きよのお江戸料理日記

秋川滝美

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66 / 80
5巻

5-2

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 大師河原の酒合戦について書かれた仮名草子かなぞうしを読んだとき、驚いたのは、何しょうどころか何樽もの酒を呑んで倒れても、一晩寝たら元通りとか、迎え酒にさらに何升か呑んで帰った、などと書かれていたことだ。
 果たして人間はそんなにたくさんの酒を呑んで平気でいられるのかと疑問に思ったきよが、長兄の清太郎せいたろうに訊ねてみたところ、仰天の種明かしをされた。
 もともと酒は、原酒を水で割って呑むものだが、仮名草子にあるような酒合戦のときはもっともっと薄めてあるに違いない。さもないと、酒を用意するのに金がかかって仕方がないし、呑むほうにしてもまたたく間に倒れてしまって、面白くないどころか命にかかわる、と言うのだ。
 だから、酒を薄めることは知っている。だが、それでも酒合戦に一桁の樽数では到底足りないこともわかっていた。


「板長さん、お酒はどちらから仕入れるつもりなんですか?」

 食い下がるように訊ねるきよに、弥一郎は怪訝けげんそのものの顔で答えた。

「どこって……出入りの酒屋に決まってるじゃねえか」
「出入りの酒屋さんって、予備のお酒をたくさん置いているんですか?」
「年の瀬だし、正月に備えてそれなりに持ってるだろ。その中から少々多めに回してもらえば済む話だ」
「ですから、そんな量では足らないんですって。酒合戦を甘く見ないほうがいいです。とにかく十分な量を……」
「まったく、おきよは心配性だなあ」

 弥一郎は笑って相手にしてくれない。神崎にしても、たかが町人が言い出したお楽しみが、そこまで大がかりになるなんて思ってもいない様子だ。上田は協力を申し出たことで車座の面々から絶賛されて、大いに気を良くしている。
 しかも、座敷では早速、酒合戦の日時やどうやって人を集めるかの相談まで始まった。
 さっきまでだらしなく寝転がっていた男まで背筋を伸ばして座り直し、話に加わっている。どの顔も生き生きと楽しそうだし、真ん中で上田も気を吐いている。このままでは大変なことになる、と肝を冷やしているのはきよひとりだった。
 ――これはもう、この話が稀代きたいの大酒呑みの耳に入らないことを祈るしかない。いっそ、普段の倍ぐらいにお酒を薄めちゃうとか……
 いずれにしても人数がわからなければ始まらない。今できるのは、せいぜい『千川』に入りきる人数に留めてくれ、と祈ることぐらいだ。


 上田と馴染み客の間で酒合戦の話が持ち上がってから十日後の暮れ六つ(午後六時)、あの読売よみうりが大慌てで『千川』に駆け込んできた。このままでは、酒合戦がとんでもないことになると言うのだ。

「まあ落ち着け。とんでもない、ってのはどういうことだ?」

 源太郎が座敷に座らせ、話を聞きに行く。これでしばらくあるじは酒合戦の話にかかりきりだろう。
 今日はそれほど立て込んでいないけど、今はちょっと……と思いながら、きよは網の上の魚を皿に移す。
 味噌に漬けたたいは、ところどころについた味噌がほどよく焦げ、酒も飯も進むこと請け合い。一刻も早く客のもとに届けてほしいのに、源太郎は読売と話し込んでいる。困ったな、と思っていると、が取りに来てくれた。
 とらは『千川』の奉公人で、もっぱらお運びをやっている。きよ姉弟が『千川』に世話になるずっと前から勤めていて、客のこともよく知っていた。

勘助かんすけさんにも困ったもんだ。いくら腕利きの読売だって、そこまで広く触れ歩くことはないのに……」

 ――そうか、あの人は勘助という名で、腕利きの読売なのね……それはさておき、さっさと運んでほしいのだけど……
 そんなきよの心を読んだように、とらは盆に魚の皿を載せて運んでいく。そして、すぐに戻ってきた。注文されている料理はさっきの鯛で終わりで、新しい客も来ていない。しばらく板場もお運びも手が空く、と見越して話をしに来たのだろう。

「それで酒合戦はどんな具合なんですか?」
「それがさ、今の時点で、名乗りを上げたのが五十人もいるらしい」
「ご、五十人!?」

 隣で伊蔵が仰天している。当然だ。そんな人数は『千川』に収まりきらない。表の通りどころか裏の源太郎の家まで使っても入らないし、そもそも家を使うなんて、源太郎はともかく妻であるが許すはずがない。
 それに、五十人が呑み比べをするほどの酒が確保できるとは思えなかった。
 思わず座敷に目をやると、源太郎も唖然としていた。

「なんでそんなに……」

 勘助が申し訳なさそうに言う。

「面白がって見に来るやつらはいるかもしれねえが、酒合戦に出たがる連中がそんなにいるとは思わなかったんだ。それで見物客なら多けりゃ多いほどいいだろって判断で、仲間の読売よみうりにも触れ歩いてもらった。そしたら……」
「江戸中の酒呑みが名乗りを上げたってことか……」
「そうなんだ。しかも、噂によると、一しょう、二升呑み干すのは朝飯前ってのが五、六人まざってる。そいつらだけでも菰樽こもだるが三つぐらいなくなっちまうだろうって……」

 恐るべし読売仲間、ときよは絶句したが、驚いている場合ではない。人数を減らすか、五十人が入りきる場所を確保する必要がある。さらに酒の確保……いくら減らしたところで五十人が五人になったりはしないだろうから、これまでの予想の何倍もの酒が必要となる。
 酒合戦は正月三日に決まったと聞いている。今はすでに霜月しもつきの末、あと一月ひとつきで必要な酒を揃えることができるだろうか……
 ただでさえ足りないと思っていたきよは、酒合戦の成り行きを思って暗い気持ちになってしまう。あれほど楽天的だった弥一郎すら、眉根を寄せて考え込んでいる。源太郎とともに仕入れに関わっているだけに、大量の酒の確保の難しさがわかっているのだろう。

「参ったな。まさかそれほどの人数になるとは……。いくらなんでも、五十人は集まりすぎじゃねえのか? どれだけ酒が呑みてえんだよ」

 弥一郎の呟きに、何食わぬ顔で伊蔵が言う。

「そりゃあ報奨金が出るって聞きゃあ、集まりもしますって」
「報奨金!?」

 弥一郎が板場から飛び出して、勘助に駆け寄った。やはり気になるのか、伊蔵も続く。どういうことだと弥一郎に詰め寄られ、勘助はこれまた後ろめたそうな顔で答えた。

「いや……その……あんまりにも人が集まらないと格好がつかねえと思って、つい……」
「でまかせを言ったのか?」
「えっと、まあ……」
「報奨金の出所は?」
「それはまあ、おいおい……」
「ふざけんじゃねえ!」

 弥一郎の怒号に勘助は縮み上がった。
 普段は物静かな男だけに、たまに怒ると恐ろしい。店の壁に張り付かんばかりになっている勘助は気の毒だとは思うが、『千川』の名を口にしておきながらそんな嘘を吐いたのだから、怒鳴られるのは当たり前、むしろ張り飛ばされなかっただけ御の字だろう。
 それまで黙って聞いていた源太郎が、首を左右に振りながら言う。

「これは困った……それだけ触れ歩いちまったあとでは、報奨金は嘘でしたなんて言えっこねえし……」
「当たり前だ! そんなことをしたら、うちが嘘を吐いたってことにされかねねえ。うちから出すしかない。とはいっても、張り込んでも大判一枚がいいところだが……」

 屋台の寿司がひとつ四もんとか八文、そばが十六文、『千川』で出している酒は一杯確か十六文、料理は二十文からせいぜい百文……そんなあきないをしている店が賞金に大判一枚を出す。いくら酒や料理の代金が入ってくるとはいえ、とんでもない話である。だが、伊蔵の口から出たのはさらにひどい話だった。

「俺が聞いたときは大判三枚って話でしたけどねえ……」
「ええっ!?」

 そこで誰よりも大きな声を上げたのは、勘助だった。

「俺は、報奨金が出るって話はしたが、額までは口にしてねえ。ましてや、大判三枚だなんて……。あんた、いったいどこでその話を聞いたんだい?」

 血の気の失せた顔で勘助に詰め寄られ、伊蔵は小首を傾げながら答えた。

「湯屋で。そういや、最初は報奨金の額までは言ってなかったな……。ただ、三日経ち、五日経ちするうちに、一枚だ、二枚だって話が聞こえてきて、とうとう昨夜は三枚だって」
「噂に尾ひれがついたってことか……」

 さすがに三枚は出せない、それではもうけが吹っ飛ぶどころか大赤字だ、と源太郎は肩を落とす。弥一郎は、おまえがいい加減なことを言ったからだと勘助を責めるし、勘助は勘助で俺は悪くないと言い張る。どう考えても、報奨金のことを言い出した勘助が悪いに違いないのだが、噂の中身までは知ったことではないと言いたいのだろう。

「うちは知らねえぞ。場所や酒の調達はするが、報奨金までうちで払ういわれはねえ!」

 弥一郎は突き放すように言うが、そんな話が通るはずもない。このままでは、勘助だけでなく『千川』の面々も酒合戦に集まった人たちにひどい目にあわされるし、『千川』の名は地に落ちる。
 嘆いていても仕方がない。なにか方策はないのか……と、きよは必死に頭を巡らせる。
 そして、板場の奥の天井近くに設けられている神棚を見てはっとした。そこには、いつの間にか富籤とみくじが置かれていた。おそらく源太郎が買ってきて、当選祈願のために神棚に供えたのだろう。

「あの……富籤みたいにしたらどうですか?」
「富籤? あれは寺や神社だけのものだ。俺たちが富籤なんぞやり出した日には、あっという間に後ろに手が回る。りき様にも大変な迷惑がかかっちまう」

 なにを馬鹿なことを、と言わんばかりの源太郎に、きよは懸命に説明する。この苦境を乗り切るためにはほかに策がないと思ったからだ。

「富籤じゃなくて、富籤みたい、です! 酒合戦に出る人や見に来る人から少しずつお金を取って、それを報奨金に充てるんです」
「なるほど! 出るのに金がかかるとなりゃ、五十人なんて数にはならねえし、見物人にも払わせるなら、それなりの額が集まりそうだ!」

 料理の腕がいいだけじゃなく、なかなかの知恵者だ、と勘助は手を叩いて喜ぶ。だが、源太郎と弥一郎はいずれも渋い顔のままだった。

「おきよ、確かにそれはいい考えかもしれねえ。だが、わざわざ見物料を払ってまで他人が酒を呑むさまを見に来るなんて酔狂なやつがいるとは思えねえ」
「親父の言うとおりだ。むしろ、『千川』はそんなことまでして銭をもうけたいのか、と言われかねない」
「ただ見るだけならそうでしょう。でも、見物客にもお酒とお料理を出したら? それなら悪口を言われることもないんじゃないですか?」
「酒と料理……?」
「はい。ただ見ているのも退屈でしょうから、ってお酒とつまみを出します。お酒は一杯、つまみも簡単なものをちょっとでいいです。あらかじめ見物券を売って、その券と引き換えにお酒とつまみを渡す。うちの料理の宣伝にもなりますよね」

 深川でも『千川』に来たことがない人はたくさんいる。普段は料理茶屋で飯を食ったり酒を呑んだりしない人でも、酒合戦の見物がてら『千川』の料理が試せるとなったら、券を買ってくれるかもしれない。それほど高額にしなければ、それなりの売上げが見込めるのではないか、ときよは考えたのだ。
 弥一郎がにやりと笑った。

「それはいいな。先に券を売れば、金も先に入る。どれぐらいの見物客が来るかの見当もつくし、料理や酒の支度もしやすい。なにより、もし券だけ買って見に来ない客がいれば……」
「うちは丸儲け、ってことか……。弥一郎、おぬしも悪よのう……」

 悪代官みたいな源太郎の言葉に、伊蔵が噴き出す。弥一郎は笑いながら言う。

「まあ『千川』の料理が食えるとなったら、券を買っておいて来ない客はいないだろう。当日具合でも悪くならねえ限り、みんなして押しかけてくるさ。あとは酒の調達だな」
「問題はそれです……」

 どれだけ見物券を売ったところで、肝心の酒がなければ台無しだ。この案だと、酒合戦だけではなく、見物客に呑ませる分まで調達しなければならない。起死回生の一手にあいた大きな穴だった。

「親父、酒屋に注文は出したのか?」
「もちろん。とりあえず菰樽こもだるを十、用意するよう頼んである」
「十か……。それで見物客の分までまかなえるかな」
「怪しいところだ。おまけに稀代きたいの大酒呑みが集まっちまうとなったら……」
「その『稀代の大酒呑み』は参加賃が払えねえってことはないのか?」
「どれぐらいの金を取るかにもよるが、たぶんないだろう。たとえ本人が払えなくても、周りが面白がって払いかねない」

 見知った人間に勝ってほしいと思う気持ちがあれば、金を持ち寄ってでもその大酒呑みを酒合戦に出させるはずだ。そして、江戸というのはそういう者が多い土地柄の気がする、と源太郎は言う。
 確かに、酒合戦に限らず、腕に覚えがあっても様々な事情で表に出ようとしない者を後押しするのは、江戸っ子気質に合っている気がした。

「どう考えても菰樽十じゃ足りねえ。すぐにでも酒屋に増やすように言わねえと。おおもうけできて、酒屋もさぞや喜ぶだろう」

 源太郎は前掛けも外さずに店を出ていく。酒屋は決まった日に注文を取りに来るけれど、次に来るまで待っていられない。客も一段落した昼下がり、自分がいなくても支障はないと判断したに違いない。
 ところが、勢い込んで出かけていった源太郎はすぐに肩を落として帰ってきた。あまりにしょんぼりしているので、酒の注文がうまくいかなかったことが一目でわかるほどである。

「駄目だったのか……」

 弥一郎が眉根を寄せて呟く。源太郎は、そのまま座敷に近づくと上がりかまちに腰掛けた。

「駄目どころかもっと悪い。先に注文した十ですら難しいらしい」
「え、十も揃わねえのか!?」
「蔵元から、酒は一日や二日でできるものじゃねえ、今年の酒はもう売り先が決まってる、急に増やせって言われても無理だ、って言われちまったらしい。おまけに、その蔵元の杜氏とうじがやらかしてたるのいくつかを腐らせちまったとかで、いつにもまして品薄だそうだ」

 その蔵元は付き合いのある酒屋に頭を下げまくって、収める量を減らしてもらっているという。
『千川』に出入りしている酒屋も蔵元の苦境はわかっていたが、まったく余分がないとは思わなかった。注文に応じられなくて申し訳ない、と源太郎に頭を下げたそうだ。

「なるほど……酒屋は酒屋で気の毒だな。まさにない袖は振れねえってやつだ」
「そうなんだ。近頃、なにやらお天道てんとさんの元気がなくて野菜がしっかり育たねえって聞いたことがあったが、酒造りにはそれぐらいのほうがいいと思ってた。まさか、杜氏がやらかすとは……」

 杜氏だって人だ、そんな日もあるだろうが、なにも今年に限ってやらかさなくてもいいじゃねえか、と源太郎は嘆くことしきりだ。ほかにも酒屋がないわけではないが、ずっと付き合ってきただけによそから買うとは言いづらい、と肩を落とした。
 そんな源太郎に、弥一郎が叱るように言う。

「そんなこと言ったって、酒が揃わなきゃすべてが台無しだ。酒屋との付き合いも大事に違いねえが、それで『千川』の評判が地に落ちてもいいのか?」
「だがよう……あの酒屋の先代と俺は竹馬の友、洟垂はなたれ小僧のころからの付き合いだったんだ。子ども時分は風邪ひとつ引かねえ丈夫な男だったのに、流行はやりやまいで早々とっちまってな。一人前になっていなかった息子と女房はいっそ店を畳もうか、とすら言ってたんだ。それを、俺が発破はっぱをかけて……」

 当時を思い出したのか、源太郎の目の端に光るものが浮かぶ。どうやら源太郎は、亡くなった友だちの代わりに息子にあきないのなんたるかを教え、いつも以上に酒を仕入れ、酒屋を続けていけるよう力を尽くしたらしい。
 そうやって支えた店を、酔狂で始まった酒合戦のために無下にすることはできない――いかにもお人好しの源太郎が考えそうなことだった。

「付き合いをやめるわけじゃねえ。それに、酒合戦なんて毎年やるわけじゃないだろ? 今度の酒合戦の分だけ、よそから買うわけにいかねえのか?」
「杜氏がやらかしちまったとこは、かなり大きな蔵元なんだ。うちの出入りの酒屋以外との付き合いも多い。たぶん、よそでも酒は品薄だろうし、普段から付き合いのない店に売ってくれるかどうか……」
「確かに……」

 あるじ親子が揃って肩を落とす。

「だったらもう取りやめでいいんじゃねえですか? 酒が仕入れられねえのは『千川』のせいじゃないんだから、うちの評判が落ちるって話にはならないでしょう」

 主たちの苦境を見かねたように伊蔵が言う。もっともな言い分かもしれないが、きよには少々疑問だ。勘助は、読売よみうり仲間まで使って江戸中に触れ歩いたという。酒合戦の話を聞いた人すべてに事情を説明しに回るのは無理だし、なにより蔵元の事情が津々浦々に知れ渡る。
 酒蔵にとって『酒を腐らせた』というのは恥ずべき話で、それを広められたらたまったものではない。源太郎が気にする『竹馬の友』の息子の酒屋が話のもとと知られたら、付き合いを断られかねない。
 きよの懸念を聞いた源太郎は、ますます頭を抱えてしまった。

「八方ふさがりとはこのことだ。正月まであと一月ひとつきしかねえってのに……」

 取りやめにもできず、酒も揃わない。なんであの日、車座の客の隣に上田を座らせてしまったのか、と悔やんでも悔やみきれない様子だった。

「どこかに酒は余ってねえのかよ……」

 弥一郎が宙を睨んで呟く。
 どうにもまずい状況だと悟った勘助はとっくにいなくなっている。ただただ、重苦しい空気が『千川』を満たす。そのとき、外からせわしない足音が聞こえてきた。暖簾のれんを割って顔を出したのは神崎だった。

「お、揃っておるな」

『揃っておるな』もなにもない。いくら縁日の明くる日で客がさほど多くないといっても、店を開けている最中に主親子や奉公人がどこかに行くわけがないのだ。

「もちろん揃っておりますとも。雁首がんくび揃えて困り果てております」

 ぶすっとしたままの弥一郎に、神崎は首を傾げた。

「なにか困り事でも?」
「ここだけの話……」

 さっきのきよの話で、周りに伝わってはいけないと悟ったのか、弥一郎は声を潜めて事情を説明する。だが、話を聞いた神崎は困るどころか、ぱっと明るい顔になった。

「そうか、酒が揃わぬか!」
「神崎様、なんでそんなに嬉しそうになさるんですか。こちとら生きた心地がしねえってのに」
「すまぬ。だが、そんなおぬしらにいい知らせがある」
「というと?」
「実は、上様が褒美をくださることになってな」
「褒美?」
「うむ。先般、お城の厩方うまやかたの助っ人に行っただろう? そのときの件で上様が褒美を取らせろとおっしゃったそうだ」

 日頃からよく乗っている馬だけに、上様も馬場に出しても動きたがらないことを気にかけていた。馬はあまり動かないと疝気せんきを起こす。愛馬が苦しむさまは絶対に見たくないからなんとかせよ、とのお達しで神崎が呼ばれた。神崎の処置で馬は元気に動くようになり、上様は大喜び。是非とも褒美を……ということになったそうだ。

「しかも褒美は下り酒。俺は食うのと同様、酒もそれなりに好きだが、量を呑めるわけではない。いっそ今度の酒合戦に使ってもらおうとやってきたのだ」
「下り酒!」

 弥一郎と源太郎だけではなく、奉公人たちも一斉に声を上げた。
 京や逢坂で造られて江戸に運ばれてくる酒を下り酒という。江戸界隈かいわいで造られる酒より値が張るものの、味は極上ということで人気が高い。その下り酒を褒美にもらって、そのまま酒合戦に供するなんて、神崎は酒合戦を『千川』で開くことになったのを相当気にかけているのだろう。
 だが、源太郎が慌てて答える。

「いやいや、せっかくのご褒美です。やはり神崎様が召し上がられたほうが……」
「上様は、菰樽こもだるをひとつ丸ごと与えよ、とおっしゃっているそうだ。そんなにもらっても呑みきれない」
「ですが……誰にも気兼ねなくゆるりとやる酒はひと味違いますぜ?」

 神崎は料理もそれなりにする。好きなさかなあつらえて、ゆっくり呑めばいいではないか、と源太郎は言うが、神崎はあっさり首を横に振った。

「いいのだ。家にそんなに大量に酒があったら、うかうか外に呑みにも行けない。たまに『千川』に来て、旨い料理で一杯やる楽しみが失われてしまう」

 そんな目にあいたくないから遠慮なくもらってくれ、と神崎は譲らない。もとより足りない酒のこと、しかも下り酒とあっては断る理由はなかった。
 さらに、きよは考えを巡らす。
 ――見物客の分だけでも、下り酒を使えないものかしら……。値は張るに違いないけれど、お酒がないよりずっといいし、正面切って『下り酒』をうたえば多少高くても見物券を買いたがる人が増えるかもしれない。確保できるお酒とお客さんの数を読むのは難しそうだし、いい具合に船便があるとは限らないけど……
 あえて下り酒を揃えたいから、というのは、出入りの酒屋から買わない理由になる。もちろん、出入りの酒屋でも下り酒を扱っているから全部を逢坂から取り寄せるわけにはいかないにしても、いつもの酒屋で買えるだけ買って、残りを取り寄せるという形ならなんとかなるのではないか。
 今は霜月しもつきの終わりだ。酒合戦を開くのが正月三日なら、なんとか間に合うような気がした。

「あの……旦那さん……逢坂から江戸への船便ってどれぐらい日数がかかるものですか?」
「どうだろう……たしか一月ひとつきぐらいじゃなかったかな」

 源太郎の答えを、弥一郎が即座に否定する。

「それは昔の話だ。沖乗りするようになってから、船便の日数はうんと短くなった。樽廻船たるかいせんなら十日もかからねえのがあるはずだ」
「沖乗り?」

 船のことはほとんどわからない。樽廻船が、かつて江戸と逢坂の間を行き来していた菱垣廻船ひがきかいせんよりずっと速いというのはどこかで聞いたことがあったけれど、なぜそんなに速くなったのかまでは知らなかった。なんとなく、様々な荷を積む菱垣廻船に比べて樽廻船は酒しか積まないから、積み下ろしの順序を考えなくていい分、日数がかからなくなっただけだと思っていたのだ。
 首を傾げるきよを見て、弥一郎が小さく笑った。

「昔の船は、地乗りっていって、陸の近くから陸にある目印を見ながらひたすら漕いでた。そのせいで夜は港町で止まって休むことが多かったんだが、木綿のでっけえ帆を立てるようになって事情が変わった」
「帆……ああ、風の力を借りて進むってことですね」
「そのとおり。沖に出て風に任せて夜中も進む。おかげでぐっと速くなったってわけだ」
「なるほど……全然知りませんでした」
「酒合戦は知ってても、酒を運ぶ船には詳しくねえってことか。まあ、おきよは前から、知ってて当然のことを知らないことが多かったからな」
「弥一郎、てめえが知らなかった酒合戦についておきよが知っていたからって、そんなにいじめるものじゃない。知ってて当然のこと、なんて抜かしやがったが、下りものを扱うあきないでもしていない限り、船便に詳しくないほうが当たり前だ」
いじめてるわけじゃ……」
「まあいい。だが、なんでおきよは逢坂と江戸の間の船便の日数なんて知りたかったんだ?」
「それよ」

 あるじ親子に見つめられ、きよは頭にあった考えを話してみた。
 源太郎と伊蔵は、良案だ、と手を打ったけれど、弥一郎はじっと考え込んでいる。どうやら懸念があるらしい。

「確かに、上方かみがたならそれなりの量の酒があるだろう。今すぐ頼めば、正月に間に合うかもしれない。だがそれも、師走しわす半ばまでに出る船があってのことだ。そもそも、江戸の料理茶屋が頼んだところで、逢坂なり京なりの蔵元が酒を売ってくれるだろうか?」
「それは……」

 答えに詰まるきよを見て、伊蔵が助け船を出した。

「そこはそれ、竹馬の友の出番じゃねえですか? 先代からの付き合いなんだから、少々の無理は通るでしょう」

 出入りの酒屋に仕入れさせて、それを買う形にすればいい。伊蔵の意見はもっともだった。
 けれど、弥一郎の眉間の皺はまったく伸びない。それどころか、さらに皺を深くして言う。

「難しいな。あの酒屋はそんなに手広くあきなっていない。下り酒も扱うには扱ってるが、もっぱら房総ぼうそうの酒だ。そんな酒屋が、今時分に余分な酒を抱えてるような大きな蔵元に言える無理じゃねえ。ましてや今すぐ船に乗せてくれ、なんて……」

 どうかしたら鼻で笑われて終わりだ、と弥一郎は言う。そこで口を挟んだのは、清五郎だった。

「えーっと、それ、うちの親父に頼んでみたらどうでしょう?」
「そりゃどうだろ……」

 源太郎が首を傾げた。
『菱屋』は油問屋だから船便を使っているにしても、樽廻船たるかいせんは酒だけを運ぶ船だ。油問屋が無理を言えるとは思えない、と言いたいのだろう。
 ところが、今度は弥一郎が手をぽんと打った。

「それはいい手だ! 『菱屋』さんには船主の知り合いがいるはずだ。しかも、毎年毎年きちんと使ってるに違いないから、江戸の料理茶屋や酒屋よりも無理が通るかもしれない。訊くだけ訊いてみたらどうだろう?」

 早飛脚を立てれば逢坂まで四日、返事が来るのにまた四日。それでも師走しわすの半ばにはならない。すぐに出る便があれば、ぎりぎり間に合うのではないか、と弥一郎は嬉しそうに言う。
 八方ふさがりの中、ようやく見えた隙間をこじ開ける気持ちなのだろう。

「一か八かやってみるか……」
「全部が一か八かのくわだてだ。ひとつふたつ増えたところでどうってことねえぜ!」

 今すぐふみを書け、と弥一郎は源太郎を裏の家に追い立てる。

「いっそ、年明け早々に着く便があればいいな。初荷で縁起がいいじゃねえか」

 伊蔵の気楽な言葉に、弥一郎が呆れて返す。

「初荷ってのは、正月早々に積み込む荷物だ。年明け早々に着くなら、積み込んだのは年の瀬ってことになる。縁起担ぎは無理だ」
「初めて積み込んでも、初めて着いても、両方初荷ってことにすればいい。江戸っ子は縁起を担ぐから、多少のことには目をつぶるに決まってます」
「いい加減すぎるだろ」
「ともかく、酒がなんとかなりそうでよかったじゃねえですか」
「ま、『菱屋』さんの返事次第だがな」

 依然として客足は途絶えたまま、注文された料理はすべて作り終えている。今ならなんとかなる、と思ったきよは、弥一郎に頼み込んだ。

「板長さん、私も文を書いていいですか?」
「そうだな。おきよからも頼んでもらったほうがいいな」
「そうそう、書いたほうがいい。みそっかすの俺と違って、姉ちゃんの頼みとあらば、おとっつぁんはしゃかりきになるに決まってる」


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