きよのお江戸料理日記

秋川滝美

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4巻

4-1

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 育ちゆく自信



 文政九年(一八二六年)卯月うづき深川佐賀町ふかがわさがちょうにある孫兵衛長屋まごべえながやの井戸端で女がひとり、朝飯の支度をしていた。
 女の名は逢坂おうさかの油問屋『菱屋ひしや』の子として生まれたものの、わけあって三年半ほど前に弟の清五郎せいごろうとともに江戸にやってきた。当初は富岡八幡宮とみおかはちまんぐう近くの料理茶屋『千川せんかわ』で下働きをしていたが、料理の才を認められて板場に入ることになった。
 近頃では任される料理も増え、あるじ源太郎げんたろうや、源太郎の息子で板長を務める弥一郎やいちろうにしばしば料理の工夫を訊ねられる。
 とりわけ弥一郎の弟の彦之助ひこのすけが京での修業から戻ったあとは、同じ道を行く競い相手として切磋琢磨せっさたくまする日々。料理人として生きていく覚悟も定まりつつあった。
 七輪の上の鍋の中では、浅蜊あさりがふつふつと揺れている。昨日振売ふりうりから買って水に浸しておいたので、砂もすっかり抜けているはずだ。そろそろ浅蜊の口が開く。すべてが口を開けたのを確かめて味噌を溶けば、浅蜊の味噌汁が出来上がる。
 しじみ、浅蜊、はまぐり……どの貝も汁にすると絶品だ。ただでさえ大食らいの弟のおかわりが、もう一杯増えること請け合いだった。

「おはよう、おきよちゃん」

 そこにやってきたのは、隣に住む三味線しゃみせんの師匠、だった。
 よねは大層面倒見のいい女で、きよと清五郎が孫兵衛長屋に引っ越してきたときから、なにくれとなく力になってくれている。今使っている七輪にしても、よねが貸してくれたものだ。孫兵衛長屋には一口のへっついが備わっているが、お菜を作るにはやはり七輪がいる。どこで買えばいいかと訊ねたきよに、わざわざ買うなんて銭の無駄、うちにあるのを交替で使えばいいと笑って言ってくれたよねの顔を、今でもきよはよく覚えている。
 口は達者だし、道を外した人間には手厳しいところもあるが、心根がまっすぐで頼りになる。自分の持ち物だというのに、勤めに出なければならない姉弟のために先に七輪を使わせてもくれる。そんなよねをきよは母のように慕い、日々感謝していた。

「おはようございます、およねさん。今日もいいお天気になりそうですね」
「ほんとだね。おや、浅蜊だね。蜆もいいけど、浅蜊はやっぱり風格がある」

 しじみ浅蜊あさりを比べれば当然浅蜊のほうが大きい。それでもやっぱり、風格があるという言い方には首を傾げたくなる。なにせ、どちらも指の先ほどの大きさしかないのだ。
 風格というならはまぐりぐらい大きくないと……と思うが、よねにわざわざ告げるほどのことではない。なによりきよは、蛤は味噌汁よりもすまし汁のほうがいいと思っている。蛤は殻の模様ひとつひとつがなんとも上品で、口を開いたときの姿まで気品が漂っている。味噌汁よりもすまし汁の中にあるほうが、目のご馳走になっていい。
 味噌汁の実として考えれば、浅蜊は蜆より風格があるとするのはあながち間違ってはいないだろう。
 きよはにっこり笑って言う。

「もうすぐできますから、お椀を持ってきてくださいな」
「え?」
「およねさん、浅蜊のお味噌汁は大好物でしたよね?」
「そりゃそうだけど、あんたたちの分がなくなっちまうよ」
「大丈夫です。およねさんの分も含めて作りましたから。ご飯はありますか? まだ炊いてないならお茶碗も……」

 きよたちが引っ越してきた当時、よねは娘のと一緒に住んでいたが、少し前にはなが嫁入りし、今はひとりで暮らしている。これまで飯ははな、お菜はよねと手分けしていたのに、今はどちらもよねが作らなければならない。毎日のことだから大変だろう、ということで、きよは時折お菜やご飯を裾分けするようにしていた。

「ありがと。でも、ご飯はもう炊き上がったよ」
「あら……今日はずいぶん早起きだったんですね」
「近頃、夜明け前に目が覚めるんだよ。たぶん寝るのが早いせいだろうね。はながいたころは、遅くまでああでもこうでもないって話をしてたもんだけど……」
「そうなんですか……」

 はなは、よねが前々から三味線しゃみせんの手入れを頼んでいる琴三味線師右馬三郎うまさぶろうの弟子である孫四郎まごしろうに嫁いだ。孫四郎はそれまで師匠と一緒に須崎すさきに住んでいたが、所帯を持つにあたって近くの長屋に引っ越し、今は夫婦でそこに暮らしている。
 深川と須崎はさほど離れてはいないし、はなも気にして時折よねの様子を見に来ているようだが、やはり同じ家に住んでいるのとはわけが違う。よねの言葉の端々に、ひとり暮らしの寂しさが感じ取れ、きよは返事に困ってしまう。
 そんなきよの様子に気付いたのか、よねが慌てたように言った。

「ごめん、ごめん。朝からしみったれた話をしちゃったね。浅蜊あさり汁、本当にもらっていいのかい?」
「もちろん。なんなら小鍋に分けてもいいですよ。それなら夜も食べられるでしょ? 昨日は浅蜊あさりがすごく安かったからたっぷり買ったんです」
「いやいや、浅蜊汁は煮えばなが一番。一杯いただければ十分だよ。飯はあるし、夜は佃煮つくだにと漬け物ですますよ。そうだ、浅蜊汁のお返しに漬け物を分けよう。暇にあかせて作ってみたんだけど、結構うまくできたんだよ」

 そう言うと、よねは自分の部屋に引き返していく。
 一方きよは、漬け物を作ったという言葉に唖然としていた。
『千川』のような料理茶屋ならまだしも自分の家、特に長屋暮らしで漬け物を作る人は珍しい。漬け物は野菜を干して塩や味噌に漬けるのが基本だ。手間がかかるし、野菜を干すにしても、できたものを置いておくにしても、場所が必要になる。孫兵衛長屋はふたりで暮らせるぐらいだから手狭とまでは言わないが、漬け物樽を並べるほどの広さはない。
 よく作ったなと思う一方で、本当にもらってしまっていいのだろうかときよは思い悩んだ。
 漬け物を漬け込むには時がかかる。おそらくよねは冬の間に大根を干して漬け物を作ったのだろう。去年の冬は大根がずいぶん安かったし、大根の二、三本なら軒下に吊るせる。だが、それでできる漬け物なんて高が知れている。少ししかないのに、苦労して作ったに違いない漬け物を分けてもらうのは気がひけた。
 けれど、よねの性格からして、一度差し出したものを引っ込めるはずがない。困ったなあ……と思いながら待っていると、よねが戻ってきた。手にはお椀と小さなざる……それを見たとたん、きよは歓声を上げた。

糠漬ぬかづけじゃないですか!」

 笊にのせられていたのは、五寸ほどの長さに切った人参と大根、そして独活うどだ。いずれも表面にうっすらぬかが残り、よねの手にも糠が付いている。
 慌ててきよが井戸から水をむと、よねは、ありがとよ、と言いながらまず自分の手、そして漬け物を洗った。

「はいよ。よね師匠のお手製の糠漬けだよ。適当に切ってお上がり」
「ありがとうございます! 私も清五郎も糠漬けは大好きなんです。実家には糠床ぬかどこがあって毎日食べてました。でも江戸に来てからはなかなか食べる機会がなくて……」
「おやそうかい? ならよかった。この間、糠をたくさんもらってね。糠袋ぬかぶくろにするにしては多すぎるから、こんなにはいらないって言ったら糠床にすればいいって言われてさ」
ぬかをいただけたんですか……」

 糠袋ぬかぶくろあかすりに使うものだが、袋は手作りするにしても中に入れる糠は買うのがならいだ。湯屋でも売っていて、確か一袋四もん。小さな袋ひとつ分でもそれほどするのだから、糠床ぬかどこが作れるほどの量なら、相当値が張るはずだ。それがただでもらえたなんて、うらやましくなる話だった。

「また今度もらうことがあったら、おきよちゃんにも分けるよ。でも今は、漬け物だけで勘弁しておくれ」
「ごめんなさい! ねだるつもりじゃなかったんです」
「いやいや、糠漬ぬかづけが好きなら糠床は欲しいに決まってる。糠をくれたのはあたしの弟子なんだ。米屋の子でね、糠はたくさんあるんだとさ。糠床は時々新しい糠を足してやらなきゃならないから、その分はまた持ってくるって言ってたんだよ」
「でもそれはおよねさんが使う分でしょう?」
「大丈夫。実はかなり手のかかる子でね。あたしも気張って教えているせいか、その子の親がなにかにつけ礼をしたいと思ってるみたいなんだ。糠をもらったとき派手に喜んでおいたから、きっとまた山ほど持ってくるさ」

 不出来な子ほどかわいいっていうけど親は大変だ、とよねは笑う。そのあと、少し真面目な顔になって言った。

「そういや、糠漬けを食べるようになってから、なんだか身体の調子がいいよ。夏の盛りが来たら、おきよちゃんもまた具合が悪くならないとも限らない。糠漬けを食べてお気張り」
「……ありがとうございます」

 よねは、きよが一昨年おととし具合を悪くしたとき、日に何度も様子を見に来てくれたし、そのたびにもっと食べて力を付けなければいけないと口を酸っぱくして言った。
 しかも、ただたくさん食べるだけではなく、いろいろなものを食べたほうが元気が出ると助言もしてくれたうえに、精が付きそうな江戸の食べ物をいろいろ教えてもくれた。
 納豆を少しずつでも食べるようになったのも、よねにすすめられたからだ。逢坂にいたときは毛嫌いしていたけれど、身体のためと思って食べているうちに強い匂いにも慣れ、少しはおいしいと思えるようになってきた。納豆に比べれば、もともと好物だった糠漬けを食べるのは容易たやすい。
 気になるのは糠床の手入れだが、よねいわく『あたしにもできるぐらい簡単』だそうだからなんとかなるだろう。

「じゃあ、もしも次に持て余すほど糠をいただくことがあったら分けてください」
「まかせときな。暑くなれば茄子なすが出てくる。うんざりするような暑い日でも、茄子の糠漬ぬかづけがあればご飯もすすむってものさ」
「そうですね。実家にいたときは、夏になるとご飯に水をかけて食べてました。冷たい井戸水と一緒にご飯をさらさら掻き込んで、合間に茄子やうりの糠漬けを……」
「勘弁しておくれ」

 話し続けていたきよを、よねがやんわり止めた。
 なにか気に障ったのだろうかと首を傾げるきよに、よねが苦笑いで言う。

上方かみがたならそれもできるだろうけど、深川のしょっぱい井戸水じゃ難しい。うらやましくなっちまうよ」
「ごめんなさい。そうでしたね……」
「いいよ、いいよ。考えてみれば、お里で食べてたものを思い出すのは当たり前。あたしが無粋ぶすいだった。でも、井戸からむだけでうまい水が手に入るっていうのは贅沢なことなんだよ」
「本当ですね」
「ま、冷たい井戸水でさらさらーっと、とはいかなくても、糠漬けは食べられる。青物にいい顔をしない清ちゃんだって、漬け物なら喜んで食べるだろうさ」
「はい。早速朝ご飯にいただくことにします」
「それがいい。あたしも朝ご飯にするよ。浅蜊あさり汁をもらったからお菜も作らなくて済んで助かった。あ、七輪はそのままにしておきな。あとであたしが始末しておくから」
「でも……」
「いいから。急がないとお勤めに遅れちまうよ」

 そう言うとよねは、きよがよそった浅蜊あさり汁を持って戻っていった。
 いつもなら、きよが朝ご飯の支度を終えた七輪をよねがそのまま使うから、きよが炭の始末をすることはない。よねが使わないとなると、きよが片付けなければならないのが、どうやらよねが片付けてくれるらしい。
 確かに、話している間にいつもより遅くなってしまっていたため、よねの言葉はありがたかった。

「ありがとうございます。よろしくお願いします!」

 家に戻るよねに礼を言い、きよも鍋を持って立ち上がる。
 そろそろ清五郎に任せてきた飯も炊き上がるころだ。熱々の浅蜊汁と糠漬け、炊き立ての飯……これ以上はないほど上等、そして姉弟の好物揃いの朝ご飯だ。しっかり食べれば今日も一日元気に働けるだろう。


伊蔵いぞうかつおを頼む」
「へーい……」

 弥一郎の指示に、伊蔵がなんだか歯切れの悪い返事をした。
 いつもならもっと元気な声を上げるのに……と思っていると、伊蔵はうつむき加減で眉根を寄せている。視線の先にあったのは、へっついだった。
 さらに伊蔵の呟く声が聞こえてくる。

「鰹の叩きはうまいし、よく売れるのはわかってるけど……」
「今日は少し暑いですもんね」

 きよの言葉に、伊蔵は軽く頷いて答えた。

「そうなんだ。旨くてよく売れる鰹の叩きは、作るのが大変。まあ手間がかかる分、刺身よりいい値が付けられるんだろうけどさ」
「鰹のお刺身は人気ですが、うちのお客さんは叩きが好きな人が多いですよね」
「あーあ……お馴染みさんがこぞって『鰹は刺身に限る』って人ばっかりなら、延々とわらを燃やし続けなくてすむんだけどなあ……」
「でも暑い日は、生の鰹はいたみが早いです。やっぱり叩きにしておくほうが少しは安心じゃないですか?」
「それを言われちまうと、ぐうのも出ねえ。それにしたって、藁ってのはどうしてこうも勢いよく燃えるんだろ……」

 伊蔵の愚痴が止まらない。これほど暑さに弱い人だったのか、と驚きながらも、きよはちょっと考える。このまま嘆き続けていては弥一郎に叱られてしまう。いっそ自分が代わってやってもいいのだが、弥一郎が伊蔵に指示を出した手前、差し出たこともできないし……と思ったとき、とある料理を思いついた。

「板長さん、今日の鰹はただの叩きじゃなくて小川叩おがわたたきにしてみてはどうですか?」
「小川叩きか……それもいいな」

 きよと弥一郎の言葉に、伊蔵が首を傾げた。

「小川叩きってなんですか?」
「塩を振った鰹の身を細かく刻んで、杉板に張って湯をかけるんだ。そうしておいて水で締めるとこはいつもの叩きと同じだがな」
「なんで小川叩きって名前になったんですか?」
「さてな。おおよそ、ざあざあ湯が流れるさまが川みたいだからじゃねえのか?」
「へえ……それならずっとへっついの前に座ってなくて済みますね」
「そういうこと。湯を沸かすのは大変だが、杉板を並べといて一気に湯をかければ出来上がる。料理人がわらの強い火にいつまでもあぶられることもなくなるってもんだ。よし、今日のかつおは小川叩きにしよう」
「やった!」

 嬉しそうな伊蔵の声が板場に響き渡った。
 伊蔵がいそいそと奥に入っていく。奥の洗い場の脇にあるへっついで湯を沸かすのだろう。あそこなら裏口を開けっ放しにしておけば少しは風が抜けて、板場よりずっとしのぎやすいはずだ。
 伊蔵が奥に入ったあと、弥一郎がきよに言う。

「鰹はいたみやすい魚だから、持ちを良くするためには火を通すのが一番ってことで炙ってたが、湯をかけたって同じことだよな。これから暑さはどんどん厳しくなる。辛抱ならねえような日は、小川叩きにしよう。きっと客も珍しがるぞ」
「今まで鰹を小川叩きにしたことはありませんでしたからね。でも、今日はいいにしても、お客さんたちは『やっぱり叩きがいい』って言い出すかもしれません」
「なんでだ?」
「藁で炙ると独特の風味が付きますよね? 小川叩きではあの風味は出せません。鰹はあの風味があってこそ、って言われたら……」
「なるほど。それなら明日はもうちょっと過ごしやすい陽気になってくれることを祈るとするか。だいたい、鰹が旬の時季にこんなに暑いのが間違ってる」
「本当ですね。鰹の小川叩きは今日だけですんでほしいです。でもほかの魚なら、たまには小川叩きにしてもいいと思います。あ、小川造りでも……」
「小川造り……ああ、叩きみたいに細かくしちまわず、皮目に細かく包丁を入れて湯をかけるやつか。それにしても、小川叩きといい、小川造りといい、おきよはよく知ってる……そうか、おとっつぁんのおかげだな?」

 以前、きよが料理について詳しいのは、実家の父がいろいろなものを食べさせてくれたおかげだと話したことがある。おそらく弥一郎はその話を覚えていて、小川叩きや小川造りもそのうちのひとつだと察したのだろう。

「そのとおりです。父は寄り合いとかで珍しい料理が出されると、たいてい持って帰ってきてくれました。おかげでいろいろな料理を知ることができたんです」
「いいおとっつぁんだ。おかげで『千川』は大助かり。で、逢坂の小川叩きや小川造りはどんな魚を使ってた?」
「叩きはあじ、造りは鯛が多かったですね」
「鯛はいいな! 小川造りは火が通ってるのに焦げ目はつかねえし、煮物みたいに醤油の色に染まることも、揚げ物みたいに粉で隠れることもねえ。鯛の皮は湯をぶっかけたら鮮やかな桃色になるから見栄えもいい。さぞやいい値が付けられるだろう」

 弥一郎がにやりと笑った。
 きよが板場に入ったころは、料理一辺倒な人だとばかり思っていたが、近頃の弥一郎はなかなかの商売人だ。さすがは源太郎の息子なだけあると感心する一方で、弥一郎が『千川』のあるじを務める日のことを考えたりもする。
 今は源太郎がいるから板長に専念していられるけれど、主になったら帳面付けや仕入れ先との話し合い、客の相手だってしなければならないだろう。弥一郎が板長を退くとは思えないが、今ほど板場だけに目を配ることはできなくなるかもしれない。
 ――今はまだ、旦那さんもお元気だけど、いつかは代替わりする日が来る。もしかしたら、逢坂のおとっつぁんみたいに早めに楽隠居したいって思うかもしれない。そんな日がいつ来てもいいように、修業に励んで板長さんの手をわずらわせずに済むようにならないと!
 そんなことを考えているきよを尻目に、弥一郎は首を捻っている。

「刺身よりいくら高くできる……いや待て、手をかけるには手をかけるだけの理由がある、さては古い魚だな、とか勘ぐられるかな……」

 弥一郎は、うちの客は口が肥えてる上に、いろんなことを知ってやがるから……と苦笑いしている。ただ、そんな客がたくさんついているのは、料理茶屋にとっていいことでしかない。難しい客を満足させる料理を作れることすなわち、店の評判もますます上がることでもあるのだ。
 奥からは、とんとんという包丁の音が聞こえてくる。時折鼻歌がまじっているから、伊蔵は機嫌良く仕事をしているようだ。
 もうすぐ店を開ける刻限だ。伊蔵に負けずに励もう。今日はかつおだけではなく鯛も仕入れた。刺身で出すにしても、小川造りにするにしてもうろこは邪魔でしかない。まださばくことはできなくても、鱗の始末ぐらいはできる。弥一郎が思案している間に落としてしまおう、ときよは包丁を握る。
 そこでまた弥一郎に話しかけられた。

「おきよ、小川叩きや小川造りなら弁当にも使えるよな?」
「届けてすぐに食べてもらえるなら大丈夫かと……」
「……よし、あとで彦之助にも教えてやろう。あいつ近頃、献立に難儀してるようだからな」
「そうなんですか?」

 彦之助が、時折『千川』に現れる与力よりき上田うえだに頼まれて弁当を作り始めて半年近く過ぎた。
 もともとは上田が自分の部下の褒美用にと作らせたものだが、深川にその店ありと評判の『千川』の弁当だけに、部下たちは大喜び。手柄を立てるべくお勤めに励んだせいで、上田の同僚たちも弁当を褒美にしたいと言い出した。
 月に数度だった弁当の注文は少しずつ増え始め、今では三日に一度は注文が入っている。
 源太郎は、同じ人がもらうわけではないのだから、ずっと同じ料理を詰めたところで文句など出ないはずだと言うが、彦之助は首を縦に振らず、少なくとも同じ月のうちは同じ料理を詰めずに済むよう頑張っている。おそらく料理人の矜持きょうじが許さないのだろう。
 甲斐あって、今のところ上田もその同僚も満足していると聞いている。そのため、きよには『難儀している』というのは少々大げさのように思えた。
 ところが弥一郎の返事は、そんなきよの考えをくつがえすものだった。

「実は、弁当の注文がまた増えそうなんだ」
「というと?」
「うちが弁当を作ってるって話を聞きつけたやつがいるらしくて、なんとか自分たちにも売ってくれないかって声が上がっているそうだ」

 上田がらみ以外の注文まで受けるとなると、毎日のように弁当を作ることになりかねず、献立作りはますます大変になる。
 弥一郎は同じ料理人として、代わり映えしない弁当を作りたくない彦之助の気持ちがわかるのだろう。だからこそ、どんな料理なら弁当に詰められるか、といつも考えているに違いない。

「そうだったんですか……。注文が増えるのはいいことですが、彦之助さんは大丈夫なんですか? 献立はともかく、作りきれなくなったりは……」
「俺もそれを心配してる。彦の野郎は近所からの注文を受ける気満々なんだが、注文を受けるだけ受けて届けられねえなんてことになったら、うちの信用にもかかわる」
「それ以前に、あんまり無理をして身体を壊しても……」
「それもある。今以上に注文が増えるとしたら、なにか手を考えねえと……」

 手を考えるとは? と突っ込んで聞きたかったが、あいにく店を開ける時刻が迫っている。やむなくそれ以上の問いは重ねず、きよはうろこ取りに専念した。


 彦之助が店に現れたのは、その日の昼八つ(午後二時)のことだった。
 今日は弁当の注文がなく家にいたようだが、昼の書き入れ時が過ぎたころを見計らって来たのだろう。
 彦之助は店に入ってくるなり客たちに料理が届いていることを確かめ、弥一郎に話しかけた。

「兄貴、明日の献立はもう決まったのか?」
「明日? あらかた決めてはいるが……どうした?」
「弁当の注文が入った。しかも与力よりき様から」
「与力様? 昨日届けたばかりじゃなかったか?」
「そうなんだ。別の人からならともかく、与力様では同じ料理を詰めるわけにいかねえ。どうせ部下たちが、興味津々で見に来るに決まってる。届けるのは明日だが、こいつは一昨日おとといと同じだな、なんて言われたくねえよ」
「与力様もお人が悪い。もうちょっと日を離してくれればいいものを、なんだってそんなに続けざまに注文してくるんだ」
「それが、なんだかやむを得ない事情らしい」

 弁当目当てにみんなして勤めに励んでいたが、どうにも弁当にありつけない部下がいる。日頃から真面目な上に、ここぞというときの働きは目を見張るものがある部下だったのに、褒美に弁当を出すようになってからは一度も目立った手柄を立てていない。
 不思議に思った上田が本人に訊ねたところ、手柄をほかの人間に譲っていたことがわかった。自分には料理上手な妻がいる。褒美をもらわなくても十分旨い飯が食えるのだから、弁当は仲間に譲りたいと考え、仲間が手柄を立てる手伝いばかりしていたそうだ。
 本人がそういう考えならば仕方ないと一度は納得した上田だが、ある日、たまたま部下同士が話しているのが聞こえてきた。
 その場にいたのはすべて妻帯者、かつ自分の妻について語っていた。
 大半が取るに足らない話の中、ひとつだけ気になることがあった。くだんの部下の妻が、褒美の弁当を食べたがっている。世に名高い『千川』の弁当を食べてみて、自分の料理にも生かしたいと思っているのに、待てど暮らせど夫は弁当を持ってこない。今まであんなに手柄を立てていたのにどうしたことだろう、と首を傾げている。それどころか、どこか身体の具合でも悪いのかと心配し始めた――というのが、その場にいた部下たちの話だった。
 ちなみにその場に件の部下はおらず、話を持ち出した男も、自分の妻から聞きかじっただけらしい。

「手柄を人に譲ってばかりの部下も、女房の心中までは知らない。さすがにこれでは妻も本人も気の毒、なんとかせねばって与力よりき様は考えたんだとさ」
「なるほどな。で、与力様はどうしたんだ?」
「こっそり弁当を頼んできた。しかも、その部下の分とお内儀の分でふたつ。これまで手助けした分を考えたら、ふたつだって少ないぐらいだが一度にたくさんもらっても困るだろうしって」
「なんだ……それなら問題ないだろう」

 ほっとしたような弥一郎の声に、きよも内心大いに頷く。
 こっそり頼まれてこっそり届けるなら、その部下夫婦以外の目には触れない。『一昨日おとといと同じ』なんて言葉は出ないはずだ。
 けれど彦之助は、大きなため息とともに言う。

「それはそうなんだが……その部下ってやつが一昨日の弁当を見てないとは限らねえ。口には出さなくても、なんだ同じか、って思うかもしれない。それだけで俺はいたたまれねえ」
「面倒な男だな……。とはいえ、俺がおまえでも同じように考えたかもしれん。それで『千川』の明日の品書きを聞きに来たってわけか」

 弥一郎は、無言で頷いた彦之助をしばらく見たあと、すっと手を伸ばした。

「帳面を見せろ」
「え?」
「おまえが弁当の中身を書き付けてるやつだ。どうせ今もふところに入れてるんだろ?」
「……ああ」

 なんで知ってるんだよ、と呟きながら、彦之助は帳面を取り出す。半紙を四つ折りにしたぐらいの大きさで、糸でじられている。売られているものではないから、彦之助が自らじたのだろう。
 弥一郎は前掛けで手を拭ってから帳面を受け取る。大事な帳面に濡れた手で触ってはいけないという気遣いに違いない。京から戻ったばかりのころはかなり険悪だった兄弟仲も、このところすっかり落ち着いたように見える。やはり弁当専門とはいえ、彦之助が『千川』の仕事の一部を担うことになったのがよかったのだろう。
 弥一郎は、帳面をめくって昨日の弁当の中身を確かめている。きよは弥一郎の隣に座っているから、見ようと思えば見られる。盗み見のようで気がひけたものの、やっぱり気になって覗いてみると、そこには文字だけではなく絵まで描かれていた。
 弥一郎も驚きの声を上げる。

「絵まで添えてるのか。大層なことだな」
「絵があったほうが思い出しやすいからな」
「確かに。それに、同じ料理を使っても盛り付けを変えれば違う弁当に見せることもできる。どうにもならないときは、それも一手だぞ」
「ああ。そこも踏まえて絵を残してる。でもそれは最後の最後だ」
「なるほどな。ふむ……昨日は菜めしに芋の田楽でんがく、魚は鮭の味噌焼きか……いいもの入れてやがるな」
「あ、いや……その鮭は……」

 慌てたように彦之助が口を開くも、弥一郎はあっさり片手で制した。


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