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3巻
3-3
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「どうした?」
「おとっつぁんは、私たちを連れ戻しに来たって本当?」
「……聞いちまったのか」
「ええ。板長さんから……」
「連れ戻すって……俺も?」
「おまえじゃなくて、おきよの話だ。でもまあ……そこはおまえたちのおっかさん――おたねの深謀遠慮ってやつかもしれねえ」
「どういうことだい?」
清五郎の素っ頓狂な声に、父は苦笑いで答えた。
「まさかおまえがこんなにしっかりしてるとは思ってなかったからな。おきよを連れ戻したら一緒に帰ってくる、とでも思ったんだろ」
「いやいや、それはねえよ。だって、俺は侍の子相手に悶着を起こして江戸に逃げてきたんだぜ? 下手に戻ってあの侍親子に見つかったら、それこそ酷い目にあわされちまう」
酷い目どころか、命すら危ないと清五郎は言うし、きよもそのとおりだと思う。だが父によると、事情が変わったらしい。
「あの侍親子、国元に帰ったんだ。帰ったと言うより帰された」
「帰された? どういうことだい?」
「もともと理不尽な物言いをする連中だった。それは俺たち町人を下に見てのことだとばかり思っていたが、どうやら侍同士でも同じで、問題ばかり起こしていたらしい。挙げ句の果てに、言いがかりをつけては金をせびり始めて、これ以上蔵屋敷にはおいておけないってことで役を解かれたそうだ」
「ひええ……とんでもねえな」
「だろ? ま、そんなわけであいつらはもう逢坂にはいない。おまえたちが戻っても大丈夫ってわけだ。まあ、おたねは心配もさることながら、寂しいんだろうな」
長女のせいはとっくに嫁入りしたし、長男で『菱屋』の主の清太郎は所帯を持った。番頭を務める清三郎も近々嫁を取るという。子どもが次々と一人前になっていくのは嬉しい半面、残った子が気にかかる。あの侍親子はもういないし、離れたところで心配しているぐらいなら、いっそ呼び戻せばいい、とたねは考えたらしい。
「うーん、おっかさんらしいと言えばらしいけど、それって姉ちゃんはどうなるの?」
きよは双子の片割れ、忌み子として生まれ、隠されて育てられてきた。清五郎はきよが逢坂に戻ったらどうなるのかが気になるのだろう。
「おたねは、元どおりでいいじゃないかって……」
「元どおり、家から一切出ずに隠れて暮らせってこと? それってあんまりじゃねえか! こうやって外を知ったあとであんな暮らしに戻るのは酷すぎる!」
「だから、それはおたねの考えだよ」
父が宥めるように言うが、清五郎の勢いは止まらない。
「なにより、姉ちゃんは料理修業のまっただ中。いや、もう料理人として身を立ててるんだぜ? 今逢坂に戻られたら『千川』だって困る」
『千川』は本当に困るんだろうか……という疑問が頭を過る。元々いなかった人間、しかも店に出ていたのは一年ほどのことだ。きよがいなくなって、いきなり商いが後ろ向きになったりしないはずだ。
知らず知らずのうちに俯いていた。そんなきよに、父が窘めるように言う。
「おきよ、そんなふうに俯くから源太郎さんも、あの板長さんも気にかけるし、俺だって心配になる。家にいたころのおまえしか知らなければなおさらだ」
「家にいたころ……」
「ああ。人の目から隠れるのが習い性になってた。育ちを考えたら仕方ねえが……」
「そういや、そうだったな。姉ちゃんは、おとっつぁんの前でもなんかおどおどしてた」
「だからこそ、そんなんで客の前に出られるのかって心配になったんだ。でもまあ、今日の様子なら大丈夫だろう」
妙に得心している様子の父に、きよは思わず訊ねた。
「今日の様子ならって?」
「鰹の刺身に大根おろしじゃなくて辛子を添えたところも、汁の実を逢坂ではなかなか食えねえ納豆にしたのも、青菜をたっぷり入れたのも、全部俺の好みを入れてのこと。普段からさぞや客の好みを考えて料理をしてるんだろう」
「それはまあ……」
「それだけじゃない。なんて言うかな……目が違う。家にいたころとは段違いだ。おきよは育ちのせいか、年よりもずっと落ち着いていたし、気配りもあった。人、ものを問わず周りをよく見てもいた。それでもなお、ただ聡いとしか思わなかった。だが今は違う。目に力が入った。おそらく、これからの道、目指すところを見つけたからだろう」
「だよな! 俺もそう思う! そりゃあ確かに、板長さんや旦那さんの前では心配そうな顔をするときもあるが、客の前に出るとぴしっとするんだ。客のためになる、客に喜んでもらえるとなったら、板長さんにだって言い返しそうだ。なにより、姉ちゃんには江戸の水が合ってるし、逢坂に戻るなんてあり得ねえ」
「でも清五郎、そう言うあんたは?」
自分はここにいたい。江戸に来てから食べ物への気遣いが足りずに一度身体を壊した身としては、水が合っているかどうかは怪しいとは思うものの、江戸、そして『千川』こそが自分の居場所だと感じる。
だが、清五郎は違う。何せ『千川』では奉公人だが、『菱屋』では主の弟なのだ。いずれ番頭にだってなれるかもしれないし、周りの扱いも全然違うだろう。
「あんたは戻ったらいいよ。そのほうがおっかさんも喜ぶ。大丈夫、『千川』の皆さんはとても良くしてくれるし、長屋の人たちだって悪い人なんていない。私ひとりでもなんとかなるわ」
「馬鹿言ってんじゃねえ! 姉ちゃんは俺のために江戸まで来てくれた。散々世話になって、面倒もかけ倒したのに、あの侍親子がいなくなったからって姉ちゃんをひとりにして帰れるかよ! 俺はそんな恩知らずじゃねえ!」
「いいのよ、そんなことは……あんたが戻りたいなら、気にせず逢坂に……」
「戻りたくなんてねえよ。逢坂でもときどき店に出てたけど、しくじったところでこっぴどく叱られることなんてなかった。兄ちゃんたちは俺には甘かったし、周りにしても主の弟を叱りつけたりしねえ。俺はそれをいいことに、いい加減なことばかりやってた。当然、当てになんかされるわけがねえ」
「当てにされたかったの? てっきり、あんたは気儘に過ごしたいんだとばかり……」
「そりゃあがきのころなら気儘は楽しいさ。でも、いつまでもそんなじゃいられねえ。自分の口ぐらい自分で養わなくてどうする。ちゃんと自分なりの役目を果たして給金をもらう。それができてこそ一人前だし、そのためには江戸、いや『千川』を離れるわけにいかねえんだよ!」
「よく言った!」
清五郎の言葉に、父が膝を打った。
「本当に大人になった。おまえも、ようやく働くことの大事さがわかってきたんだな」
「遅まきながら、だけどな」
「じゃあ……あんたも一緒に江戸に残ってくれるの?」
「残ってやるっていうのはあんまりにも恩着せがましい。本当は、俺も江戸にいたいだけ。おっかさんには気の毒だけど……」
おそらく母は、清五郎の帰りを待ちわびているだろう。もちろん、きよのことも待っていてくれるにちがいない。それがわかっていても、戻りたくない。自分たちの暮らしはここにある、という確信があった。
「おたねのことは気にかけるな。子どもなんざ、いつかは巣立つものだし、そうでなくては困る。なあに、清太郎は所帯を持ったし、清三郎だって近々祝言。そのうち赤子だって生まれるはずだ。孫の世話で忙しくなれば、おまえたちのことを気にかける暇はなくなる」
「それはそれでちょいと寂しいなあ……。目に入れても痛くない息子と孫……どっちに軍配が上がるかねえ……」
「あんた、赤ん坊と張り合う気なの? 赤ん坊には太刀打ちできないに決まってるじゃない」
「残念無念……おっかさん、俺を忘れねえでくれよぉ……」
清五郎は最後の最後で、甘ったれの末っ子としか思えない言葉を吐く。やっぱり清五郎は清五郎よね、と呆れたところできよは我に返った。
「ごめんなさい。おとっつぁん、お腹が空いたわよね?」
「おとっつぁんだけじゃなくて、俺も腹ぺこだよ。手伝うからさっさと飯にしよう」
「ありがと。じゃあ、あんたはお膳の用意をしてね」
「ほいよ」
軽い返事で奥に向かった清五郎は、箱膳を運ぼうとして手を止めた。
「こいつは困った……姉ちゃん、おとっつぁんの分がねえ」
「あ……」
布団を忘れていたのだから当然、膳の用意もない。やむを得ない。自分の分を使ってもらおうと思っていると、父が自分の前に箱膳を置いた。驚いて訊ねると、日暮れ前に彦之助が届けてくれたものだという。
「彦之助さんが?」
「ああ。布団がないぐらいだから、膳も一式ないだろう。いらねえかもしれないが、ついでだからって……」
「ついで? でも布団は昼のうちに運んじまったじゃねえか。なんのついでだ?」
「実は、飯を届けてくれたんだ。店は大忙し、もしかしたらおきよたちの帰りが遅くなるかもしれねえ。空きっ腹は辛いだろうからってさ」
「飯だと? どんな?」
「田麩をまぜ込んだ握り飯。近頃『千川』で人気なんだってな。今は俺が引き受けてますが、もともとはおきよの考案、おきよの味付けです、って……」
旨かったよ、と父は嬉しそうに言う。一方、清五郎はきょろきょろとあたりを見回す。
「それって残っちゃいねえのか? あ、こいつだな!」
清五郎が、上がり框の脇に置いてあった風呂敷包みを見つけて歓声を上げる。大きさや形から見て、重箱が入っているらしい。少々小振りながらも二段、いや三段重ねだろう。
「残ってるよ。こんなにあっては食い切れるわけがない。それに、どうせならおまえたちと一緒にと思って、ひとつだけにしておいた」
うっかり食べたらあまりに旨くて、我慢するのが大変だった。いっそひとつかふたつしかなかったら、食い切ってしまえたのに、と父は苦笑いで言う。
「どうせおまえたちもくたくたで帰ってくるだろうから、晩飯をこいつで済ませられるようにって言ってたよ」
「本当だ。たっぷり入ってる。あ、お菜まで……。俺は青菜はあんまり好きじゃねえが、姉ちゃんは大喜びだ」
三人でも十分な数の握り飯と小松菜の胡麻和え、脇には香の物も入っている。朝作った味噌汁を添えれば立派な、いや普段からは考えられないほど贅沢な晩飯となる。
今日父が着くとは思っていなかったため、夕飯だってろくな用意がない。心の中で詫びながら、明日こそは……と思っていたのだ。それだけに、彦之助の気遣いが身に染みた。
「今度会ったら彦之助さんにしっかり礼を言わなきゃ。ってことで、ありがたくいただこうぜ! 味噌汁はちょいと足りねえけど、三人でわけっこしよう」
そう言うと、清五郎が冷えた味噌汁を三つに注ぎ分け、遅い夕食が始まった。
翌日、井戸端でよねに会った。
いつもどおりに礼を言って七輪を返すと、よねは明るい笑顔を見せた。
「おとっつぁんがおいでなんだね。楽しそうでなによりだ」
「ありがとうございます。あ、遅くまでうるさくしてすみませんでした!」
ただでさえ帰ったのが遅かったのに、それから彦之助が届けてくれた握り飯の話で盛り上がり、そのあともふたりの『千川』での修業ぶり、逢坂の家族や京の姉の様子などで話が弾んだ。
とりわけ清五郎は楽しそうで、ついつい声が大きくなっていたような気がする。自分たちは話に夢中だったけれど、隣のよねやはなにはさぞや迷惑だったことだろう。
ところが、申し訳なさに詫びるきよに、よねは大笑いだった。
「なに言ってんだい。久しぶりの親子水入らずじゃないか。賑やかなのは当たり前、あんまり静かだと、親子仲を心配しちまうよ」
「それはそうなんですけど、やっぱり……」
「そんなことで気を揉むんじゃないよ。うちだってしょっちゅう騒いでる。おまけにこっちは親子喧嘩だ。女が高い声できゃんきゃん言い合ってるのに比べれば、おきよちゃんたちの話し声ぐらいなんてこたあない。それにおとっつぁん、あんたたちの部屋に着くなり、挨拶に来てくれた」
「ああ、やっぱり……大家さんと一緒に?」
「ああ。大家さんが、この人はおきよちゃんたちのおとっつぁんだよ、ってさ」
よねによると、彦之助はまっすぐ大家のところに行き、三人揃って孫兵衛長屋に来たそうだ。まずきよたちの部屋に布団を置き、そのあと隣のよねに父を紹介してくれたという。思ったとおりとはいえ、なんともありがたい話だった。
「そうそう、お土産におこしまでもらっちまったよ」
「ああ、『岩おこし』ですね」
「それそれ。そう言ってた」
さっそく食べてみたところ、甘くて生姜や胡麻の風味がなんとも言えなかった、とよねは言う。どうやら逢坂名物のお菓子を気に入ってくれたようだ。
おとっつぁんによろしく伝えておくれ、と言ったあと、よねは鍋に削り節を入れる。手元には油揚げもあるから味噌汁に仕立てるのだろう。長々と話していては邪魔になるし、なによりきよが作った味噌汁も冷めてしまう。清五郎に任せてきた飯も炊きあがるころだ、ということで、きよは部屋に戻ることにした。
「姉ちゃん、飯は炊けてるぜ。さっさと飯にしよう!」
引き戸を開けるなり、清五郎が声をかけてくる。あまりにも元気な声だったため、父を起こしてしまう、と心配になったが、父はとっくに起きていて、布団もきちんと片付けられていた。せめてゆっくり寝てもらおうと、そっと井戸端に出ていったというのに、これでは台無しだ。
「おとっつぁん、ごめんなさい。ばたばたうるさかったわよね。これじゃあ朝寝もできやしない」
「心配いらねえよ。昨日は昼寝だってしたし、夜もぐっすり眠れた。これでも朝寝したほうだ」
いつもは日の出の前に起きている。今日も目は覚めていたが、清五郎やきよを起こしては気の毒と思って、そのまま横になっていたそうだ。
「勤めに遅れるようなら声をかけようと思っていたが、おきよはちゃんと起きた。それどころか清五郎まで起き出して、飯を炊き始めたのには驚いたよ。まさか江戸に来て、息子が炊いた飯をご馳走になろうとは……」
「ああ、そうか。兄ちゃんたちは飯なんて炊かねえもんな」
からからと笑いながら、清五郎は釜の蓋を取って飯をまぜる。炊き加減も、蒸らし具合もちょうどいい、ぴかぴかの白飯だった。
「ほら、おとっつぁん! 息子の炊いた白飯だ!」
どたばたと父のところに行き、膳に茶碗をのせる。脇には佃煮の入った皿を添える。
これは、清五郎が蕎麦の屋台に寄ったときに、通りかかった振売が佃煮が売れずに困っていたのを気の毒に思って求めて以来、気に入って買い続けているものだ。日によって、昆布だったり小魚だったりするが、いずれもほどよい塩気で飯が進む。味噌汁と炊きたての飯と佃煮、それで一日働く元気がもらえた。
「ありがとよ。では、早速……」
父はまず飯を一口、追うように味噌汁を含む。そして、じっくり味わったあと、驚いたように言った。
「飯はほのかに甘いし、この味噌汁ときたら……。俺は鰹出汁も嫌いじゃないが、生臭いのに当たってうんざりすることがある。この味噌汁は香りも塩梅も抜群だし、生臭さは微塵もねえ」
「そりゃそうだよ。姉ちゃんは玄人だぜ。生臭い味噌汁なんて出すわけねえ」
「玄人なんて言わないで。まだまだ修業中なんだから」
「いやいや、いっぱしの料理屋でも生臭い出汁が出てくるときがある。立派なもんだ」
「おおかた、ちゃんと煮立たないうちに削り節を入れちゃったんでしょう。でも、おかしな話よね。昆布は煮立てちゃ台無しになるし、鰹は煮立てなきゃ生臭くなる」
同じ出汁なのに、こんなにもやり方が違うなんて、と首を傾げるきよに、父は大きく頷いた。
「まったくだな。そういう食材の質をひとつひとつ見極めて覚えなきゃならない。料理の道は大変だ」
「どの道も大変よ。楽な修業なんてないわ」
「確かに。俺も若い時分は大変だった」
「そういや、おとっつぁんの若い時分ってどんなだったんだい? やっぱりどこかに修業に行ったとか?」
「そうか、話したことがなかったな……」
清太郎や清三郎には話したことがあるが、清五郎にはそのうちと思っているうちに、逢坂を出ることになってしまった。せいは母親から聞いたと思うが、おまえは聞かなかったのか、と訊ねられ、きよは首を左右に振った。
「聞いたことないわ……」
「そうか。たぶんおたねも、せいはいつか嫁に行くだろうし、嫁ぎ先で親の素性も説明できないようでは困ると思ったのかもしれない。でもおまえは……」
「まあ、知らなくても支障ないわよね」
周りはもちろん、きよ自身も、嫁入りどころか家の外に出ることすら考えていなかった。心なしか、父の表情に申し訳なさそうな色が滲んだような気がする。慌ててきよは付け加えた。
「別に教えてもらえなかったことも、そのわけも不満に思ってたわけじゃないわ。確かにあのころの私にはどうでもいいことだったもの。でも、今はちょっと気になるっていうか……」
「そうか……なにが起こるかわからないものだな」
「ってことで、教えておくれよ、おとっつぁん。あ、ただし手短に。俺たち、出かけなきゃなんねえし!」
清五郎の明るい声で、父の話が始まった。
「俺はもともとは江戸の油屋の生まれでな。ま、油屋と言っても『菱屋』みたいな問屋じゃなくて、問屋から江戸に送られた油を売りさばくための出油屋だ。しかも俺は五男坊、いずれは外に出なきゃならねえってわかってたから、そりゃあ、一生懸命仕事を覚えた」
「一生懸命? 外に出るなら同じ仕事をするとは限らねえのに?」
別の仕事に就いてしまえば、油について学んだことが無駄になる。それぐらいなら、さっさとよそに修業に行ったほうが手っ取り早かったのではないか、と清五郎は言う。
だが、それは短慮というものだ、と父は笑った。
「覚えたのは、油についてだけじゃなく、商い全般についてだ。俺は職人よりは商人になりたかったし、いずれ店を持ちたいとも思ってた。となると、商いの事情を心得てるに越したことはない。それに、励んでいれば誰かの目に留まってうちの婿に……なんて話がこねえかなあ、って下心もあった」
娘しかいない店の主が、婿を取って跡を取らせるというのはよくある話だ。となると怠け者より働き者、知識がない者よりある者のほうがいいに決まっている。あわよくば誰かの目に留まって……とまで目論んだそうだ。
「俺の狙いはあながち的外れってわけでもなかった。その証に、ちゃんと『菱屋』に入れたし、源太郎さんって知り合いもできた。おかげでおまえたちも引き受けてもらえた」
めでたしめでたしだ、と父はひとりで悦に入る。
これには清五郎はきょとんとするし、それまで黙って聞いていたきよも、さすがに口を挟まずにいられなくなってしまった。
「ちょっと待っておとっつぁん。さすがに端折りすぎよ。それだけじゃ、どうやって『菱屋』に入って、どうやって『千川』の旦那さんと出会ったのかさっぱりわからないわ」
「そりゃそうだな」
あはは……と豪快に笑って父は話を足した。
それによると、当時父の実家に油を送っていたのが『菱屋』で、『菱屋』には息子どころか娘もいなかった。あまりに子どもが生まれないため、何度も嫁を変えてみたが、それでも授からない。もらい子でも引き取ればいいようなものだが、どうせなら赤ん坊から育てたいと拘った挙げ句、年を取り過ぎて赤ん坊からでは間に合わないことになってしまった。やむなく大人を養子にしようということで、すでに油の仕事に馴染んでいた父に白羽の矢が立ったという。
「ほかにも出油屋はいくつもあったが、店に残しているのは長男と次男ぐらいまでで、養子にもらってそのまま跡継ぎにできそうなのは稀だ。俺みたいに真面目で利口な男なんて、ほかにいやしなかったのさ」
「真面目で利口って自分で言わないでくれよ」
「俺じゃなくて、おとっつぁん……ああ、これは生みの親じゃなくて俺をもらってくれた『菱屋』のおとっつぁんのことだが、そのおとっつぁんが言ったんだ。五男なのに、こんなに真面目に家業に励むなんて素晴らしい。おまけに利口だ、ってさ」
「目論見どおりってわけか」
「そういうことだ。おまけに、もう許嫁もいたから、見たこともないへちゃむくれを押しつけられる必要もなかった」
「へちゃむくれって……ひでえな、おとっつぁん」
「そうは言っても、おまえが女に人気なのは、見てくれの良さのおかげでもある。俺の嫁がへちゃむくれだったら、とてもじゃないがこうはいかなかったぜ?」
「それだと、俺が見てくれだけの男みたいに聞こえるじゃねえか! 俺の気立てを気に入ってくれる女だって……」
「その気立てもおっかさん譲りだろう。俺みたいにただ頑固で厳しいだけだったら、女なんて寄りつきゃしねえ」
「寄りつきゃしねえ、か……。そういや俺、聞いたことがあるぜ。おっかさんは根負けしたんだってさ。江戸で生まれ育ったし、逢坂になんて行きたくなかったけど、おとっつぁんがあんまり嫁に来てくれ、来てくれってうるさいから」
清五郎にぶっちゃけられ、父は頬を真っ赤に染める。これも、見たことがない、きよの知らない父の姿だった。
「そんな話はどうでもいい。とにかく俺は江戸で勤めに励んだおかげで『菱屋』の目に留まって逢坂に行った。身につけたことを生かして商いを広げ、今の『菱屋』にしたんだ。てめえで言うのはなんだが、俺はよくやったほうだと思うぜ」
「そうだったのね……でも、おとっつぁん、それなら江戸の出油屋はどうなったの? 今でも商いをしているの?」
父は五男だったから逢坂の『菱屋』の養子になった。だが、実家が営んでいた店はどうなったのだろう。もしも今でも商いを続けているとしたら、なぜ清五郎と自分をその店に預けなかったのか。
そんなきよの問いに、父は一瞬口ごもり、そのあと盛大なため息とともに語った。
「実家の出油屋は……兄貴が賭博で潰しちまった。面白半分で手を出したら、うっかり儲かっちまった。だがそのうち……よくある話さ」
少しの金で膨大な儲けを得た父の長兄は、味を占めて賭場に入り浸るようになった。使う金が増え、そのうち負けが込むようになり、店の金にまで手を付けるようになったそうだ。
「賭場に嵌められたんだろうな……。うまいことやって儲けさせ、大がかりに遊び出したところで取り返し始める。店の金で負けてはそこでやめるわけにもいかねえ。なんとか穴を埋めねえとって、血眼になって賭場に入り浸る。元金欲しさに座頭金やら烏金やら渡り歩き、最後は尻の毛まで抜かれちまった」
「座頭金はまだしも、烏金はまずすぎる。とんでもねえ高利貸しなんだろ?」
一日限りの金貸しで、借りた翌朝烏が鳴くまでに返さねばならないとか、烏がかあ……と鳴くごとに利子が増えていくとかで『烏金』と呼ばれている。一時しのぎのつもりで借りた金の利子がかさみ、にっちもさっちもいかなくなって夜逃げ、あるいは首をくくる者もいると聞く。
清五郎が、恐る恐るといったふうに訊ねる。
「それで……おとっつぁんの兄貴たちは無事に済んだのかい?」
「無事なわけがねえ。主だった一番上の兄貴もほかの兄たちも軒並み行方知れず。どこでどうしているやら……」
「そっか……でも、おとっつぁんは難を逃れられてよかったな。借金取りだってさすがに逢坂までは押しかけてこねえだろ?」
「それがそうでもなかったんだ……」
さすがに兄たちは、逢坂に行った弟のことは隠し通そうとしたようだが、人の口に戸は立てられず、どこかから聞きつけた借金取りたちが逢坂に現れたという。
父が主になったあと『菱屋』の商いは順調に伸び、かなりゆとりがあった。実家の出油屋の株を持っていかれはしたが、おかげで残った借金はさほどでもなかった。ずいぶん肩身の狭い思いをしたし、隠居していた先代夫婦にもたっぷり嫌みを言われたけれど、なんとか払うことができたのだそうだ。
「そっか……それは大変だったなあ……。それでも兄さん連中は音沙汰なし?」
「ああ。ま、これも定めってやつだろう。俺は俺でやってくしかねえ、って腹をくくった。それに、あのときは兄貴たちの店のせいで難儀した客の手当てのほうが大事だった。仲買の株を買って店を始めたのがとんでもないやつでな。油の値段は吊り上げる、客の扱いはぞんざい……文句があるならよそから買えと言わんばかり。鞍替えしたくても出油屋の数は限られるし、江戸に送られてくる油の量だって決まってる。そう簡単に、今日からうちにも売ってくれ、とはならねえ」
「仲買がその有様じゃ、油が使えなくて困る人が出てきちゃったんじゃない?」
仲買は問屋から油を買って売りさばく。その油を売ってもらえなくて困るのは、実際に使っている人たちだ。
とりわけ『千川』のような料理茶屋は、料理だけではなく、日が暮れてからも商いをするために行灯油をたくさん使う。きよとしても、油の大事さは身に染みていた。
きよの懸念に、父は頷いた。
「おとっつぁんは、私たちを連れ戻しに来たって本当?」
「……聞いちまったのか」
「ええ。板長さんから……」
「連れ戻すって……俺も?」
「おまえじゃなくて、おきよの話だ。でもまあ……そこはおまえたちのおっかさん――おたねの深謀遠慮ってやつかもしれねえ」
「どういうことだい?」
清五郎の素っ頓狂な声に、父は苦笑いで答えた。
「まさかおまえがこんなにしっかりしてるとは思ってなかったからな。おきよを連れ戻したら一緒に帰ってくる、とでも思ったんだろ」
「いやいや、それはねえよ。だって、俺は侍の子相手に悶着を起こして江戸に逃げてきたんだぜ? 下手に戻ってあの侍親子に見つかったら、それこそ酷い目にあわされちまう」
酷い目どころか、命すら危ないと清五郎は言うし、きよもそのとおりだと思う。だが父によると、事情が変わったらしい。
「あの侍親子、国元に帰ったんだ。帰ったと言うより帰された」
「帰された? どういうことだい?」
「もともと理不尽な物言いをする連中だった。それは俺たち町人を下に見てのことだとばかり思っていたが、どうやら侍同士でも同じで、問題ばかり起こしていたらしい。挙げ句の果てに、言いがかりをつけては金をせびり始めて、これ以上蔵屋敷にはおいておけないってことで役を解かれたそうだ」
「ひええ……とんでもねえな」
「だろ? ま、そんなわけであいつらはもう逢坂にはいない。おまえたちが戻っても大丈夫ってわけだ。まあ、おたねは心配もさることながら、寂しいんだろうな」
長女のせいはとっくに嫁入りしたし、長男で『菱屋』の主の清太郎は所帯を持った。番頭を務める清三郎も近々嫁を取るという。子どもが次々と一人前になっていくのは嬉しい半面、残った子が気にかかる。あの侍親子はもういないし、離れたところで心配しているぐらいなら、いっそ呼び戻せばいい、とたねは考えたらしい。
「うーん、おっかさんらしいと言えばらしいけど、それって姉ちゃんはどうなるの?」
きよは双子の片割れ、忌み子として生まれ、隠されて育てられてきた。清五郎はきよが逢坂に戻ったらどうなるのかが気になるのだろう。
「おたねは、元どおりでいいじゃないかって……」
「元どおり、家から一切出ずに隠れて暮らせってこと? それってあんまりじゃねえか! こうやって外を知ったあとであんな暮らしに戻るのは酷すぎる!」
「だから、それはおたねの考えだよ」
父が宥めるように言うが、清五郎の勢いは止まらない。
「なにより、姉ちゃんは料理修業のまっただ中。いや、もう料理人として身を立ててるんだぜ? 今逢坂に戻られたら『千川』だって困る」
『千川』は本当に困るんだろうか……という疑問が頭を過る。元々いなかった人間、しかも店に出ていたのは一年ほどのことだ。きよがいなくなって、いきなり商いが後ろ向きになったりしないはずだ。
知らず知らずのうちに俯いていた。そんなきよに、父が窘めるように言う。
「おきよ、そんなふうに俯くから源太郎さんも、あの板長さんも気にかけるし、俺だって心配になる。家にいたころのおまえしか知らなければなおさらだ」
「家にいたころ……」
「ああ。人の目から隠れるのが習い性になってた。育ちを考えたら仕方ねえが……」
「そういや、そうだったな。姉ちゃんは、おとっつぁんの前でもなんかおどおどしてた」
「だからこそ、そんなんで客の前に出られるのかって心配になったんだ。でもまあ、今日の様子なら大丈夫だろう」
妙に得心している様子の父に、きよは思わず訊ねた。
「今日の様子ならって?」
「鰹の刺身に大根おろしじゃなくて辛子を添えたところも、汁の実を逢坂ではなかなか食えねえ納豆にしたのも、青菜をたっぷり入れたのも、全部俺の好みを入れてのこと。普段からさぞや客の好みを考えて料理をしてるんだろう」
「それはまあ……」
「それだけじゃない。なんて言うかな……目が違う。家にいたころとは段違いだ。おきよは育ちのせいか、年よりもずっと落ち着いていたし、気配りもあった。人、ものを問わず周りをよく見てもいた。それでもなお、ただ聡いとしか思わなかった。だが今は違う。目に力が入った。おそらく、これからの道、目指すところを見つけたからだろう」
「だよな! 俺もそう思う! そりゃあ確かに、板長さんや旦那さんの前では心配そうな顔をするときもあるが、客の前に出るとぴしっとするんだ。客のためになる、客に喜んでもらえるとなったら、板長さんにだって言い返しそうだ。なにより、姉ちゃんには江戸の水が合ってるし、逢坂に戻るなんてあり得ねえ」
「でも清五郎、そう言うあんたは?」
自分はここにいたい。江戸に来てから食べ物への気遣いが足りずに一度身体を壊した身としては、水が合っているかどうかは怪しいとは思うものの、江戸、そして『千川』こそが自分の居場所だと感じる。
だが、清五郎は違う。何せ『千川』では奉公人だが、『菱屋』では主の弟なのだ。いずれ番頭にだってなれるかもしれないし、周りの扱いも全然違うだろう。
「あんたは戻ったらいいよ。そのほうがおっかさんも喜ぶ。大丈夫、『千川』の皆さんはとても良くしてくれるし、長屋の人たちだって悪い人なんていない。私ひとりでもなんとかなるわ」
「馬鹿言ってんじゃねえ! 姉ちゃんは俺のために江戸まで来てくれた。散々世話になって、面倒もかけ倒したのに、あの侍親子がいなくなったからって姉ちゃんをひとりにして帰れるかよ! 俺はそんな恩知らずじゃねえ!」
「いいのよ、そんなことは……あんたが戻りたいなら、気にせず逢坂に……」
「戻りたくなんてねえよ。逢坂でもときどき店に出てたけど、しくじったところでこっぴどく叱られることなんてなかった。兄ちゃんたちは俺には甘かったし、周りにしても主の弟を叱りつけたりしねえ。俺はそれをいいことに、いい加減なことばかりやってた。当然、当てになんかされるわけがねえ」
「当てにされたかったの? てっきり、あんたは気儘に過ごしたいんだとばかり……」
「そりゃあがきのころなら気儘は楽しいさ。でも、いつまでもそんなじゃいられねえ。自分の口ぐらい自分で養わなくてどうする。ちゃんと自分なりの役目を果たして給金をもらう。それができてこそ一人前だし、そのためには江戸、いや『千川』を離れるわけにいかねえんだよ!」
「よく言った!」
清五郎の言葉に、父が膝を打った。
「本当に大人になった。おまえも、ようやく働くことの大事さがわかってきたんだな」
「遅まきながら、だけどな」
「じゃあ……あんたも一緒に江戸に残ってくれるの?」
「残ってやるっていうのはあんまりにも恩着せがましい。本当は、俺も江戸にいたいだけ。おっかさんには気の毒だけど……」
おそらく母は、清五郎の帰りを待ちわびているだろう。もちろん、きよのことも待っていてくれるにちがいない。それがわかっていても、戻りたくない。自分たちの暮らしはここにある、という確信があった。
「おたねのことは気にかけるな。子どもなんざ、いつかは巣立つものだし、そうでなくては困る。なあに、清太郎は所帯を持ったし、清三郎だって近々祝言。そのうち赤子だって生まれるはずだ。孫の世話で忙しくなれば、おまえたちのことを気にかける暇はなくなる」
「それはそれでちょいと寂しいなあ……。目に入れても痛くない息子と孫……どっちに軍配が上がるかねえ……」
「あんた、赤ん坊と張り合う気なの? 赤ん坊には太刀打ちできないに決まってるじゃない」
「残念無念……おっかさん、俺を忘れねえでくれよぉ……」
清五郎は最後の最後で、甘ったれの末っ子としか思えない言葉を吐く。やっぱり清五郎は清五郎よね、と呆れたところできよは我に返った。
「ごめんなさい。おとっつぁん、お腹が空いたわよね?」
「おとっつぁんだけじゃなくて、俺も腹ぺこだよ。手伝うからさっさと飯にしよう」
「ありがと。じゃあ、あんたはお膳の用意をしてね」
「ほいよ」
軽い返事で奥に向かった清五郎は、箱膳を運ぼうとして手を止めた。
「こいつは困った……姉ちゃん、おとっつぁんの分がねえ」
「あ……」
布団を忘れていたのだから当然、膳の用意もない。やむを得ない。自分の分を使ってもらおうと思っていると、父が自分の前に箱膳を置いた。驚いて訊ねると、日暮れ前に彦之助が届けてくれたものだという。
「彦之助さんが?」
「ああ。布団がないぐらいだから、膳も一式ないだろう。いらねえかもしれないが、ついでだからって……」
「ついで? でも布団は昼のうちに運んじまったじゃねえか。なんのついでだ?」
「実は、飯を届けてくれたんだ。店は大忙し、もしかしたらおきよたちの帰りが遅くなるかもしれねえ。空きっ腹は辛いだろうからってさ」
「飯だと? どんな?」
「田麩をまぜ込んだ握り飯。近頃『千川』で人気なんだってな。今は俺が引き受けてますが、もともとはおきよの考案、おきよの味付けです、って……」
旨かったよ、と父は嬉しそうに言う。一方、清五郎はきょろきょろとあたりを見回す。
「それって残っちゃいねえのか? あ、こいつだな!」
清五郎が、上がり框の脇に置いてあった風呂敷包みを見つけて歓声を上げる。大きさや形から見て、重箱が入っているらしい。少々小振りながらも二段、いや三段重ねだろう。
「残ってるよ。こんなにあっては食い切れるわけがない。それに、どうせならおまえたちと一緒にと思って、ひとつだけにしておいた」
うっかり食べたらあまりに旨くて、我慢するのが大変だった。いっそひとつかふたつしかなかったら、食い切ってしまえたのに、と父は苦笑いで言う。
「どうせおまえたちもくたくたで帰ってくるだろうから、晩飯をこいつで済ませられるようにって言ってたよ」
「本当だ。たっぷり入ってる。あ、お菜まで……。俺は青菜はあんまり好きじゃねえが、姉ちゃんは大喜びだ」
三人でも十分な数の握り飯と小松菜の胡麻和え、脇には香の物も入っている。朝作った味噌汁を添えれば立派な、いや普段からは考えられないほど贅沢な晩飯となる。
今日父が着くとは思っていなかったため、夕飯だってろくな用意がない。心の中で詫びながら、明日こそは……と思っていたのだ。それだけに、彦之助の気遣いが身に染みた。
「今度会ったら彦之助さんにしっかり礼を言わなきゃ。ってことで、ありがたくいただこうぜ! 味噌汁はちょいと足りねえけど、三人でわけっこしよう」
そう言うと、清五郎が冷えた味噌汁を三つに注ぎ分け、遅い夕食が始まった。
翌日、井戸端でよねに会った。
いつもどおりに礼を言って七輪を返すと、よねは明るい笑顔を見せた。
「おとっつぁんがおいでなんだね。楽しそうでなによりだ」
「ありがとうございます。あ、遅くまでうるさくしてすみませんでした!」
ただでさえ帰ったのが遅かったのに、それから彦之助が届けてくれた握り飯の話で盛り上がり、そのあともふたりの『千川』での修業ぶり、逢坂の家族や京の姉の様子などで話が弾んだ。
とりわけ清五郎は楽しそうで、ついつい声が大きくなっていたような気がする。自分たちは話に夢中だったけれど、隣のよねやはなにはさぞや迷惑だったことだろう。
ところが、申し訳なさに詫びるきよに、よねは大笑いだった。
「なに言ってんだい。久しぶりの親子水入らずじゃないか。賑やかなのは当たり前、あんまり静かだと、親子仲を心配しちまうよ」
「それはそうなんですけど、やっぱり……」
「そんなことで気を揉むんじゃないよ。うちだってしょっちゅう騒いでる。おまけにこっちは親子喧嘩だ。女が高い声できゃんきゃん言い合ってるのに比べれば、おきよちゃんたちの話し声ぐらいなんてこたあない。それにおとっつぁん、あんたたちの部屋に着くなり、挨拶に来てくれた」
「ああ、やっぱり……大家さんと一緒に?」
「ああ。大家さんが、この人はおきよちゃんたちのおとっつぁんだよ、ってさ」
よねによると、彦之助はまっすぐ大家のところに行き、三人揃って孫兵衛長屋に来たそうだ。まずきよたちの部屋に布団を置き、そのあと隣のよねに父を紹介してくれたという。思ったとおりとはいえ、なんともありがたい話だった。
「そうそう、お土産におこしまでもらっちまったよ」
「ああ、『岩おこし』ですね」
「それそれ。そう言ってた」
さっそく食べてみたところ、甘くて生姜や胡麻の風味がなんとも言えなかった、とよねは言う。どうやら逢坂名物のお菓子を気に入ってくれたようだ。
おとっつぁんによろしく伝えておくれ、と言ったあと、よねは鍋に削り節を入れる。手元には油揚げもあるから味噌汁に仕立てるのだろう。長々と話していては邪魔になるし、なによりきよが作った味噌汁も冷めてしまう。清五郎に任せてきた飯も炊きあがるころだ、ということで、きよは部屋に戻ることにした。
「姉ちゃん、飯は炊けてるぜ。さっさと飯にしよう!」
引き戸を開けるなり、清五郎が声をかけてくる。あまりにも元気な声だったため、父を起こしてしまう、と心配になったが、父はとっくに起きていて、布団もきちんと片付けられていた。せめてゆっくり寝てもらおうと、そっと井戸端に出ていったというのに、これでは台無しだ。
「おとっつぁん、ごめんなさい。ばたばたうるさかったわよね。これじゃあ朝寝もできやしない」
「心配いらねえよ。昨日は昼寝だってしたし、夜もぐっすり眠れた。これでも朝寝したほうだ」
いつもは日の出の前に起きている。今日も目は覚めていたが、清五郎やきよを起こしては気の毒と思って、そのまま横になっていたそうだ。
「勤めに遅れるようなら声をかけようと思っていたが、おきよはちゃんと起きた。それどころか清五郎まで起き出して、飯を炊き始めたのには驚いたよ。まさか江戸に来て、息子が炊いた飯をご馳走になろうとは……」
「ああ、そうか。兄ちゃんたちは飯なんて炊かねえもんな」
からからと笑いながら、清五郎は釜の蓋を取って飯をまぜる。炊き加減も、蒸らし具合もちょうどいい、ぴかぴかの白飯だった。
「ほら、おとっつぁん! 息子の炊いた白飯だ!」
どたばたと父のところに行き、膳に茶碗をのせる。脇には佃煮の入った皿を添える。
これは、清五郎が蕎麦の屋台に寄ったときに、通りかかった振売が佃煮が売れずに困っていたのを気の毒に思って求めて以来、気に入って買い続けているものだ。日によって、昆布だったり小魚だったりするが、いずれもほどよい塩気で飯が進む。味噌汁と炊きたての飯と佃煮、それで一日働く元気がもらえた。
「ありがとよ。では、早速……」
父はまず飯を一口、追うように味噌汁を含む。そして、じっくり味わったあと、驚いたように言った。
「飯はほのかに甘いし、この味噌汁ときたら……。俺は鰹出汁も嫌いじゃないが、生臭いのに当たってうんざりすることがある。この味噌汁は香りも塩梅も抜群だし、生臭さは微塵もねえ」
「そりゃそうだよ。姉ちゃんは玄人だぜ。生臭い味噌汁なんて出すわけねえ」
「玄人なんて言わないで。まだまだ修業中なんだから」
「いやいや、いっぱしの料理屋でも生臭い出汁が出てくるときがある。立派なもんだ」
「おおかた、ちゃんと煮立たないうちに削り節を入れちゃったんでしょう。でも、おかしな話よね。昆布は煮立てちゃ台無しになるし、鰹は煮立てなきゃ生臭くなる」
同じ出汁なのに、こんなにもやり方が違うなんて、と首を傾げるきよに、父は大きく頷いた。
「まったくだな。そういう食材の質をひとつひとつ見極めて覚えなきゃならない。料理の道は大変だ」
「どの道も大変よ。楽な修業なんてないわ」
「確かに。俺も若い時分は大変だった」
「そういや、おとっつぁんの若い時分ってどんなだったんだい? やっぱりどこかに修業に行ったとか?」
「そうか、話したことがなかったな……」
清太郎や清三郎には話したことがあるが、清五郎にはそのうちと思っているうちに、逢坂を出ることになってしまった。せいは母親から聞いたと思うが、おまえは聞かなかったのか、と訊ねられ、きよは首を左右に振った。
「聞いたことないわ……」
「そうか。たぶんおたねも、せいはいつか嫁に行くだろうし、嫁ぎ先で親の素性も説明できないようでは困ると思ったのかもしれない。でもおまえは……」
「まあ、知らなくても支障ないわよね」
周りはもちろん、きよ自身も、嫁入りどころか家の外に出ることすら考えていなかった。心なしか、父の表情に申し訳なさそうな色が滲んだような気がする。慌ててきよは付け加えた。
「別に教えてもらえなかったことも、そのわけも不満に思ってたわけじゃないわ。確かにあのころの私にはどうでもいいことだったもの。でも、今はちょっと気になるっていうか……」
「そうか……なにが起こるかわからないものだな」
「ってことで、教えておくれよ、おとっつぁん。あ、ただし手短に。俺たち、出かけなきゃなんねえし!」
清五郎の明るい声で、父の話が始まった。
「俺はもともとは江戸の油屋の生まれでな。ま、油屋と言っても『菱屋』みたいな問屋じゃなくて、問屋から江戸に送られた油を売りさばくための出油屋だ。しかも俺は五男坊、いずれは外に出なきゃならねえってわかってたから、そりゃあ、一生懸命仕事を覚えた」
「一生懸命? 外に出るなら同じ仕事をするとは限らねえのに?」
別の仕事に就いてしまえば、油について学んだことが無駄になる。それぐらいなら、さっさとよそに修業に行ったほうが手っ取り早かったのではないか、と清五郎は言う。
だが、それは短慮というものだ、と父は笑った。
「覚えたのは、油についてだけじゃなく、商い全般についてだ。俺は職人よりは商人になりたかったし、いずれ店を持ちたいとも思ってた。となると、商いの事情を心得てるに越したことはない。それに、励んでいれば誰かの目に留まってうちの婿に……なんて話がこねえかなあ、って下心もあった」
娘しかいない店の主が、婿を取って跡を取らせるというのはよくある話だ。となると怠け者より働き者、知識がない者よりある者のほうがいいに決まっている。あわよくば誰かの目に留まって……とまで目論んだそうだ。
「俺の狙いはあながち的外れってわけでもなかった。その証に、ちゃんと『菱屋』に入れたし、源太郎さんって知り合いもできた。おかげでおまえたちも引き受けてもらえた」
めでたしめでたしだ、と父はひとりで悦に入る。
これには清五郎はきょとんとするし、それまで黙って聞いていたきよも、さすがに口を挟まずにいられなくなってしまった。
「ちょっと待っておとっつぁん。さすがに端折りすぎよ。それだけじゃ、どうやって『菱屋』に入って、どうやって『千川』の旦那さんと出会ったのかさっぱりわからないわ」
「そりゃそうだな」
あはは……と豪快に笑って父は話を足した。
それによると、当時父の実家に油を送っていたのが『菱屋』で、『菱屋』には息子どころか娘もいなかった。あまりに子どもが生まれないため、何度も嫁を変えてみたが、それでも授からない。もらい子でも引き取ればいいようなものだが、どうせなら赤ん坊から育てたいと拘った挙げ句、年を取り過ぎて赤ん坊からでは間に合わないことになってしまった。やむなく大人を養子にしようということで、すでに油の仕事に馴染んでいた父に白羽の矢が立ったという。
「ほかにも出油屋はいくつもあったが、店に残しているのは長男と次男ぐらいまでで、養子にもらってそのまま跡継ぎにできそうなのは稀だ。俺みたいに真面目で利口な男なんて、ほかにいやしなかったのさ」
「真面目で利口って自分で言わないでくれよ」
「俺じゃなくて、おとっつぁん……ああ、これは生みの親じゃなくて俺をもらってくれた『菱屋』のおとっつぁんのことだが、そのおとっつぁんが言ったんだ。五男なのに、こんなに真面目に家業に励むなんて素晴らしい。おまけに利口だ、ってさ」
「目論見どおりってわけか」
「そういうことだ。おまけに、もう許嫁もいたから、見たこともないへちゃむくれを押しつけられる必要もなかった」
「へちゃむくれって……ひでえな、おとっつぁん」
「そうは言っても、おまえが女に人気なのは、見てくれの良さのおかげでもある。俺の嫁がへちゃむくれだったら、とてもじゃないがこうはいかなかったぜ?」
「それだと、俺が見てくれだけの男みたいに聞こえるじゃねえか! 俺の気立てを気に入ってくれる女だって……」
「その気立てもおっかさん譲りだろう。俺みたいにただ頑固で厳しいだけだったら、女なんて寄りつきゃしねえ」
「寄りつきゃしねえ、か……。そういや俺、聞いたことがあるぜ。おっかさんは根負けしたんだってさ。江戸で生まれ育ったし、逢坂になんて行きたくなかったけど、おとっつぁんがあんまり嫁に来てくれ、来てくれってうるさいから」
清五郎にぶっちゃけられ、父は頬を真っ赤に染める。これも、見たことがない、きよの知らない父の姿だった。
「そんな話はどうでもいい。とにかく俺は江戸で勤めに励んだおかげで『菱屋』の目に留まって逢坂に行った。身につけたことを生かして商いを広げ、今の『菱屋』にしたんだ。てめえで言うのはなんだが、俺はよくやったほうだと思うぜ」
「そうだったのね……でも、おとっつぁん、それなら江戸の出油屋はどうなったの? 今でも商いをしているの?」
父は五男だったから逢坂の『菱屋』の養子になった。だが、実家が営んでいた店はどうなったのだろう。もしも今でも商いを続けているとしたら、なぜ清五郎と自分をその店に預けなかったのか。
そんなきよの問いに、父は一瞬口ごもり、そのあと盛大なため息とともに語った。
「実家の出油屋は……兄貴が賭博で潰しちまった。面白半分で手を出したら、うっかり儲かっちまった。だがそのうち……よくある話さ」
少しの金で膨大な儲けを得た父の長兄は、味を占めて賭場に入り浸るようになった。使う金が増え、そのうち負けが込むようになり、店の金にまで手を付けるようになったそうだ。
「賭場に嵌められたんだろうな……。うまいことやって儲けさせ、大がかりに遊び出したところで取り返し始める。店の金で負けてはそこでやめるわけにもいかねえ。なんとか穴を埋めねえとって、血眼になって賭場に入り浸る。元金欲しさに座頭金やら烏金やら渡り歩き、最後は尻の毛まで抜かれちまった」
「座頭金はまだしも、烏金はまずすぎる。とんでもねえ高利貸しなんだろ?」
一日限りの金貸しで、借りた翌朝烏が鳴くまでに返さねばならないとか、烏がかあ……と鳴くごとに利子が増えていくとかで『烏金』と呼ばれている。一時しのぎのつもりで借りた金の利子がかさみ、にっちもさっちもいかなくなって夜逃げ、あるいは首をくくる者もいると聞く。
清五郎が、恐る恐るといったふうに訊ねる。
「それで……おとっつぁんの兄貴たちは無事に済んだのかい?」
「無事なわけがねえ。主だった一番上の兄貴もほかの兄たちも軒並み行方知れず。どこでどうしているやら……」
「そっか……でも、おとっつぁんは難を逃れられてよかったな。借金取りだってさすがに逢坂までは押しかけてこねえだろ?」
「それがそうでもなかったんだ……」
さすがに兄たちは、逢坂に行った弟のことは隠し通そうとしたようだが、人の口に戸は立てられず、どこかから聞きつけた借金取りたちが逢坂に現れたという。
父が主になったあと『菱屋』の商いは順調に伸び、かなりゆとりがあった。実家の出油屋の株を持っていかれはしたが、おかげで残った借金はさほどでもなかった。ずいぶん肩身の狭い思いをしたし、隠居していた先代夫婦にもたっぷり嫌みを言われたけれど、なんとか払うことができたのだそうだ。
「そっか……それは大変だったなあ……。それでも兄さん連中は音沙汰なし?」
「ああ。ま、これも定めってやつだろう。俺は俺でやってくしかねえ、って腹をくくった。それに、あのときは兄貴たちの店のせいで難儀した客の手当てのほうが大事だった。仲買の株を買って店を始めたのがとんでもないやつでな。油の値段は吊り上げる、客の扱いはぞんざい……文句があるならよそから買えと言わんばかり。鞍替えしたくても出油屋の数は限られるし、江戸に送られてくる油の量だって決まってる。そう簡単に、今日からうちにも売ってくれ、とはならねえ」
「仲買がその有様じゃ、油が使えなくて困る人が出てきちゃったんじゃない?」
仲買は問屋から油を買って売りさばく。その油を売ってもらえなくて困るのは、実際に使っている人たちだ。
とりわけ『千川』のような料理茶屋は、料理だけではなく、日が暮れてからも商いをするために行灯油をたくさん使う。きよとしても、油の大事さは身に染みていた。
きよの懸念に、父は頷いた。
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