勘助や読売よみうり仲間たちによってまたたく間に広まった。
 きよは、自ら言い出しはしたものの、酒合戦に出るためならまだしも、素人が酒を呑むさまを見るだけのために金を取ると勘違いされて一騒動起きるのではないかと心配していた。
 だが、読売たちが言葉巧みに、この見物券は酒合戦を見ながら楽しむ酒とつまみの代金だと説明してくれたおかげで、さほど文句を言う者は出なかった。それどころか、会場がそう広くないために、限られた数しか出せなかった見物券の奪い合いのようになってしまったのである。
 見物券を買ったのはもっぱら深川在住の者たちで、酒合戦云々うんぬんではなく、この値段で富岡八幡宮の参道にこの店ありと名高い『千川』の酒と料理を試せるなら、という考えもあったようだ。

「こんなことならもう少しふっかけておくんだった!」

 悔しそうに言う源太郎に、弥一郎は苦笑いで答える。

「そんな阿漕あこぎなことをやらかしたら、『千川』の評判は地に落ちる。いくら名が広まっても、悪名じゃしょうがねえだろ」
「そりゃそうだが、見物券を買ったやつが値段をかさ増しして別のやつに売りつけてるって話も聞いたぞ。そんな悪どいやつをもうけさせるぐらいなら、うちが儲けてえよ」
「諦めろ。酒合戦に出るやつや見る客から金を取るってのは、報奨金を集めるのと客の数を絞るための策だ。ただでさえ一石二鳥、しかも客の数を、いい案配に収められたんだからよしとしようぜ」
「まあな……」

 金がかかると知って、酒合戦に参加する者は十名に絞られた。二組に分けて戦わせる本来の酒合戦の形にほどよい人数である。問題は組分けだが、これは勘助を筆頭にあの日車座になっていた馴染み客が、ああだこうだと言いながら東西に分けた。見ず知らずの者を平等に分けられるか、片方に酒豪が集まってしまうのではないかとはらはらしたが、大酒呑み、大食いに限らず、なにかに長けた者というのはとかく人の口に上りやすい。読売たちが江戸中からかき集めた噂をもとに、かなりいい組分けができたらしい。
 勘助がほっとしたように言う。

「一時はどうなるかと思いましたが、これでなんとか格好がつきました」
「どうなるかって……言い出しっぺはあんた方じゃねえか」

 巻き込まれて迷惑したのはこっちだ、と言わんばかりの弥一郎に、勘助は申し訳なさそうに答える。

「そりゃそうですけど、俺たちだってまさか本当に酒合戦をやることになるなんて思ってなかったんです。ただ、やれたら面白かろうって酒の席の与太話よたばなしで……。まさかりき様が話に入ってくるなんて」

 話に首を突っ込んできたあとですら、ごとだと思っていた。まさか、深川の料理茶屋で与力と隣り合わせるはずがない。お侍だとはわかっていたが、酒の代金を丸ごと引き受けてまで、酒合戦を強行する金も力もないと考えていたそうだ。
 勘助の言い分には、『千川』の面々も頷かざるを得なかった。とどのつまり、悪いのは上田――これはもはや『千川』の習わしに近い。ある意味、馴染み客たち自身が巻き込まれて大変な目にあっているとも言えた。
 弥一郎が、それまでよりかなり柔らかい口調で言う。

「お互い様ってことか……。まあ、とりあえずなんとかなってよかった。あとは酒が無事に着いてくれれば……」

 このところ深川界隈かいわいの天気は落ち着いている。雨が降ることはあっても続かず、翌日には冬晴れとなる。陸と海では天気は異なるし、逢坂の港を出てから江戸までずっと晴れっぱなしということはないにしても、多少の雨なら支障はないだろう。年が明けてから港に入る船は宝船みたいで縁起がよさそうだが、心配が長引くのは嫌だし、港から『千川』まで運ぶ暇だっている。様々なことを考えたら、予定どおりに着いてくれるほうがずっとよかった。


 師走しわす二十三日、朝から『千川』はてんやわんやだった。逢坂から運ばれてきた酒が届けられることになっていたからだ。
 樽廻船たるかいせんは予定どおりどころか、二日も早く江戸に着いた。
 これはあとで聞いた話だが、逢坂と江戸を結ぶ南航路は冬になると陸から海に向けて強い風が吹き、帰れなくなってしまうこともあるそうだ。そのため、冬の南航路は慎重に天気を読んで船を出す。さらに陸に近い航路を選ぶ。沖乗りだから大丈夫、などと安心していられないのが冬の樽廻船だという。しかも、樽廻船は、本来は酒を運ぶための船であるにもかかわらず、師走から新酒が出る如月きさらぎあたりまで酒を運ばない習わしらしい。
 それでも酒を積み込めたのは、日頃から船便をよく使っている『菱屋』だからこそだろう。もしかしたら、酒よりうんと高い米と同じぐらいの運び賃を払ったのかもしれない。さもなければ、ただでさえ今年最後の積限つみきりの船に荷を割り込ませられるわけがなかった。
 さらに驚かされたのは、菰樽こもだるの数だ。
 父からのふみでは数には触れられていなかった。源太郎は、できれば二十、と書き送ったそうだが、返事になにも書いてなかったところを見ると、おそらく揃わなかったのだろう、と言っていた。そして、少し後ろめたそうな顔で続けた。

「本当は十ありゃ足りる。こっちの酒屋から六つは届いてるから、それでも多いぐらいなんだ。だが、十で頼んで揃わなかったら困る。二十って言えば、半分ぐらいはなんとかしてくれるんじゃねえかと思ってさ」

 菰樽ひとつに酒は四入る。十あれば四十斗、一斗は十しょうなので四百升もの量になる。さらにそれを水で割って出すのだから、十人の大酒呑みと見物客には十分な量と言えた。
 だが、どうか十、せめて八は……と思いながら待っていたところに大八車だいはちぐるまで運ばれてきた菰樽は二十五、頼んだより五つも多かった。

「『菱屋』さんには頭が上がらねえ……」

 源太郎が、西を向いて手を合わせた。それを見た清五郎が、ぼそりと呟く。

「まるで、おとっつぁんがいけなくなっちまったみてえだ……」
「縁起でもないことを言うんじゃありません。それより、こんなにたくさん、しまう場所はあるのかしら」
「一時のことだし、蔵に放り込むんだろ」
「でも、蔵はお味噌で一杯……ってこともないわね」

『千川』では、味噌も手作りしている。毎年如月きさらぎあたりに仕込んで、夏に出来上がったものを使い始めるから、まだ来年の味噌を仕込んでない今が、一年で一番、蔵が空いている時季だった。
 ところが、荷を受けた源太郎は、蔵ではなく店の前に大八車を着けさせた。
 早速、弥一郎が文句を言う。

「親父、そんなものを店に置かれたら、邪魔でしょうがねえ」
「全部置くわけじゃねえ。そうさな……六つ、いや十四、店に入れて、あとは蔵だ」
「十四?」
「ああ。一番下に五つ、そこから四つ、三つ、二つ……と積み上げる。いよいよ酒合戦だって意気が上がるし、酒が揃ってるって証にもなる」
「そりゃそうだが……」
「なあに、座敷に積み上げるんだから、板場の邪魔にはならねえよ」
「入れる客の数が減っちまうぞ?」
「十日ほどのことだ。それに、多少狭くなったところで支障ねえよ」

 今だって、朝から晩まで客で一杯ということもない、と源太郎は何食わぬ顔で言う。確かに、全部を蔵にしまい込むよりも、客の目に触れるところに置いたほうがいい。酒合戦について知らなかった客でも、話の種にできるだろう。
 十四を店に、残りを蔵に入れたあと、大八車は帰っていった。車力がほくほく顔だったから、源太郎が心付けをたっぷりはずんだに違いない。

「よし、これで酒は大丈夫。料理のほうは?」
「抜かりねえ。青物も魚も注文済みだし、万が一揃わなくても代わりにできる料理まで考えてある。酒も料理も余分がありそうなら、見物券を持ってねえ客にも売れるかもしれねえ」
「そりゃいいな。ますますもうけが増える」
「儲かっても儲からなくても『菱屋』さんにはちゃんと酒代を送れよ」
「わかってらあ」

 それぐらい心得ている、と源太郎は不満そうに答える。算盤そろばん勘定に余念のない源太郎に苦言を呈したくなる気持ちはわからないでもないが、さすがにいらぬ心配というものだ。むしろ、義理人情に篤いあるじが必要以上の代金を送ってしまわないか不安を覚える。
 とはいえ父も、いくら息子たちが世話になっているにしても、気の合わない相手にここまでする人ではない。幼なじみは言うまでもなく、友だちと呼べる相手さえほとんどいないきよにしてみれば、江戸と逢坂と遠く離れても続いている父と源太郎の遥か昔からの交わりが、うらやましくてならなかった。


 正月三日、『千川』の板場は祭りと縁日が一緒になったような騒ぎだった。
 きよと清五郎も夜明け前に『千川』に着いたのだが、そのときにはもう弥一郎も伊蔵もへっついの前に座っていたし、とらも暗い中、掃除を始めていた。
 弥一郎や源太郎はまだしも、伊蔵やとらよりは早いと思っていたのに、と驚く姉弟に、伊蔵が笑いながら言った。

「気が立って寝られなかったんだよ。ちょっと寝ちゃあ目が覚めて、まだ夜は明けねえのか、ってじりじりしてたら、旦那さんたちが動いてる気配がしてさ、もういいや! って起きてったら、おとらさんも起きてて、俺がどんじりだった」
「そうだったんですか……じゃあ、みんな寝足りないんじゃないですか?」
「まあな。でも寝られなかったんだから仕方ねえよ。おきよと清五郎だって似たり寄ったりだろ?」

 夜明け前に店に着いているのだから、そう思われるのも無理はない。だが、実のところ、きよも清五郎もしっかり眠った。なにせ昨夜は、ふたりして家に着くなり寝てしまったのだ。
 遅くまで仕込みがあるから夕飯は店でまかないを食べることになる。それならいっそ、帰りに湯屋も済ませてしまおう、と湯札を持って家を出た。おかげで家に帰るなり寝てしまうことができたし、疲れていたせいか、いつもより深く眠れた気がする。
 朝もいつもよりずっと早く目が覚め、清五郎も声をかけるまでもなく起きてきた。てっきり叩き起こさなければならないと思っていただけに、これにはきよもびっくり。暗い井戸端で煮炊きはできない、ということで、そのまま店に来ることにしたのだ。

「起きたまま……じゃあ、おきよたちは飯も食っちゃいねえってことか?」

 そいつは大変だ、と伊蔵が周りを見回す。
 そのとき、勢いよく引き戸が開き、風呂敷包みを背負った男が入ってきた。

「邪魔するぜ」
彦之助ひこのすけさん!」

 唖然とするきよに、彦之助がにやりと笑って言った。

「しばらくだったな、おきよ。元気そうでなによりだ」
「彦之助さんも……って、どうしたんですか、こんな朝っぱらから!」
「弁当の押し売りにきた」
「お弁当?」
「ああ。今日の『千川』はまかないどころじゃねえ。こいつは『ひこべん』の出番だと思ってさ。あんじょう、おきよも清の字も飯を食ってないらしいじゃねえか。腹が減っては戦はできねえ、まずはこいつを食え」

 言うなり、彦之助は風呂敷包みを開けて破籠わりごを取り出した。

「『ひこべん』特製の五色握り飯だ。具だくさんながらも、一口で食えるように小さく握ってあるから食いやすいって評判なんだぜ」
「五色握り飯?」
「刻んだ梅、浅蜊あさり佃煮つくだに、ほぐした焼き鮭、昆布に……」
「炒り玉子だ!」

 説明の途中で清五郎が歓声を上げた。一緒に覗き込んだ破籠の隅っこに黄色がまじった握り飯がある。一瞬たくあんでもまぜ込んだのかと思ったが、よく見ると確かに炒り玉子だった。
 彦之助が得意そうに言う。

「今日はうんと気張らなきゃならねえだろうから、おごってやった。こいつを食って力をつけな」
「炒り玉子をまぜ込んだ握り飯! なんて贅沢なんだ……こんなことなら俺も朝飯を食わなきゃよかった!」

 伊蔵は心底嘆いている。だが、彦之助がみんなの分を用意していないわけがない。それにたとえ朝ご飯を食べたあとでも、動き回っている間にお腹なんてすぐに空く。手を動かしながら食べればいいだけの話だ。
 彦之助は、伊蔵を安心させるように、風呂敷包みから出した破籠わりごを積み上げる。その数はなんと十八。小さめの破籠にしても、作ったり詰めたりは大変だし、なにより神田かんだから運んでくるのは一苦労だっただろう。

「彦さん、こんなに作ってきてくれたんだ……」
「おう。今日も冷え込んでるからいたむ心配はねえし、まとめて作ってきた。これだけありゃ、一日中まかないの心配はねえ。奥の小部屋に置いとくから、腹が減ったら食ってくれ」
「ありがとう、彦さん! おや……?」

 そこで伊蔵が小首を傾げた。なにかと思ったら、破籠に結んである糸が気になったらしい。

「この糸、白、黒、紺とあるけど、なにか意味があるんですかい?」
「色によって中身が違う。白は五色握り飯、赤は焼き結び、黒は押し寿司だ」
「押し寿司まで!?」
「ああ。神崎様に聞いたけど、先だって、兄貴と伊蔵とおきよで腕比べをしたそうだな。神崎様、どれもいい出来だったってべた褒めしてた。で、あんまり褒めるから、ちょいと悔しくなって俺もやってみたんだ」

 どんな具合か、あとで聞かせてくれよ、と彦之助は急に真面目な顔になって言った。
 親元を離れ、自分の店を持ってなお衰えない競争心に感心させられる。やんちゃ気儘きままな末っ子に見えても、奉公人を抱える店のあるじとしてやっていけているのはこの競争心があるからかもしれない。その場にいなくても、後乗りでも加わって自分の腕を試したい。比べたくなるのは、勝ち誇りたいからではなく、劣っているところを見つけて磨きたいと考えているからに違いない。
 ――人より劣るところをの当たりにするのはつらいけれど、それを避けていては伸びられない。私も人の陰に隠れてばかりじゃなく、ときには前に出て腕を競わなくては……
 そんなことを考えながら、黒い糸が結ばれた破籠わりごの蓋を取ってみる。
 均等に切り分けられた押し寿司は、さばの身がしっかりと白い。十分に酢に浸して締めた証だ。これならたとえ夏の盛りだったとしても、夜までつことだろう。
 きよが開けた破籠を覗き込んだ弥一郎が言う。

「いい出来だ。見たところ、押し具合も頃合いだし、弁当にするのにぴったりの締め加減。食ってみないと味はわからねえが、こんなにきれいな寿司が不味まずいはずがねえ」
「見た目だけはよくて不味い食い物も世の中にはあるがな……でもまあ、ありがとよ。兄貴にそう言ってもらえると安心する」
「おや? おまえ、しばらく会わねえ間に、ずいぶん素直になりやがったな」
「うるせえ。店を持つってのは案外いろいろあってな。粋がってばかりじゃいられねえんだよ」
「そうか……俺にはわからねえ苦労だな」

 弥一郎がわずかにうつむいた。寂しそうな顔つきから、自分はまだ店のあるじではないという気持ちがうかがえる。きっと弟に一歩先んじられたと思っているのだろう。
 そんな気持ちを見透かしてか、彦之助が呆れたように言った。

「なに言ってんだ。店といったって『ひこべん』は雇い人ひとり、店で呑み食いすらさせねえ弁当屋だぞ? 板場にふたり、お運びにふたり、あわせて四人の奉公人を牛耳ぎゅうじってる兄貴のほうが大変に決まってる」
「でも、うちにはまだ親父がいるし」
「親父なんざ、半分、いや三分の二ぐらいは隠居気分だと思うぞ。なにかあったら兄貴に任せて一目散に逃げ出しかねねえ」
「ご挨拶だな、彦之助」
「おっと、いたのか親父……」

 いきなり後ろから声をかけられて、さすがの彦之助もばつが悪そうにする。
 それでも源太郎は、彦之助の差し入れに気づいて礼を言う。

「弁当を作ってきてくれたのか。すまねえな、店の仕事もあるだろうに……。おまえ、これから帰って仕込みをするのか?」

 ようやく夜が明け始めたところとはいえ、深川から神田まで戻って仕事を始めたのでは間に合わない。『ひこべん』のあきないに支障が出るのでは、と源太郎は心配になったのだろう。
 弥一郎がはっとして訊ねる。

「まさかおまえ、全部利八りはちにおっかぶせてきたわけじゃあるまいな?」
「おっかぶせても大丈夫なぐらいの腕利きだが、さすがにそれはない。俺はそんなひでえ男じゃねえ。むしろ滅法奉公人思いの、いいあるじだ」
「ていうと?」

 疑わしげに見る弥一郎に、彦之助は得意満面で答えた。

「利八には一日休みをやった」
「そんな……それじゃ『ひこべん』が回らねえじゃねえか」
「心配ねえ。店ごと休みにしたんだ」
「なんだと!?」
「そんな怖い顔をするなよ、兄貴。なにも店を畳むって話じゃねえ、一日休むだけだ。主は俺だ。店を開けるも閉めるも俺の勝手だ」
「なんて馬鹿なことを……そんな気まぐれなあきないをしてたら、馴染みがつかねえし、ついたとしても離れちまうじゃねえか!」

 源太郎に怒鳴りつけられ、彦之助はそっぽを向く。弥一郎も、あり得ないという顔をしている。
 だが、きよには彦之助の気持ちが痛いほどわかる。おそらく彦之助は酒合戦の話を聞いて、いても立ってもいられなくなったのだろう。いくら自分の店を持ったといっても、生まれ育った『千川』の一大事に、なにかできることはないかと必死に考えた挙げ句、弁当の差し入れを思いついた。ずっと『千川』のまかないを作っていた彦之助だからこその気配りだ。
 もっと言えば『ひこべん』は注文を取って弁当を作る店だ。あらかじめ、この日は無理だと言えば通る。馴染みの客がふらりと立ち寄って、閉まっていてがっかりするなんてことが起きるはずがなかった。

「旦那さん、板長さんも、そんなに怖い顔をしないでください。彦之助さんは、わざわざ店を休んでまで、力を貸しに来てくれたんじゃありませんか。きっと、お弁当の差し入れだけじゃなく、酒合戦そのものも手伝ってくれるつもりなんでしょう?」

 さもなければ、店を休むまでもない。弁当は利八にでも届けさせて自分が仕込みに入れば、つつがなく店を開けられる。それをせずに、自ら届けに来たのは、差し入れの中に助っ人として彦之助自身が入っているからに違いない。


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